02:この胸に灯る徽章




「さて、物体が自由落下するとき重力加速度……gravitational acceleration というものが生じます。右のグラフは真空に近い状態でリンゴが落下しているときの v-t グラフ。このグラフの傾きが一定であるので、この運動は等加速度直線運動であることがわかります。ではまず子手始めにこの直線の傾きを答えてもらいましょう」


春の暖かな陽気。食後ということもあり、午後は眠くなるに決まっている。ノヴ先生の物理学は彼がイケメンということもあって一部の生徒(三年生のパーム=シベリア先輩はサイコであまりにも有名)には熱狂的支持があるらしいが、私はそこまでノヴ先生に興味はないので完全におねむ、というか物理学など小難しいものは苦手なのでまともに聞いてはいなかった。
なので、こういう時に非常についてないと思う。


「ミス・ブライス。答えたまえ」
「うぇっ」

まったく授業を聞いていなかったのに突然指名された時の絶望感。しかも先生は単位に厳しいノヴ先生。思わず変な声が出てしまった。


「どうしました?起立をしたまえ」
「いえ、その……はい……」


そもそも問題さえ聞いていなかったのでもう一度お願いしますなんてとってもじゃないけど聞にくい雰囲気。特にノヴ先生は冷淡なタイプなので余計だ。えーと、なんて言ってたっけか、重力加速度だったっけ……?


「ミス・ブライス、答えは?」
「えーと、その……わ、わかりません。すみません」
「全く、こんな事も分からないのですか。この世界は物理学無くしては成り立たない。それを今基礎から学習しているというのに」


ノヴ先生の能力、ハイドアンドシーク。物理法則を無視するような能力の奴にそんな事言われたくない……と思わずにいられない。しかしツカサは反論するだけおそらくペナルティが課されるだろうから口を閉ざしておいた。大人だった。



「では次の者が答えまえ。隣のヘルマプロディトス」
「はい」


ジュリアはノヴ先生の指名にため息をついた。そのため息はきっと愚かな私にがっかりしたことからくるものだろう。しかし、彼女は胸を張って立ち上がった。

その出で立ちから、きっとジュリアは答えがわかっているようだった。きりりと整ったその眉が知性を覗かせる。神様は残酷だ。ただでさえ美人なのに、知性をも彼女に授けるなんて。私にも少しくらい分け与えてくれよ、と心の中で舌打ちをした。

そしてジュリアは凛とした姿勢で、その美しい顔と声を持ってして教室中に響き渡るように答えた。





「全くわからないわ」




シーン……。
ここまでこの効果音がしっくりくる場面もそう無い事だろう。


「……君、自信満々に起立したじゃないか」


ノヴ先生はずり落ちた眼鏡を掛け直しながらジュリアを咎めた。確かに、あの凛とした起立は問題の答えがわかっている者の雰囲気だった。私もてっきりそう思い込んでしまった。


「自信はあるけど?けれどわからないものはわからないわ」


超理論を展開するジュリアに、ノヴ先生は顔を引き攣らせる。
自信はあるけど、わからないものはわからない……?つまり答えはわからないのに答える自信があったということか?それとも自分に自信はあるということで答えをわかっていないこととは関係は無いということか?ん?


「そもそも、こんなものの答えを知って何だというのかしら。わかったら偉いのかしら。社会に出たら役立つのかしら。ならば具体的に教えて頂戴、まずは社会のどういった事にこの問題が役立つのかを。教職員方にはまずその姿勢を示して頂きたいわね。それが無いのなら、私にその問題の答えを示す義務は無いわ」


その真っ向から反論する姿勢にまさに正論を言っているかのように聞こえるが、内容は勉強を嫌がる小学生の言うことと同じくらいの駄々である。よくよく隣のジュリアのノートをチラリと盗み見ると、ノートは真っ白だった。教科書には、万有引力の法則を発見した偉人アイザック・ニュートンの肖像画にヒゲを書き加えたりと意味の無い落書きがされてあり、まったくと言って良いほど勉学の姿勢は伺えない。

……いやまさか、もしかしてだけど……唯一の友人に失礼かもしれないけど…………ジュリアはそれなりにアホなのでは……。

疑念が脳裏を過ぎった。神は二物を与えずとはこの事だ。神様は残酷だった。


そして押し黙るノヴ先生。ノヴ先生相手にこんな態度を示す生徒はこれまでに存在しただろうか。きっといないだろう。黙ってしまうのも無理はない気がした。そしてジュリアは何故か勝ち誇った笑みを浮かべ、王者の貫禄で着席した。


