私のヒーロー

「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」
「名前さんありがと!」
「いってきまーす!」
「はーい!気をつけてね〜」

 帳を降ろし、二人を見送る。今回の任務は少し山の中の方であるが、車ではあまり中まで入っていけないので、山の側面沿いにある道路に車体をできるだけ山に寄せて停めた。補助監督は術師を見送れば今からは待機である。十月に入って夜はよく冷え込むようになったから、あまり外で待っていることは少ない。まぁ、そんなことを言ってしまえば割と年中車内で待機してるが。

 現在の時刻は午後九時半過ぎ。なんでも、特定の時刻に結界に侵入しなければいけない条件らしく、学生からするとだいぶ遅い時間だよなぁと思う。また二人が戻ってくるまではだいぶ時間がある。だいたい一時間弱かな。その間に今日の残りの事務仕事について整理する。あ、報告書の最終確認全然やってないんだった……こりゃがっつり残業だな。多分伊地知先輩も残業だと思うから帰りコーヒーでも差し入れしよう。

 一年生もみんな着々と成長していて、最近は大きな怪我もなく戻ってくることが増えた。いつも通り二人とも大きな怪我なく戻ってこれますように。と願いながら、タブレットと携帯を同時に開き手元の資料と一緒に、にらめっこしている時だった。

 コンコンと運転席の窓ガラスがノックされる。

「すいません〜ちょっといいですか?」

 警察だ。巡回中かな。確かにこんな夜の山に車停めてるのおかしいよね、職務質問だろうか。

「は、はい」

 窓を開けて右を見る。そこには長身の若い男性警察官が立っていた。その右後ろにはこの若い警察官よりもさらにガタイがよく身長の高い、四十代くらいの男性警察官が見えた。

「こんな時間にごめんなさいね〜。ちょっと車の中危ないもの無いか見させてもらっていいですか〜?」

 ……呪術関係者の場合、こういう時は呪術師免許を見せれば問題ない。免許証は学生や教師、呪術師だけでなく、補助監督にもしっかりと支給されている。事実、どこでかは知らないが、警察官は全員そう教わるらしい。

 よって、私が今取るべき行動は、落ち着き焦らずカバンの中から呪術師免許を取り出し、警察の方に渡して、現在は任務中である事を伝える事。

 しかしそれはパニックにならなければの話。

 男性が苦手な私は、長年一緒にいる高専の男性陣ともすら上手くは話せない。そのくらいには男性が苦手だ。所謂男性恐怖症なのかもしれない。

 中学生の頃の塾の帰り道を思い出す。早く家に帰りたくて近道しようと裏路地へ入った時、大きな男の人に腕を引っ張られ口を布のようなもので覆われて、急に眠気に襲われて意識が途切れた。その後、固く冷たい床で目を覚めた時には、全く知らない黒い壁の部屋でお酒を飲んだり、タバコを吸ったり、腕に注射をしたりしている大柄な男達、数十人に囲まれていた。起き上がろうとするも薬を盛られたのか体に全く力が入らず、私の目が覚めたことに気付いた男達が近付いてくるのになんの抵抗もできずにそのまま何時間も陵辱され続けた。一瞬、奥の部屋へと続く扉の向こうが見えた。扉の向こうには裸の女性が何人も倒れていて、一人は全身に煙草で焼かれたような丸い火傷跡が、また一人はたくさんの打撲痕が。私の体には更にこれからどんな事をされるのか。どうしようもなく怖くて絶望的だった。そのうち私がなかなか帰ってこないことを心配した両親が警察に連絡してくれて、なんとか助かった。この時、警察に助けられたことは覚えておらず、警察であっても男性であれば恐怖を感じるようになってしまった。
 そういう事で、特に大柄な人が苦手だ。五条さんですらマシになるのに五年かかったのだ。

 心臓が口から出てくるのではないかというほど大きな音を立てて、バクバクと速い鼓動を打つ。耐えられなくて呼吸もだんだんと速くなってしまう。ダラダラと冷や汗が流れてくるのに気が付いた。
 十月の肌寒い夜に暑くて汗をかく者などそうそういない。余計怪しく見えたのだろう、奥にいた年上の男性警察官が開けた窓の縁に腕を組んでこちらを覗く。

