悪夢

 いやだ、来ないで。近づかないでっ!バケモノが、母を喰い殺したあいつが、次はオマエだと言うようにこちらをギロリと見る。母の首からしゃらりと落ちたネックレスを掴んで出口まで走った。息もできないほど全速力で走ってはしって、足がもつれる。それでも、手の中の母のネックレスだけは手放さないように、なくさないように。残った母を感じられるものは、もうこれしかないから。そう思っていたはずなのに、足が言うことを聞かなくなって、ずりっとこける。もう力が入らない。自分もここで、母と同じように喰われるのだろうか。……それでもいいか。あの怪物の腹の中で、母と再会するのも、悪くないかも。……だめだ、嫌だ、それはいやだ。だって、まだやりたいことが沢山ある。父と行きたい場所、友達と遊ぶこと、先生とお話しすること。数え切れないほど、自分にはすることもしたいこともある。今それすべてを投げ出したくない。

「アァア゙アァァア゙ァァァァ」
「ヒッ」

 ギョロリとした大きな目が自身をとらえた。

「やだ、やだこないで!!」
「ギェァ゙ア゙ァ」

「イヤぁ゙っ!!、ハッ、は」

 ゆめ、か。飛び起きて、時計を見れば午前弐時半。嫌な時間に目が覚めてしまった。あのままあの夢に囚われる方が嫌だったが、だとしてもこの時間に起きるのもかなり嫌だ。窓の外は、月が黒い雲に姿を隠し現しを繰り返している。

「はっ、こわか、った、っヒ」

 もう夢から覚めたたというのに、切れた息が戻らない。なんなら夢の中より苦しい。ハッとして手のひらを見るも、もちろんそこには母の形見は持っていない。その事実は当たり前なのだが、まだ夢から覚めきらない雪にはそれはひどく自身を焦らせた。急いでベッドから降りて、チェストの上段を開ける。勢いよく開けると、しゃらという音とともに月のモチーフのネックレスが見えた。急いで手に取って胸の前で握りしめる。

「はっ、まま、ままっ」

 苦しい、くるしい。そのうち膝立ちですらもいられなくて、ぺたりと床に座り込む。ぎゅっと目を瞑って息を落ち着かせようとすると、またあのバケモノが脳裏に浮かんで急いで目を開けた。

「も、やだぁっ、はっ、ままぁ」

 心臓がバクバクして、手足も痺れてくる。生理的にも精神的にも涙が出てきて、止められない。勢いよく前かがみになりすぎて、目の前のチェストの角にこめかみをぶつけた。

「いだっ、うわぁん、ったすけ、てぇ、んくっ」

 びりびり、ばくばく、じんじん。色んな感覚が雪に押し寄せてくるせいで、雪の心はもうパニック寸前だ。ぼろぼろと溢れる涙を腕で拭うと、涙ではないようなものも腕についた気がした。しかし、この暗い部屋の中で認識できるはずもなく、只々溢れるそれらを雑に拭き上げる。

「ハッ、も、だめ、はぁっ、ハ」

 あの夢の中のように、母の形見を握りしめる手から力が抜けていく。でも、絶対絶対離したくなくて、うずくまってそれを抱き留めた。

「は、ぱっ、ぱぁ」

 怖い夢が、いつまで経っても雪から離れない。ひとりではもうどうにもできない、と、父に助けを求めた時、スっと景色が変わる。

「あれ、っこ、こ、っ」

 きょろきょろと見渡すと、自身の部屋より大きく、物も多い。机の上には、雑に本や缶ビールが置かれている。ということは。言うことを聞かない足に何とか全ての力を込め、父の眠るベッドまで移動した。

「ぱ、ぱっ、げほっ、ぱぱっ、おきて、」

 母の形見を握りしめたまま、ぐっすり眠る父を揺さぶり起こす。涙やらなんやらで顔はもうぐちゃぐちゃだが、そんなことには構っていられない。ただ必死に父を起こすことだけに専念した。