ノヴ先生は妖しく光る眼鏡を掛け直し、静けさ漂う教室に呟くような声で言った。



「……答えられなかったミス・ブライスはテキスト13から18まで課題とする」
「何で!? いやジュリアは!?」
「授業を続ける」


私の突っ込みは完全にスルーされた。
ジュリアはあんた大変ね、と憐れみの視線をこちらへ向けてきた。同情甚だしい。ジュリアがノヴ先生を無駄に煽らなければ課題なんて無かったかもしれないのに!と恨みがましい視線を送ったが、ジュリアは何処吹く風でそっぽを向いた。











『蜘蛛』『幻影旅団』。それは仮の名称であり、この学園ではある一つの組織を示す。ハンター学園生徒会執行部。それが彼らの真の姿だ。

生徒会には、生徒会長、副会長、書記、会計、庶務の席がある。生徒会長は一席であるが他の役員には複数席を設けられており、会長以外の役職については、会長が指名しなければ一人が兼任することもある。しかし生徒会長以外の役職については公募も可能だが会長による指名も可能であるため、事実上内輪を形成されることがしばしばある。





「……ヒソカの野郎は今日も来ないのか」


書記、フランクリン=ボルドーは席を見渡して呟いた。そんなサイズのブレザーがよく用意出来たなと思われる程の巨体に、長い耳朶と生々しい顔の傷が印象的な大男。その学生とは思えない落ち着いた重鎮なる佇まいに本当に同い年なのかと年齢的な意味で彼の在籍を疑念視する声が時折ある。


「ヒソカ来るわけないね。普段の集まり蔑ろにする。あいつ嫌いよ」


庶務、フェイタン=ポートオはポケットに手を突っ込みながら座る。春だというのにネックウォーマーを首に巻き、そこに顔を埋めているやや小柄な少年だった。本来のサイズより大きめの制服を身に纏っており、袖手が大きく隠れるほどのその緩さがさらに少年感を増している。彼曰くそれは暗器を隠し持つ為であると言う。暗器所持は勿論校則違反である。


「つーかよォ、あの野郎一年だろうが?何故蜘蛛にいるんだ?」


庶務、ウボォーギン。巨体であり蜘蛛随一の怪力を持つ。一応制服は着ているもののシャツはどうしてそんなにと思われる程破けており、野性味溢れるその豪快な性格と強さと想像以上の気の良さに男のファンが一定数存在する。反してあまりのその野獣感に女子には人気がなく、それを本人は少し気にしている節がある。


「あ、はい。私もそれ、ちょっと思ってました」


書記、シズク=ムラサキは挙手をした。きっちり結えられた胸のネクタイ、制服のスカートは膝丈を守っており、この面子の中ではその学生らしい地味さが唯一尊い。しかしその真面目そうな風貌に似合わぬシルバーの逆十字のアクセサリーだけが、違和感を纏わせている。そのルックスから一部のマニアに絶大な人気がある。


「ふざけた成りだけど、ヒソカは会長の指名制による選出よ。次の生徒会選挙で正式に彼奴の席を発表する予定になっているわ」


会計、パクノダ。鷲鼻が特徴的であり、制服では隠しきれないグラマーなモデル体型だ。靴下でなくパンティストッキングを履き惜しげも無くその美脚を晒しているが、暗黙のルールで彼女へのセクハラ行為は絶対回避を推奨されている。


「ま、一年内部にも駒は必要だろ。そこんところは会長に任せるぜ、俺ァ」


庶務、ノブナガ=ハザマ。ざんばらに長い黒髪を下ろし刀を常に帯刀しているため陰ではサムライと呼ばれるが、髪を結わえるとチョンマゲと言われてしまっている事に全く気付いていない。


「俺も同感だ。会長の意向に文句は無い。俺達はあくまでも蜘蛛の手足、そこに意思は無い」


庶務、ボノレノフ。制服の下に包帯を巻きその素顔を隠している。その身体的特徴故にどんなに暑い夏でも衣替えを絶対にせず、基本的に寡黙であるため、その不気味さから他生徒に避けられる。一族の踊りが大好き。ときどき一族伝承の踊りを披露することによりご乱心と騒がれてしまう。