 ヒュッと自分の喉から変な音が聞こえた。

「お姉さん聞こえてる〜?」
「、は、はっ、ヒュッ、ゲホゲホッ、ぅ」
「あれ、お姉さん大丈夫?一旦落ち着こう!」

 あ、やばい。そう感じた時にはもう遅くて、落ち着く方法など分からず、ただひたすらに酸素を求める行動しかできなかった。

「ごめんねお姉さん、ちょっとドア開けるねー!」

 警察官の腕が窓を超えて車内に入ってくる。警察の声など聞こえなくて、またあの大きな手で掴まれるのが怖くて、シートベルトをしたままなのにも気が付かず、逃げようと助手席の方へ体をねじった。

「は、ゃだ、やめて、はっ、こないで!ぁ」
「落ち着いて!なんもせんよー、ドアだけ開けさせてね!」

 分からない。またあの男達が、私を捕まえてあの時と同じ事をしに来たのかもしれない。幸いなことに今はあの時と違って体は頑張れば動かせる。捕まっちゃいけない、逃げろ、逃げろ私

「お姉さん聞こえるー!?苦しいね、シートベルト外すよ!」
「はっ、ゃ、あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙!ぃ゙だい゙、ゃぁぁ゙、、は、、ハヒュッ」
「ゆっくり息しよう!どこが痛いー?」

 目の前にあの時の右頬から首に刺青の入っている男がいて、あの時と同じように、私に「イイコトしよっか〜」と言っている。あの後は、そう、首を絞められながら犯される。必死に体を動かして首を守った。だれか、たすけて、たすけて……






「は?なんで警察がここにいんのよ」
「いや俺も知らん。何も聞いてないよ?」
「君たちこの女性と知り合い?」

 若い男性警察官が野薔薇と悠仁に声をかける。警察官がこちらを向いた時、送迎の車にもう一人の男性警察官が運転席に上半身を入れているのが見えた。その瞬間。

「ぅ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!ハッ、ハッ、ヒュッ、ゃぁ゙ぁ゙」
「え!?名前さん!?」
「ちょっと、パニック起こしてるじゃない!」

 車から名前の叫び声と尋常じゃない速さの呼吸音が聞こえる。

「虎杖、名前さんのパニックとトラウマ説明しときなさい。私が名前さんを何とかする」
「了解、任せた」

 野薔薇が車へと走って近寄る。名前を介抱している警察官に自身が落ち着けると声をかけると、警察官は何故ここに学生がいるのかと疑問を顔に浮かべているが、そのまま場所を譲った。

「向こうにいる同級生が彼女について説明しているのでそっち行って貰ってもいいですか」
「分かりました、ではよろしくお願いします」

 警察官は部下と男子学生の所へ向かう。虎杖という男子学生は自身らが呪術師であると学生証を出し、制服に付いている紋章を示した。彼女、苗字はその補助監督で、自身らの送迎をしてくれている人だと言った。苗字は過去の事件でトラウマを持ち、男性が苦手であり、稀にパニックになるということを説明してくれた。……苗字名前、事件、男性。──過去にあった大規模な反社会勢力の強姦事件──彼女も被害者のうちの一人に名前が表記されていたことを男性警官は思い出した。





「名前さん!聞こえるー?私です、野薔薇!」
「ハッ、ハッ、ゃぁ、ヒュッ」
「大丈夫です、もう私しかいませんよ〜」
「ハッ、ハッ、ぅ、ゲホゲホッ」

 前が見えない、暗い、怖い。なんで、どうして。何も分からなくて、不安だけが募って苦しくなる。もうずっと上手く息ができない。苦しい、よ、

「名前さん!目開けれるー?大丈夫!怖くないですから!」
「ハッ、は、ヒュ、のばら、ちゃ、ハ」
「そうそう!野薔薇です!もう大丈夫!」
「ハッ、はっ、こわ、かっ、っぅ」
「怖かったですよね、よく頑張った!」

 野薔薇ちゃんの声が聞こえたような気がして、少し目を開ける。そこにはやはり野薔薇ちゃんがいて、私より低い位置から私を覗き込んでくれていた。

「まずは落ち着きましょっか!ゆっくり呼吸しましょ」
「のばら、ちゃ、ハ、くるし、いかない、で、ぇ、ヒュッ、ぅ」
「いかないいかない!苦しいわよね、あー泣かないで〜!もう大丈夫よ!」