「ん〜、、どうしたんです、?」
「ぱぱ、くるし、た、すけてっ」

 愛娘の必死な声が父の耳に届く。はっとして起き上がると、月明かりに照らされた娘は、こめかみから血を流し、苦しそうに呼吸をしていた。

「は?何があったんです、血だらけじゃないですか!」
「っ、ち?いゃ、くるし、っゲホッ!」

 ばっと雪の肩を掴み、顔を見れば、涙と恐怖でめちゃくちゃだった。とりあえず自身も下に降り、胸を押え苦しむ娘の横にしゃがんで背中をぽんぽんと叩きあやした。

「大丈夫ですから。ほら、ちゃんと息をしなさい」
「できっないのぉ、うわぁ゙あん、っく」

 あやしているのに余計に涙をこぼす娘に、父は四苦八苦するほかなかった。とりあえずは引き続き背や頭を撫で、雪が自然と落ち着くのを待つように声をかけ続ける。

「こわい゛ぃ〜、っげほ、ハッ」
「怖くない。私しかいませんから」
「ひっく、でも、ままが、っ」

 ママ?いや、あの人はもう……あぁ、そういう事。まま、まま、と、何度も母を乞う娘を見て、道満は娘が悪夢を見たのだと勘づいた。じゃりと、音がした気がしたが今は構わず、うめきながら丸まっていく娘の肩を起こして正面から抱き直した。

「大丈夫、一旦泣き止みなさい」
「は、ままぁっ、ぱぱっ、げほ、」
「はいはい。ここにいます。わかるでしょう?」
「ぱぱっ、い゛るぅぅ、ぅわ、あぁ゛ぁあん!」

 ごわかったぁあっ、ひくっ、……雪が父の甚平にしわがつくほど握りこむが、父は優しくその小さな背を只なだめた。……この子は、自身をまっすぐに見ている。その後ろに何があるとか、何かと重ねるでもなく、純粋に自身だけをみていると感じられる。たとえそれが父と呼ばれるものであっても、なにでもない核にある自分をも見てくれているような気がして、小されどその確かな目の前の温もりを強く抱きしめた。

「ぅく、くるじぃよ、ぱぱっ、」
「……」

 息は上がったままだが少し泣き止んだのか、ぺちぺちと自身の胸を叩く感触がする。でも今は──。

 無言の父に、雪は何かを感じ取ったのか、まだびりびりとしびれる手を父の背中へと運んだ。




「落ち着きましたか?」
「ひくっ、ん、ちょ、と、」
「よかった」

 互いが互いの温もりを感じるようにくっつき、とくとくと脈打つそれと、それぞれの呼吸がだんだんと一つになっていく。雪の体のこわばりが少し緩んだのを確認して、ゆっくりとその柔らかきを離した。

「あ、そうだ、血!」
「んく、ち?な、に?」

 ぼけっとしている娘をしっかり見ると、やはりこめかみからつららと赤い筋ができている。とりあえず急いで部屋の明かりをつければ、もはや雪は事故直後のようだった。

「……?、っうわぁぁ!なにこれ!?」

 しばしばと目をこすって強制的に明かりに目をならせば、そこに見えたのは血だらけの腕と真っ赤になった服。動揺し、なにがなんだか分からなくて父に助けを乞おうとすれば、その父の服も真っ赤になっていた。

「えっ、、ぱ、パパも真っ赤だよ!どうしたの!?怪我したの!?」

 文字通りあわあわと慌てふためく娘を見て、逆に冷静になる父。せっかく泣き止んだというのに、また雪の目が潤っていく。

「パパっ、大丈夫!?死なないよねっ、?」
「落ち着きなさい。私は何ともないです」

 父の言葉が届いていないのか、今度は死なないでぇぇ!と言いながら大きく父を揺さぶり始めた。その衝撃で雪の目にたまっていた大粒がぼたぼたとこぼれていく。それと同時に、もう一つの液体もぽたぽたと勢いが増していることに気が付いた。恐怖やパニックに加えて怪我までしてしまったことにより、雪の体内でアドレナリンが放出されまくり興奮状態に陥っていることはすぐに見て取れた。