「どうでもいいよ。待ってても仕方ないしさっさと始めよう」


会計、マチ=コマチネ。鮮やかな桃色に染色された髪をポニーテールに結った、細身の女子。靴下は指定のものではなく、以前流行したルーズソックスを履いており、制服は着崩している。可愛らしい顔に似合わぬ姉御感が、一昔前の女ヤンキーの姿を彷彿とさせる。


「仕方ねえな、あの野郎は。ま、居なくてもかまやしねえけどよ。どうする?会長」


庶務、フィンクス=マグカブ。眉のない強面、筋肉質な体から、まさに体育会系野郎という印象である。またシャツを着ずにジャージの上にブレザーを羽織るという服のセンスを発揮していることから洒落っ気とは無縁の様子がある。しかもジャージの胸元にはご丁寧にもきっちり縫い付けられたマグカブという苗字がその意外な几帳面性を垣間見せる。



「そうだな……」


会長、クロロ=ルシルフルは顎に手を添えて彼らに応えた。模範のように制服を纏っている。ルシルフル会長の正統派を匂わせるその佇まいがよりカリスマ性を際立たせる。しかしその額には十字が描かれ、それが唯一の反骨精神の象徴のように感じられた。彼を中心に集う十二人、それが生徒会執行部であり、その生徒会にしてはやたらと多い人数であるにも関わらず暗躍を続けるその姿こそが『蜘蛛』『幻影旅団』と呼ばれる所以である。


「シャルナークとコルトピが居ないが。二人はどうした?」
「どっかで道草でも食ってんだろ」
「困ったな。副会長の報告無くあまり事を進めたくはないんだが」
「ああ、シャルに動向調査させてたんだっけね」
「この学園の中には一つの社会基盤が成り立っている。それを自治するためには少なからず生徒達の要望や動向を知る必要があるからな」


それは実質的に、副会長が会長の右腕的存在であることを意味していた。情報を制するものが戦を制するとも言われているように、確実で生きた情報をクロロ=ルシルフルは重視している現れだった。


「ごめん!おまたせ、皆」


ガラッと、生徒会室の扉が開く音が響く。皆がそちらへ振り返ると、生徒会副会長シャルナーク=リュウセイと、庶務コルトピ=トノフメイルが現れた。


「シャルナーク、てめえ遅ぇぞ」
「ごめんごめん、ちょっとね」
「何だ?誰かと闘り合ってきたのかよ」
「そうじゃないよ、ちょっと調査内容を纏めたりしててね」
「何だ、つまんねーなー…………お?」


クンクン、と誰かから香る異臭に、蜘蛛の切り込み隊長フィンクスは鼻を鳴らした。


「……シャル、お前すげぇ臭いんですけど。どした?」


それを皮切りにノブナガ、ウボォーギンがシャルナークに近寄る。


「ホントだ。何だこれ、何の臭いだ?どっかで嗅いだことのあるような臭いだな……」
「うわ……なんか乳くせえ臭いというか……」
「おいマジかよ、シャルナークお前まさか……」


シャルナークに向けられる疑惑の目。シャルナークの全身から臭う、なにやら甘ったるい、乳臭い匂い……。皆ゲスを見るかのようにシャルナークに目線を向けた。


「いやっ、いやいやいや違うから!何を想像してるか知らないけどたぶん違うから!これはプリン牛乳を誰かに掛けられたんだよ!」
「ああ?プリン牛乳?どーりで乳くせえと思ったぜ」
「そりゃー災難だったな」
「つーか何で避けなかったんだよ」


シャルナークが必死に弁明しているところに、またもやガラッと生徒会室の扉が開く音がした。



「やあ、待ったかいみんな」


顔にペイント、鮮やかな赤い髪が特徴的な、生徒会NO.4、ヒソカ=モロウが髪をかきあげながら現れた。彼の役職は未だ選定されてはいないが、次期生徒会への選出がクロロ=ルシルフル会長の指名により決まっている。


「ヒソカ……てめえ社長出勤か、コラ?そのドタマ今すぐ床に擦り付けて謝れば許してやらなくもねえぞ?」
「クク、怖いなあ。ちょっと遅れちゃっただけじゃないか、そんなに躍起になるなよ、フィンクス」
「普段なら来ない癖に何だって今日来やがった、ヒソカ」
「さてね。今日は少しイイことがあったから気が向いただけさ」
「良いことだァ?」
「フィン。ヒソカに突かかるだけ時間の無駄よ」