 何か喋っているのだろうけど、呼吸するのが精一杯で何を言っっているのか分からない。理解できない苦しさに涙が止まらなくなる。すると野薔薇ちゃんがゆっくりと私に近付いてきた。野薔薇ちゃんなのに、私が怖がらないようにゆっくり動いてくれてるのに、ただそれだけなのに。全てが怖くて、勝手に体が強張る。

「ぁ、ごめんなさ、ぁぁ、ふぅっ、はっ、ハッ」
「大丈夫大丈夫!仕方ない!私は気にしてないから!」
「グスッ、ハッ、ハッ、ぅ、ヒック」
「名前さんは悪くないわよ〜少し触っても大丈夫かしら?嫌だったら払ってちょうだい」

 野薔薇ちゃんが私の体を運転席の外側へと向けた後、
胸に当てたままの私の手を優しく握ってくれる。そのまま手を私の膝まで下ろそうとしてくれるのだけど、胸の苦しさと寂しさが大きくなり過ぎたせいで、手を胸から離すと不安に駆られてしまう。

「胸から離すのは難しそうね……名前さん!手血が出ちゃってるから開きましょ?不安だったら私の手を握ってくれたらいいわ」
「ハッ、はっ、ぅ、でき、でき、なっ、ゲホゲホッ」
「そっかぁ、それじゃあ私が開かせてもらってもいいかしら?」
「ハッ、は、(コクコク)」
「ありがとう!このままだと体も強張ったままになってしまうから、少し強引になってしまうかもしれないけど、許してね」

 野薔薇ちゃんが優しく聞き取りやすい声で話してくれるおかげで、少しづつ声が聞こえて言葉が理解出来た。

「うん上手上手!流石ね!じゃあこのまま私の右手握っててくれるかしら?」
「ハッ、はっ、ふ、ぅ、ん」

 言われた通りに野薔薇ちゃんの手を両手で握る。野薔薇ちゃんの手はとっても綺麗で、かさかさな私の手とは比べ物にならない。触ったら壊れちゃうんじゃないかと思う程華奢で繊細なのに、その手は私の震える手を力強く握ってくれて、安心できる。その安心感を手放したくなくて、野薔薇ちゃんの手を私の頬へと運んだ。

「ぐっ可愛い……じゃなくて、名前さん!ぎゅーってしてもいいかしら?背中トントンってするだけよ」
「はっ、ふ、ぎゅっ、して、ぅ、ヒュゥ」
「もちろん!はいぎゅ〜」

 野薔薇ちゃんは私の両手を右手で握ったまま左手で私を大きく包んでくれる。野薔薇ちゃんの優しくはっきりした香りが鼻に届いて、私を安心させた。

「よしよし。ゆっくり息しましょうか。まずは吐きましょう!大丈夫、酸素は足りているわ」
「ハッ、は、ふ、ふぅぅ、ゲホッ」
「上手ね!もう少し……はい止めて」

 途切れ途切れな吐き方でも野薔薇ちゃんはゆっくりトントンと背中を叩いて上手だと言ってくれる。

「ゆっくり吸ってー、うん上手上手。」
「ふ、ぅ、すーヒュッ、ゲホゲホッ、すぅっ」

 段々と息ができるようになり、苦しさが退いていく。野薔薇ちゃんが私を落ち着けてくれたからだと理解した体は、その安心のもとを離さないよう体を彼女に預けた。

「うんうん、良くなってきたわね。よく頑張ったわ」
「ふ、は、のばらちゃ、」
「うん、ここにいるわよ〜」

 呼吸は楽のなったものの、手の痺れに気づいてしまう。野薔薇ちゃんの手を離すまいと握り、頬に当てていたいのに、上手く握れず力が緩む。それに安堵した野薔薇ちゃんが抱きしめている私の体を離そうとした。

「ゃ、やぁ!いかない、で、ぅ、グスッ」
「ああ、ごめんごめん!大丈夫行かないから!」

 一度離そうとした私の体をギュッと少し強く抱いてくれる。それでもまたさっきみたいに離れてしまうのが怖くて、野薔薇ちゃんの胸に顔を押し当てた。

「離してほしいかと思ったけど手に力が入らなくなったのね。痺れた感じはするかしら?」
「、ん、びりびり、する、うごかない、」
「そっかそっか、大丈夫よ。心配ないわ」