「ちょ、こらっ!雪、止まりなさい!」
「やだっ、やだやだ!パパまで居なくならないでぇぇぇんっ、」
「いなくなりませんから!それとこれ全部あなたの血です。手当てするので動かないでください」
「むぇ?」

 雪の頬を両手で挟むと、なんとも情けない声を出す。たしかに、なんか頭痛いかも……と言い出す娘に、早急に救急箱を取りに行った。



「う〜ん、なんかくらくらする、」
「これだけ出血していたらそうでしょうね。というか、なにがあったんです?」
「ママが化け物に食べられる夢、見て……飛び起きたんだけどなんか上手に息できなくって、それで、あっ、チェストに頭ぶつけた気がする……ぃだっ」
「まぁそんなとこだろうと思いましたよ。ちょっと我慢しなさい。こめかみは血が止まりづらいんです」

 止血のためにぐっとガーゼを押し当てると、雪は顔を歪めて痛みに耐える。ぎゅむっと目を瞑り父の半ズボンをつかんで痛みに耐えた。

「はいおしまい。明日、明君に見てもらいましょう。流石に頭ですし」
「えーやだぁ、あしたはだらだらしたい〜」
「駄目です。ほら、着替えてきなさい。洗いますから」

 ガーゼが取れないよう頭に包帯を巻き、端から取れないようにきちんと止める。ぶつぶつと文句を言っている雪を軽く流して、立ち上がり救急箱をもとの位置に戻した。いまだに座ったままいじいじしている娘を慎重に立たせて一旦部屋へと返す。自身は汚れてしまった甚平を脱いでタンスからもう一つの甚平を取り出し着替え、娘の汚れた浴衣地を回収しに立ち上がったとき、ベッドのそばにネックレスが落ちていることに気が付いた。

「これは……あの女のものか」

 ホワイトゴールドの華奢なそれを持ち上げると、月についた石が明かりに照らされぴかりと光る。雪がママ、と慕うその女性は、道満からすればもう顔すらも覚えていない。ただの暇つぶしで、ちょっとした過ちで。こんなことになるとは露ほども思っていなかった。雪もどちらかといえば……いや、完全に父親似である。そのため、母親の要素はかなり少ない。よって道満が思い出せるものは、もはや何もないのだ。日常の一コマでしかなかったその行為はひどく普遍的で、記憶に残るようなものではない。──ただ、女には感謝している。千年前、あの日に感じた激情をこの子が応えてくれるとは思ってもみなかった。この子を見つけたあの時はただ、憐れみと償いと、少しの興味だけだった。これを少女に全て伝えてしまってはあまりにも惨い。これまでも聞かれたことがない訳では無いが、いつだって有耶無耶にしてきた。これから先、どのタイミングで伝えようかはまだ分からない。しかし、本当に人生とは、本当に何があるか分からないものだ。道満はあの娘(こ)を、本当に心の底から愛しているのだから。
 ひとまずはネックレスを娘と色違いのチェストの天板に置く。そろそろ着替えられただろうと隣の部屋のドアをノックした。

「着替えました?」
「あっ、パパ、あの……」
「?」

 開けますよ。そう言って娘に部屋に入ると、もう言葉が出ないほどの惨事だった。

「ご、ごめん。なんか部屋電気つけたら事件現場みたいになってた……」
「……はぁぁぁぁ」
「ちょ、やめて、そんな長いため息つかないで!」

 一生懸命床を拭く雪はなんだか殺人犯のようだ。雪の腕についている血は本人のもののはずだが、何故かその焦りようは、返り血のようにも見える。

「拭いておきますから着替えなさい」
「うん、ありがとう……っぁ、」

 父が歩き出したのを確認して、急いで位置を代えるように雪がぱっと立ち上がろうとすると、体が勝手に前へと倒れていく。同時に真っ暗になった視界に思わず雪は目をつむった。