フェイタンの牽制にフィンクスはムッと怒りを堪えた。
ヒソカは何かを思い返すようにその切れ長の瞳に瞬く長い睫毛を伏せ、少し笑った。なんなんだコイツは、とフィンクスは眉を顰めたがそれ以上追求するのも馬鹿らしいと思い、「チッ」と悪態を吐いた。



「それにしても……なんだい、この臭いは。なんだか臭いね」


そしてヒソカも同じようにその異臭に顔を顰めた。


「シャルの阿呆が頭からプリン牛乳被っちまったんだとよ。だっせーぜ。ぶはははっ!」
「乳くせえから着替えてこいよォ、シャル?」
「あーもう、生徒会だからって急いで来てやったのに、みんなホント酷いよね。せめて労ってくれてもいいんじゃないの」
「普段からのアンタの素行が悪いからだろ」


誰もシャルナークを擁護するでもなく雰囲気に彼はむっと顔を膨らました。


「…………プリン牛乳?」


その中、ポツリとヒソカが呟いた。


「何か思い当たる事でもあるのか?ヒソカ」
「それ、今日ボク買ったよ」


静かな湖面に投げられた石のように、一瞬その場は静まり返った。


「……てめぇが犯人かよ!?」
「ああ、違う違う。ボクは買っただけでプリン牛乳自体は譲渡した。というか奢ったってだけなんだけどね。だってそれ美味しくないだろ」


プリン牛乳を買ったが誰かに譲渡したというヒソカ。ということは、その誰かがシャルナークにプリン牛乳を吹っ掛けた張本人の可能性があるということだ。


「ヒソカ、そのプリン牛乳を誰に渡した?」
「ボクのお気に入りさ。なかなかの青い果実だからキミに教えたくはないなあ。教えたらどうするんだい?シャルナーク」
「決まってるだろ、代償を払ってもらう。やられたらやり返すのが俺達の信条だろ」
「尚更だね。頭を冷やしなよ。もう一度プリン牛乳でね」


決してそれが誰かであることを話そうとはしないヒソカに、シャルナークは青筋を立てた。一触即発。何かの物音が立とうものなら、それを皮切りに戦闘が始まりそうな空気。ヒソカはトランプを切り、シャルナークはアンテナを手元に忍ばせた。



「そこまでだ。シャル、ヒソカ……」


しかし、クロロがそれを制した。
その襟に輝く生徒会長の徽章がちらつく。徽章とは、その者の身分や職業や階級を示す印のことだ。クロロ=ルシルフルが持つそれは、ハンター学園生徒会執行部の象徴が金の細工により掘られている。その徽章はこの学園では彼のみが装着・所持を許され、それこそがハンター学園生徒会長の証である。



「会員同士のマジ切れは禁止だ。自治会が自治を乱すな」
「でもクロロ、」
「シャル、お前ならその人物を特定するに難渋はしないだろう。ヒソカはその人物を庇っているように見える……闘りあってもその個人名を言うとは思えないが」


ヒソカはクロロのその指摘に目を細めた。
そう、言うつもりなんて無い。彼女はボクの青い果実で、彼らにその存在が知られるのは、まだ早い。それに、ボクがここに居る目的は生徒会への従事の為ではないから。

シャルナークはクロロの言葉に口を尖らせていたが、大人しくその殺気を引っ込めた。


「はあ……わかったよ。こっちでそいつは探す」
「ヒソカもそれでいいな?」
「ククク……オーケー、会長」
「会員同士の喧嘩は御法度、これは学園の自治を保つ上で必要な蜘蛛のルールだ。忘れるな。それと……」



一旦、間を置くクロロ。





「……プリン牛乳は不味くなどない」


その一言に、一同が黙りこくった。プリン牛乳の唯一の愛好者がここにも一人居た事を、その場の皆が忘れていた。









「ジュリアさん、恨んでますからね」
「何で私を恨むのよ。恨むならノヴ先生の横暴を恨んで二度と授業の出来ない体にしてやりなさいよ」
「いやそこまでは恨んでない……」


物理の授業が終わった、放課後。クラスメイトたちは各々部活や帰途に着き、教室は閑散としていた。
私は隣の彼女にじっとりとした恨みがましい視線を送ったが、ジュリアは完全にスカした様子だ。私だけ課題を言いつけられたというのに、それを気にする素振りは一切ない。