 過呼吸は何度も起こしたことがあるから、原因は分かっているのだけど、問題はすぐには治らないこと。これでは二人を高専まで送ってやれない。こんな事で過呼吸起こして二人に迷惑かけて、そんな自分があまりにも情けなかった。

「めいわく、ふ、ぅ、ごめんなさ、ぃ、ぐすっ」
「だーいじょうぶ、何にも迷惑なんかじゃないわ。怖かったのよね、仕方のないことでしょ?」
「ぅ、ぅぁぁ、ヒック、ゲホゴホッ」
「んも〜、泣かないの〜」

 両腕で私を抱きしめ、私の頭と背中を優しい手つきで撫でてくれた。大丈夫、大丈夫。と繰り返される野薔薇ちゃんの声が耳に届くと、勝手に体は安心して強張りが解けていく。

「よく頑張ったわね。お疲れ様」
「名前さん、落ち着いた?」
「ちょっと虎杖、あんた身屈めなさい!」
「わ、すまん!」

 野薔薇ちゃんの胸に顔を埋めているから周りがどうなっているのか分からないが、頭上で虎杖くんの声がした。虎杖くんは、初めて会った時こそ、普段通り男性ということに怯えていたが、彼の素晴らしいコミニュケーション力で高専の男性陣の中でも誰よりも早く苦手意識が薄れた子だ。安心できる人たちが今私の周りにいるということが何より私を安心させてくれた。




「す、すみませんでした……本当、ご迷惑をおかけしました……」
「いえいえ、こちらもなにも確認せずいきなり声をかけてしまってすみませんでした」
「苗字さん、過去の事件の被害者の方ですよね。彼から話を聞いて思い出しました。怖がらせてしまい申し訳ないです」

 少し落ち着いて周りが見えるようになってきた時、虎杖くんの後ろに二人の男性警察官が見えた。私が彼らに目線を送ると、ゆっくり私が怖がらないように近づいてくれた。

「名前さん、手、どう?まだ痺れてるかしら?」
「うん、少し……足も痺れちゃって、……二人も本当ごめんね……情けない」
「いやいや!全然いいって!それより名前さんの方が心配だよ」
「その言う通りよ、全く問題ないわ。とりあえずあの人に連絡しましょ。虎杖よろしく」

 虎杖くんが五条先生電話出るかなー、と呟きながら少し後ろへ下がる。やはり警察の方も言う通り、手足に痺れがある状態で運転するのは危険で、しっかりと痺れがなくなるまで待ってほしいとのことだった。しかし痺れが治るのはいつもの感覚でいうと、あと十数分は待たなくてはならない。
 現在の時刻は午後十一時前。もう十分遅い時間なのにさらにこの子達を待たせるわけにもいかない。警察の方々は代行するわけにもいかず、まだ巡回が残っているということでこちらに頭を下げてパトカーで去っていった。

「五条先生、今から来るって!」
「え?ご、五条さんが?」
「そそ!だから名前さんは休んでて!」
「い、いや!大丈夫だから!二人には申し訳ないけどもう少し待てば良くなるから!」

 だが何回言っても聞き入れてはもらえず、結局五条さんが来るまで車内で待機となった。











「おまた〜!みんないる?」
「お!五条先生!みんないるよ!」

 十数分、三人で今日の任務の話や、野薔薇ちゃんの新作のコスメが買えなかった話など、いろんな会話をしていると、開いている運転席の窓に手をかけて五条さんが現れた。

「ほ、本当にすみません!お手数おかけして申し訳ありません……」
「はいはい、気にしなくていーの!」
「せんせー伊地知さんと来たの?」
「そそ!二人は伊地知の車乗って〜名前はこの車ね」
「え゙」「はーい」「えー私名前さんと一緒がいいー」
「わがまま言わない〜はい行った行った」

 聞き捨てならないことが聞こえて私が固まっているうちに虎杖くんと野薔薇ちゃんは伊地知さんが運転する車へと移動してしまった。

「ご、五条さん、私も、伊地知先輩の、」
「なんか言った?」
「ヒッ、な、なにも言ってませんっ」

 目線を合わせているわけでは無いのに圧がすごすぎて身が縮む。肩をすぼめて下を向いていれば運転席のドアが開いて五条さんが背を屈ませながらシートに片手をつく。

「僕が運転するから名前は助手席ね」
「い、いや、そんな訳には、」
「名前」

 「はひ!」声が上擦ってしまって五条さんの顔が見られない。怒られるのかもしれないと思うと、自分が悪いのは分かっていても強ばってしまう。やっと痺れの取れた両手を固く結び自身の太ももに押付けた。