「あっぶない……!」
「はっ、は、」

 間一髪で道満が支えると、雪が弱々しくその袖を掴む。ばくばくと早くなっていく心臓に雪は恐怖を覚えた。

「は、ハッ、ぱ、っ」

 力の入らない体を、全く支えられない。目の前の父にも縋りたいが、残念ながら手にも力が入らなくて、父の袖から手が滑り落ちる。

「雪、一度座りましょう」
「ごっ、めん、なんかっばくば、く、するっ……」
「大丈夫。座れば落ち着きます」

 雪はだらんと下がってしまった腕をもうあげられなくて、父に身を任せた。ダラダラと出てくる冷や汗が着替えたばかりに父の服ににじんでいく。それが本当に申し訳なくて、目が潤んだ。しかし、これ以上汚す訳にはいかない。ぐっと目を瞑り耐え忍んだ。もちろん道満には彼女が今何を考えているかはお見通しである。遠慮がちに少し距離をとった雪に、仕方ない子だと、愛おしそうにため息をついて、雪を抱え直してベッドに腰掛ける。腿上に娘を乗せて、肩で息をする雪をぽんぽんとなだめた。

「目を瞑ったままでいいので息を吐きなさい」
「はっ、ふ、ぅー、っ」
「上手上手、できていますよ。ゆっくり吸って」

 父の手本の呼吸を全身で感じ取って真似をする。規則正しい呼吸は何よりも効率よく雪を落ち着けた。

「ふぅ、び、っくりしたぁ」
「貧血でしょうね。はぁぁ、いきなり立つんじゃありません」
「あいだっ、えへ、ごめんなさい」

 面目ないっ──と頭を搔く雪の額をコツンと弾いた。汗で引っ付いた前髪をすいてやるとぽぽぽと頬が桃色になり、道満は笑いがこぼれた。――わ、わらわないで!むすっと膨らんだそこを人差し指で刺せばぷすっと空気が抜けて、雪がななっ、!と声を上げた。そのサマがなんとも面白可愛くて、自身と同じ紫色の髪をわしゃわしゃと撫でた。

「着替え持ってきてやりますからまだ座ってなさい」
「ぅん、あ、りがとう」

 
「そういえば、」
「あっ、パパ……あの、」
「なんです?病院は決定ですよ」
「ち、ちがくて……」

「今日は、一緒にねてほしいというか、なんというか……」
「!……ふふ、仕方ありませんね」

「早く入りなさい。冷えますよ」
「っうん!」

「まったく、雪は怖がりさんですね」
「ち、ちがう!今日は、パパと寝たいなって、思っただけだもん……」
「はいはい、分かりましたよ」
「それ分かってないときの返事じゃん!」

「ほら、もう少し寄って」
「んしょ、……あっパパ!」
「ん?」
「だいすき!」
「私も愛しています。さ、おやすみなさい」
「えへへ。うん、おやすみ!」



──後日談──

「いらっしゃい〜。雪ちゃん頭怪我したんだって?」
「明さんこんにちはっ。でも大したことないよ?」
「何言ってんですか。大量出血で腕も服も血だらけにしたくせに」
「ちょっとパパ!」

「えっ、血だらけになったの!?どこ?早く見せて!」
「ほらこの人楽しんじゃうじゃん……」
「本当のことでしょうよ。でも、明君。乱暴にはしないでくださいね」

 心配の意図は見えず、なんなら語尾には♡が飛んでいる。

「もちろんですよ!ちゃあんと治療しますからっ!」
「明さん、何してもいいけどちゃんと元通りにしてね?あと痛くしないでね!」
「約束するよ♡」

 治療されることよりも改造されることの方が怖い。それ以外は恐怖を感じていないところは狂ってる いやだ、来ないで。近づかないでっ!バケモノが、母を喰い殺したあいつが、次はオマエだと言うようにこちらをギロリと見る。母の首からしゃらりと落ちたネックレスを掴んで出口まで走った。息もできないほど全速力で走ってはしって、足がもつれる。それでも、手の中の母のネックレスだけは手放さないように、なくさないように。残った母を感じられるものは、もうこれしかないから。そう思っていたはずなのに足から力が抜けてずりっと音を立ててこける。もう起き上がれない。自分もここで、母と同じように喰われるのだろうか。……それでもいいか。あの怪物の腹の中で、母と再会するのも、悪くないかも。……っだめだ、嫌だ、それはいやだ。だって、まだやりたいことが沢山ある。父と行きたい場所、友達と遊ぶこと、先生とお話しすること。数え切れないほど、自分にはすることもしたいこともある。今それすべてを投げ出したくない。