「はーあ、さっきはもう本当に肝が冷えたよ……」
「たかがあれくらいの啖呵でビビって仕方の無い子ね、ツカサ 」
「いや誰でもビビるでしょ……ノヴ先生は気に入らない生徒にはすんごい差別的な先生で有名なんだよ。クビキリだよ。もしかしたらジュリア、単位貰えなくなっちゃうよ?」
「テストで点を取れば単位なんて落とす事は無いでしょう」
「え?でもジュリア……さっきの問題も答えられなかったのに、テスト自信あるの?」
「有るわよ」
「え?」
「私を誰だと思っているのよ、お馬鹿さん」


私の額をこつん、とつつくジュリア。女性にしては思った以上に強いデコトンに「いでっ」と声が出た。それを気にする様子もなく、ジュリアは腕を組んで高らかに微笑んだ。


「カンニングには自信有るわ。私腕が良いのよ」
「そっちの自信!?いやダメだよジュリア」


カンニングなんて見つかろうものなら即罰則だろう。見つからなければ単位取得出来るが、それは学園生活を危うくさせる諸刃の剣だ。私は悪の道に手を染めるたった一人の友人を失いたくはない。


「しっかり勉強しようよ。せっかく苦労して入った学園なんだし」
「あら、私別にこの学園に執着なんてしてないのよ」
「え?そうなの?」
「どうしてこの私が昼も夜も惜しんで勉強してこの学園に死に物狂いで入学したと思うの?有り得ないでしょう」
「入りたくなかったってこと?」
「そうではないわ。入学してもしなくてもどちらでも良かった、けれど結果的にそうなった。ただそれだけよ」


確かに、悪い意味で唯我独尊を貫くこの尊大なジュリア=ヘルマプロディーテが受験のために勉強する姿なんて想像出来ない。それにどちらでも良かったなんて、その意味がわからなかった。


「それなら……ジュリアがこの学園にいる一番の目的って?」


ハンター学園は……、何か特別な才が無ければ入学出来ない。ジュリアはその絶世の美貌を買われてここにいることだろう。しかし、ここに居ることをその性格からはわからないが、あまり肯定的でいる様子がない。

ジュリアは、私の質問に少し黙る。そしてその後に、彼女は美しい流し目で私を見遣った。



「まだあんたがそれを知るには早いわ」
「えー、どういうこと?」
「少し複雑で厄介なの。あんたがもう少し成長したならきっとその内にちゃんと教えてあげる。だから、それまで覚悟して待っていなさい」
「あ、教えてくれるんだ」
「……だから、私から離れては駄目なんだからね、ツカサ」


ジュリアは、私の顎を撫でるように持ち上げ、私にそう言い聞かせた。「いいわね」と訴えるその物憂げな瞳が、少し悲しそうにも見えた。


「ジュリア……?」
「何よ。ブサイクなアホ面で」
「ひ、ひど!」


いつものツンデレに戻ったジュリアはいつもの通りに毒を吐いた。


「ところで、あんたは?」
「へ?」
「入学した目的よ。あんたはここで何をしたい訳?」
「あ、うん」


そういえば、ジュリアにそれを詳しく言ったことは無かったかもしれない。隠してもなかったけれど。ジュリアのその言葉に、私はおもむろに首周りをごそごそと漁った。その行動にジュリアは訝しんだ様子を見せる。


「これです」
「何よこれ」


ちゃり、と音が首元で鳴った。ネックレスだ。
ジュリアはそれをじーっと見ると、それが何かわかったように驚く顔を見せた。


「あんたこれ……生徒会長の徽章じゃない」
「あ、知ってるんだ。さすがジュリア」
「どうしてツカサがこんなものを持ってるのよ?」


ネックレスの先に揺れるのは、少し古びた、小さな徽章。
それはこのハンター学園生徒会長職の者のみが装着を許される唯一の徽章であり、金に輝く細やかな細工がその格を示している。私はいつもこれをこの胸に下げ、温めている。