「名前、こっち向いて」
「、は、ぃ」
「怒ってないから」

 ゆっくりと五条さんの足元を見ようと目線を下方向に向けたはずなのにいつの間にか五条さんはしゃがんでいて黒いアイマスクを下ろされた蒼眼と鉢合わせてしまった。けれど、その瞳は真剣で、静かな蒼に吸い寄せられてしまう。

「今は体調大丈夫?」
「、は、はい、大丈夫、です」
「良かった。心配したよ」
「、すみ、ません、」
「すぐ謝らない。名前は悪くないでしょ」

 返す言葉がなくて間を繋ぐように出た謝罪の言葉に五条さんは野薔薇ちゃんと同じように私は悪くないと言ってくれる。でも、私がいつまで経っても克服できないから迷惑をかけてることは事実であって、「こら。そういう事考えない」

 目線を向けていた自分の手の甲に五条さんの大きな手が優しく重ねられた。震えて冷たくなった私の手が五条さんの体温によって溶かされていく。

「トラウマはそう簡単に無くなるものじゃない。焦ることじゃないの」
「、……」
「悠仁から聞いたよ。その後警察と話せたんだって?」
「そ、それは、野薔薇ちゃん達が、助けてくれたから、」
「でも助けてもらって話すことできたんでしょ?凄いじゃん」

 包まれた手の甲を親指で優しく撫でられる。諭すような柔らかな言葉がじんじんと私の心の内に沁みていった。

「一人でよく頑張ったね」
「、ぅく、グス、ふぅ、」
「よしよし。偉い偉い」

 そのままゆっくりと伸びた五条さんの手が私の頭に置かれる。ぽんぽんと動かされる度に涙が溢れて止まらなくなってしまった。

「擦らないの。もう、困ったちゃんだね〜」
「っく、せんぱい、ぅぅ、」

 優しく頬を包まれて涙を拭われる。それでもどんどんと零れる雫に五条先輩ははにかんで私をぎゅっと抱きしめてくれた。
 先輩の少し甘い香水が香って落ち着いていく。──入学した時とは大違いだ。あの時はただこの先輩が怖かったのに、いつの間にこんなに安心する存在になっていたんだろう。

「帰ろっか」
「ぐす、はいっ」

 先輩に手を引かれて運転席から助手席へと移る。乗り込んで離された手が少し寂しくて、手のひらを見つめた。



「それじゃあ出発しますよ〜」
「おねがいしますっ、」
「曲でもかける?その方が楽しいし!」
「あ、じゃあ先輩が、好きな曲、」
「えー、せっかくなら名前の好きなやつにしよ〜」

 「どんな曲聞いてんのか知りたい〜」そう言われてしまえば断ることなんてできない。繰り返された「好き」の二文字が少し恥ずかしくて頬が熱くなる。それを隠すように急いでスマホの画面をスクロールした。
 スマホを車とBluetoothで繋いで音量を調節する。先輩はこの曲を知っていたようで口ずさんでいる。運転席にいる先輩が珍しくて、その様子をぼーっと眺めてしまった。

「なーに?僕に惚れちゃった?」

 横目でニヤッと笑う先輩の顔が街灯と対向車のヘッドライトに照らされて、暗闇からぱっと現れる。その端正な顔に見つめられ、サングラスからずれたキラキラと蒼く光る双眼が私を映した。どこかの絵画のような次元離れの光景に、そういえばアイマスクじゃなくなってるな、だなんてぼけっと考えた。

「ふふ、名前はつれないね〜」
「え?何がですか、?」
「なーんでもない」

 目線を戻した先輩が眉を下げて笑う。昔では考えられないほど優しい顔に少し見入ってしまった。
 でも、この人は結局いつも助けてくれる。私が怖がっていた時だって無理には関わらず少しずつ慣らしてくれた。結果的にはすんごく時間がかかってしまったけど、だからこそ信頼できる。これからも無茶なことを言われて頭を抱えることはあるかもしれないけど、大事な時にはその強さに救われる。いつだって私のヒーローだって、先輩には絶対言わないけど心の中では思っています。


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