「アァア゙アァァア゙ァァァァ」
「ヒッ」

 ギョロリとした大きな目が自身をとらえた。

「やだ、やだこないで!!」
「ギェァ゙ア゙ァ」

「イヤぁ゙っ!!、ハッ、は」

 ゆめ、か。飛び起きて、時計を見れば午前弐時半。嫌な時間に目が覚めてしまった。あのままあの夢に囚われる方が嫌だったが、だとしてもこの時間に起きるのもかなり嫌だ。窓の外は、月が黒い雲に姿を隠し現しを繰り返している。

「はっ、こわか、った、っヒ」

 もう夢から覚めたたというのに、切れた息が戻らない。なんなら夢の中より苦しい。ハッとして手のひらを見るも、もちろんそこには母の形見は持っていない。その事実は当たり前なのだが、まだ夢から覚めきらない雪にはそれはひどく自身を焦らせた。急いでベッドから降りて、チェストの上段を開ける。勢いよく開けると、しゃらという音とともに月のモチーフのネックレスが見えた。急いで手に取って胸の前で握りしめる。

「はっ、まま、ままっ」

 苦しい、くるしい。そのうち膝立ちですらもいられなくて、ぺたりと床に座り込む。ぎゅっと目を瞑って息を落ち着かせようとすると、またあのバケモノが脳裏に浮かんで急いで目を開けた。

「も、やだぁっ、はっ、ままぁ」

 心臓がバクバクして、手足も痺れてくる。生理的にも精神的にも涙が出てきて、止められない。勢いよく前かがみになりすぎて、目の前のチェストの角にこめかみをぶつけた。

「いだっ、うわぁん、ったすけ、てぇ、んくっ」

 びりびり、ばくばく、じんじん。色んな感覚が雪に押し寄せてくるせいで、雪の心はもうパニック寸前だ。ぼろぼろと溢れる涙を腕で拭うと、涙ではないようなものも腕についた気がした。しかし、この暗い部屋の中で認識できるはずもなく、只々溢れるそれらを雑に拭き上げる。

「ハッ、も、だめ、はぁっ、ハ」

 あの夢の中のように、母の形見を握りしめる手から力が抜けていく。でも、絶対絶対離したくなくて、うずくまってそれを抱き留めた。

「は、ぱっ、ぱぁ」

 怖い夢が、いつまで経っても雪から離れない。ひとりではもうどうにもできない、と、父に助けを求めた時、スっと景色が変わった。

「あれ、っこ、こ、っ」

 きょろきょろと見渡すと、自身の部屋より大きく、物も多い。机の上には、雑に本や缶ビールが置かれている。ということは。言うことを聞かない足に何とか全ての力を込め、父の眠るベッドまで移動した。

「ぱ、ぱっ、げほっ、ぱぱっ、おきて、」

 母の形見を握りしめたまま、ぐっすり眠る父を揺さぶり起こす。涙やらなんやらで顔はもうぐちゃぐちゃだが、そんなことには構っていられない。ただ必死に父を起こすことだけに専念した。

「ん〜、、どうしたんです、?」
「ぱぱ、くるし、た、すけてっ」

 愛娘の必死な声が父の耳に届く。はっとして起き上がると、月明かりに照らされた娘は、こめかみから血を流し、苦しそうに呼吸をしていた。

「は?何があったんです、血だらけじゃないですか!」
「っ、ち?いゃ、くるし、っゲホッ!」

 ばっと雪の肩を掴み、顔を見れば、涙と恐怖でめちゃくちゃだった。とりあえず自身も下に降り、胸を押え苦しむ娘の横にしゃがんで背中をぽんぽんと叩きあやした。

「大丈夫ですから。ほら、ちゃんと息をしなさい」
「できっないのぉ、うわぁ゙あん、っく」

 あやしているのに余計に涙をこぼす娘に、父は四苦八苦するほかなかった。とりあえずは引き続き背や頭を撫で、雪が自然と落ち着くのを待つように声をかけ続ける。

「こわい゛ぃ〜、っげほ、ハッ」
「怖くない。私しかいませんから」
「ひっく、でも、ままが、っ」

 ママ?いや、あの人はもう……あぁ、そういう事。まま、まま、と、何度も母を乞う娘を見て、道満は娘が悪夢を見たのだと勘づいた。じゃりと、音がした気がしたが今は構わず、うめきながら丸まっていく娘の肩を起こして正面から抱き直した。