「これお兄ちゃんのなんだ」
「あら、あんたにお兄様がいるなんて。まさか生徒会長をしていたの?」
「うん、そう。もう五年も前だけどね」
「すごいことじゃない。ここで生徒会長を務めるくらいなのだからきっとあんたとは比べものにならないくらい優秀な兄上なのでしょうね」
「ジュリアひどいよ…………うん、まあでも、そうかな」
「お兄様は今何をされてるの?」
「もういないよ」
「え?」
「五年前に死んじゃったんだ」


ジュリアは、思わずツカサの顔を伺った。
しかしツカサはジュリアの想像した以上に、悲しみも苦しみもない表情で、その徽章を眺めていた。負の感情を混ぜた想いは見当たらず、しかし光も吸収せず、ただ時の止まったその美しい思い出だけを反芻するかのような、ツカサの透き通った瞳だけがそこにあった。


「卒業式の前の日に交通事故でね」
「……そう」
「私にはジュリアみたいに何か特別なものなんてないんだけど、進学するならここしかないと思って受験してみたらなんか受かっちゃって。それで今に至るんだけど」
「なら、ここを卒業することが、あんたの目的って訳?」
「違うよ」


確かに、兄が成し遂げられなかった卒業をするのも目的の一つではあるかもしれない。弔いのつもりもある。けれど、私には、それ以上に追いたいものがある。


「私は……兄がここで何を成し遂げたかったのかを知りたいの。あの人が望んだ完璧な世界。いつか教えてくれたことがあったけど、それは幼い私には、少し難しかったから」


遠のいたパーフェクト・ワールドは、この道を歩く先できっと私を待っている。

ーーーこの徽章は、兄が死んだ時に胸元に虚しく光っていた希望だ。悲しみは否めないけれど、生徒会長を務めたあの人の想いすべてがこれに詰まっている。それを私は胸に抱く。



「馬鹿ねあんた」
「えーっ」
「馬鹿も大馬鹿よ。理解できない。間抜けで愚かしくて仕方ないわ」
「そ、そこまで言いますか……」
「ツカサの人生はツカサのものなのよ。一度きりの人生、一度きりの青春、一度きりの時間。死んだ人の想いを探し回ってどうするつもり?」
「…………。」
「きっとお兄様もそんなことまでは望んじゃいないわ」


確かに、兄も生きていたならきっとそう言うかもしれない。ジュリアはふう、と溜息を吐くと、続けて言った。


「まあ、でも、ツカサらしい理由ね」
「え?」
「あんたがそうしたいならそうすればいいわ。それがあんたの人生なら。仕方ないから隣で見守ってあげなくもないけれど?」


ジュリアは髪をかきあげ、私からそっぽを向いた。私はそんな彼女の横顔を見たくて、彼女の袖を引いた。


「……何よ?」
「ジュリアって綺麗だよね」
「は?」
「ちょっと口は悪いけど。でも心はすごく真っ直ぐに素直で、本当にそれが綺麗。私にはジュリアくらい綺麗な子は勿体ないけど、隣にいてくれるだけで私もジュリアみたいに綺麗でいたいって思い返すことができる」
「何よそれ」
「だから隣にいてくれるなら嬉しい。お願い、見守っててね」


またジュリアはそっぽを向いた。そして沈黙の後に「帰るわよ」と呟いた。私は笑顔で頷き、公道を闊歩して先導を歩き始めた彼女にてくてくと着いていく。その後もずっと彼女は黙っていたが、それはなんとも心地よい沈黙だった。



帰途の分かれ道に差し掛かったところで、私はジュリアに手を振ってさよならを言った。やはりジュリアは沈黙だったが、きっと私の声は届いている。彼女の後ろ姿を見届け、私も反対道に歩き始めたところで、私を呼び止める声が聞こえた。


「ツカサ!」
「え?」
「……ツカサ。あんた、自分には何も特別なものなんて無いとさっき言ったわよね」
「あ、うん」
「……案外そうでもないと思うわよ。少なくとも私はね。だから自分を卑下して生きるのはやめなさい。隣にいる私まで霞んでしまうじゃない。迷惑なのよ、そういうの」


それだけ言い放ち、ジュリアはまた帰り道をずんずんと進んでいってしまった。彼女の姿が見えなくなるまで私はそこに佇んでいた。




兄のあの時の声が聞こえた気がした。


『そして何よりも。ツカサが、美しい青春だったと思う事のできる学園に』




私はもう一度、ネックレスを胸元から取り出し、徽章を撫でた。


「お兄ちゃん……」


その意味が、ほんの少しだけ、わかった気がした。