「大丈夫、一旦泣き止みなさい」
「は、ままぁっ、ぱぱっ、げほ、」
「はいはい。ここにいます。わかるでしょう?」
「ぱぱっ、い゛るぅぅ、ぅわ、あぁ゛ぁあん!」

 ごわかったぁあっ、ひくっ、……雪が父の甚平にしわがつくほど握りこむが、父は優しくその小さな背を只なだめた。……この子は、自身をまっすぐに見ている。その後ろに何があるとか、何かと重ねるでもなく、純粋に自身だけをみていると感じられる。たとえそれが父と呼ばれるものであっても、なにでもない核にある自分をも見てくれているような気がして、小されどその確かな目の前の温もりを強く抱きしめた。

「ぅく、くるじぃよ、ぱぱっ、」
「……」

 息は上がったままだが少し泣き止んだのか、ぺちぺちと自身の胸を叩く感触がする。でも今は――。
 無言の父に、雪は何かを感じ取ったように、まだびりびりとしびれる手を父の背中へと運んだ。




「落ち着きましたか?」
「ひくっ、ん、ちょ、と、」
「よかった」

 互いが互いの温もりを感じるようにくっつき、とくとくと脈打つそれと、それぞれの呼吸がだんだんと一つになっていく。雪の体のこわばりが少し緩んだのを確認して、ゆっくりとその柔らかきを離した。

「あ、そうだ、血!」
「んく、ち?な、に?」

 ぼけっとしている娘をしっかり見ると、やはりこめかみからつららと赤い筋ができている。とりあえず急いで部屋の明かりをつければ、もはや雪は事故直後のようだった。

「……?、っうわぁぁ!なにこれ!?」

 しばしばと目をこすって強制的に明かりに目をならせば、そこに見えたのは血だらけの腕と真っ赤になった服。動揺し、なにがなんだか分からなくて父に助けを乞おうとすれば、その父の服も真っ赤になっていた。

「えっ、、ぱ、パパも真っ赤だよ!どうしたの!?怪我したの!?」

 文字通りあわあわと慌てふためく娘を見て、逆に冷静になる父。せっかく泣き止んだというのに、また雪の目が潤っていく。

「パパっ、大丈夫!?死なないよねっ、?」
「落ち着きなさい。私は何ともないです」

 父の言葉が届いていないのか、今度は死なないでぇぇ!と言いながら大きく父を揺さぶり始めた。その衝撃で雪の目にたまっていた大粒がぼたぼたとこぼれていく。それと同時に、もう一つの液体もぽたぽたと勢いが増していることに父は気が付いた。恐怖やパニックに加えて怪我までしてしまったことにより、雪の体内でアドレナリンが放出されまくり興奮状態に陥っていることはすぐに見て取れた。

「ちょ、こらっ!雪、止まりなさい!」
「やだっ、やだやだ!パパまで居なくならないでぇぇぇんっ、」
「いなくなりませんから!それとこれ全部あなたの血です。手当てするから動かない!」
「むぇ?」

 雪の頬を両手で挟むと、なんとも情けない声を出す。たしかに、なんか頭痛いかも……と言い出す娘に、早急に救急箱を取りに行った。



「う〜ん、なんかくらくらするぅ、」
「これだけ出血していたらそうでしょうね。というか、なにがあったんです?」
「ママが化け物に食べられる夢、見て……飛び起きたんだけどなんか上手に息できなくって、それで、あっ、チェストに頭ぶつけた気がする……ぃだっ」
「まぁそんなとこだろうと思いましたよ。ちょっと我慢しなさい、こめかみは血が止まりづらいんです」

 止血のためにぐっとガーゼを押し当てると、雪は顔を歪めて痛みに耐える。ぎゅむっと目を瞑り父の半ズボンをつかんで痛みに耐えた。

「はいおしまい。明日、明君に見てもらいましょう。流石に頭ですし」
「えーやだぁ、あしたはだらだらしたい〜」
「駄目です。ほら、着替えてきなさい。洗いますから」

 ガーゼが取れないよう頭に包帯を巻き、端から取れないようにきちんと止める。ぶつぶつと文句を言っている雪を軽く流して、立ち上がり救急箱をもとの位置に戻した。いまだに座ったままいじいじしている娘を慎重に立たせて一旦部屋へと返す。自身は汚れてしまった甚平を脱いでタンスからきれいなものを取り出し着替え、娘の汚れた甚平を回収しに行こうと立ち上がったとき、ベッドのそばにネックレスが落ちていることに気が付いた。

「これは……あの女のものか」

 ホワイトゴールドの華奢なそれを持ち上げると、月についた石が明かりに照らされぴかりと光る。雪がママ、と慕うその女性は、道満からすればもう顔すらも覚えていない。ただの暇つぶしで、ちょっとした過ちで。こんなことになるとは露ほども思っていなかった。雪もどちらかといえば……いや完全に、父親似である。そのため、母親の要素はかなり少ない。よって道満が思い出せるものは、もはや何もないのだ。日常の一コマでしかなかったその行為はひどく普遍的で、記憶に残るようなものではない。──ただ、女には感謝している。千年前、あの日に感じた激情をこの子が応えてくれるとは思ってもみなかった。この子を見つけたあの時はただ、憐れみと償いと、少しの興味だけだった。これを少女に全て伝えてしまってはあまりにも惨い。これまでも聞かれたことがない訳では無いが、いつだって有耶無耶にしてきた。これから先、どのタイミングで伝えようかはまだ分からない。――しかし、本当に人生とは、本当に何があるか分からないものだ。道満はあの娘を、本当に心の底から愛しているのだから。
 ひとまずはネックレスを娘と色違いのチェストの天板に置く。そろそろ着替えられただろうと隣の部屋のドアをノックした。

「着替えました?」
「あっ、パパ、あの……」
「?」

 開けますよ。そう言って娘に部屋に入ると、もう言葉が出ないほどの惨事だった。

「ご、ごめん。なんか部屋電気つけたら事件現場みたいになってた……」
「……はぁぁぁぁ」
「や、やめて、そんな長いため息つかないで!」

 一生懸命ティッシュで床を拭く雪はなんだか殺人犯のようだ。雪の腕についている血は本人のもののはずだが、何故かその焦りようは、返り血のようにも見える。

「拭いておきますから着替えなさい」
「うん、ありがとう……っぁ、」

 父が歩き出したのを確認して、急いで位置を代えるように雪がぱっと立ち上がろうとすると、体が勝手に前へと倒れていく。同時に真っ暗になった視界に思わず雪は目をつむった。

「あっぶない……!」
「はっ、は、」

 間一髪で道満が支えると、雪が弱々しくその袖を掴む。ばくばくと早くなっていく心臓に雪は恐怖を覚えた。

「は、ハッ、ぱ、っ」

 力の入らない体を、全く支えられない。目の前の父にも縋りたいが、残念ながら手にも力が入らなくて、父の袖から手が滑り落ちる。

「雪、一度座りましょう」
「ごっ、めん、なんかっばくば、く、するっ……」
「大丈夫。座れば落ち着きます」

 雪はだらんと下がってしまった腕をもうあげられなくて、父に身を任せた。ダラダラと出てくる冷や汗が着替えたばかりに父の服ににじんでいく。それが本当に申し訳なくて、目が潤んだ。しかし、これ以上汚す訳にはいかない。ぐっと目を瞑り耐え忍ぐ。だが、道満には彼女が今何を考えているかはお見通しである。遠慮がちに少し距離をとった雪に、仕方ない子だと、愛おしそうにため息をついて、雪を抱え直してベッドに腰掛ける。腿上に娘を乗せて、肩で息をする雪をぽんぽんとなだめた。

「目を瞑ったままでいいので息を吐きなさい」
「はっ、ふ、ぅー、っ」
「上手上手、できていますよ。ゆっくり吸って」

 父の手本の呼吸を全身で感じ取って真似をする。規則正しい呼吸は何よりも効率よく雪を落ち着けた。

「ふぅ、び、っくりしたぁ」
「貧血でしょうね。いきなり立つんじゃありません」
「あいだっ、えへ、ごめんなさい」

 面目ないっ──と頭を搔く雪の額をコツンと弾いた。汗で引っ付いた前髪をすいてやるとぽぽぽと頬が桃色になり、道満は笑いがこぼれた。――わ、わらわないで!むすっと膨らんだそこを人差し指で刺せばぷすっと空気が抜けて、雪がななっ、!と声を上げた。そのサマがなんとも面白可愛くて、自身と同じ紫色の髪をわしゃわしゃと撫でた。

「着替え持ってきてやりますからまだ座ってなさい」
「ぅん、あ、りがと」

 雪の脇下に手を入れて隣へぽすんと降ろす。貧血により肌は少し青白い。なのに顔だけちょっぴり赤いのが愛らしかった。こちらを見上げる雪の頭を撫でるついでに支えにして立ち上がる。自身とは違う少し洋風なタンスの中から可愛らしい甚平を取り出した。

「はい」
「ありがとう、」

 萎らしくそれを受け取る娘が可愛くて可愛くて、少し意地悪をしたくなってしまう。――ぱぱ、?と見上げた雪に一瞬考える素振りをして口を開いた。

「着替え、手伝ってあげましょうか?」
「なっ!?なななっ、」

 先程までの萎れ具合は何処に行ってしまったのか。ぐぐっと近づけられた父の顔を見て、自分の顔を真っ赤にし寝巻きを抱きしめる雪に笑いが止まらない。

「ふっ、ふははっ!冗談です笑」
「っんん〜〜!!パパのいじわるぅ!!」

 ぽかぽかと父の胸板を殴る雪はこれ以上この顔を見られまいと俯いた。雪は父の顔に弱いのだ。この世に父以上にかっこいいひとなんていない。意地悪な顔でも、怒っていても、あの端正な顔にはやっぱり敵わない。覚悟もしてないのにこんな至近距離で見てしまうなんてほぼ自滅行為だ。

「そんなに赤くなって、可愛いですね」
「うっうるさい!!もう!着替えるから出てって!」
「はいはい」


「そういえば、」
「あっ、パパ……あの、」
「なんです?病院は決定ですよ」
「ち、ちがくて……」

「今日は、一緒にねてほしいというか、なんというか……」
「!……ふふ、仕方ありませんね」

「早く入りなさい。冷えますよ」
「っうん!」

「まったく、雪は怖がりさんですね」
「ち、ちがう!今日は、パパと寝たいなって、思っただけだもん……」
「はいはい、分かりましたよ」
「それ分かってないときの返事じゃん!」

「ほら、もう少し寄って」
「んしょ、……あっパパ!」
「ん?」
「だいすき!」
「私も愛しています。さ、おやすみなさい」
「えへへ。うん、おやすみ!」



──後日談──

「いらっしゃい〜。雪ちゃん頭怪我したんだって?」
「明さんこんにちはっ。でも大したことないよ?」
「何言ってんですか。大量出血で腕も服も血だらけにしたくせに」
「ちょっとパパ!」

「えっ、血だらけになったの!?どこ?早く見せて!」
「ほらこの人楽しんじゃうじゃん……」
「本当のことでしょうよ。でも、明君。乱暴にはしないでくださいね」

 心配の意図は見えず、なんなら語尾には♡が飛んでいる。

「もちろんですよ!ちゃあんと治療しますからっ!」
「明さん、何してもいいけどちゃんと元通りにしてね?あと痛くしないでね!」
「約束するよ♡」

 治療されることよりも改造されることの方が怖い。それ以外は恐怖を感じていないところは狂ってる

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