テスト2
冷たい指先がおとがいを撫でた瞬間、カゲツは自分の脳の芯の部分がすうと研ぎ澄まされていくような感覚がした。障子の隙間から差し込んだ月夜の光が女の不気味なほど赤い唇を照らしている。違う、という明確な拒否が過るのは本能的なものだった。眉間に力が入る。気配を消すために殺してきた息が不意に漏れそうになったとき、女が緩やかな笑みを更に濃くした。こういう相手は苦手だ。自分も知らない自分の心の奥を暴かれてしまうような気がする。女の唇が開かれたそのすぐあと、彼はいよいよ表情を崩さざるを得なくなった。忍者たるもの、己を捨てよ。忍術の使い手を名乗るものとして常に自らを律しコントロールすることが必要だ。その肩書を名乗るために修行を始めたときから、師に幾度となく言われ続けていたことだった。初めて任務を遂行したときも、寒空の夜に野宿したときも、標的を観察するために数日ほとんど身体を動かさずに息を殺し続けたときも、その教えを忘れたことなど一度もなかった。自分が元から感情を表に出すのが得意ではない子どもだったのか、修練の度にその意識が刷り込まれていったのかは、今更どちらでも良いことだ。この集団のエースだと言われるようになってから、自分がかなり秀でた才能があることを自覚した。そしてその自覚が芽生えた。それなのに。
「ねえ、カゲツさっきから何回目?もう早く帰りなよー」
「え?」
「ため息つきすぎ。そのうちここ二酸化炭素だけになるんじゃない?」
「……」
「次は黙っちゃうしさあ。てかそっちのふたりもカゲツを早く里に帰すために手伝ってよ」
コンクリートが打ちっぱなしの、埃っぽい小さな部屋。そこで忍者としての任務とは別に請け負っている仕事の仲間とカゲツは集まっていた。集まっている、といっても今日は出番があるわけではない。カゲツはなんとなく、帰りづらい気持ちを誤魔化すために寄ってみただけで、他の3人の意思はよくわからない。何を言っても魂が抜けたような反応しかしないカゲツと、我関せずな他のふたりにライは呆れてソファに体重を預けた。
「帰りたくない理由でもあるってこと?」
黙っていたショウがついに口を開いたかと思うと、あまりにも結論だけを急ぐような物言いだったせいで、ライは目を丸くしてスマホゲームをしていたロウはちろりと視線をやった。
「や、帰りたくないっていうかあ……」
当の本人のカゲツは、曖昧な語尾で言葉を濁らせるのみだった。ライがはあと大きなため息をつき、ロウはの視線はまた画面へ戻ってしまう。しん、と沈黙が4人の間に流れたあと、ショウが「まあ、」と声を漏らした。
「何に悩んでるかはわかんないけど、ここにいるよりは自分のところに帰ったほうが解決するんじゃないの」
「……」
「恐らく俺らは役に立たなそうだし」
窓から入る太陽の光のせいで部屋中に舞う埃がやけに目に映る。昨晩任務を終えてここで仮眠をとって帰ろうと思ったのに、なかなか腰が上がらずにいた。浮かぶのは昨日の赤い唇と、あとは。
「じゃ、俺はお先に〜」
「え、帰るん?」
「もうすぐ鑑定の予約が入ってる時間なんで」
「あ、俺もそろそろ帰んなきゃ。このあと予定あんだよねー。ロウは?」
「俺も帰るけど。ドクターに呼ばれてるし」
ここに今日集まったのは奇遇だったようだったが、どうやらそれも長くは続かないらしい。仮眠のつもりが朝まで寝てしまって、目覚めたら彼らが居たことで驚いてしまったのがさっきのことのように感じる。お昼はとっくに過ぎていてもうすぐ日が暮れ始めるだろう。「最近ロウ、そのドクターさんのとこ良く行ってるよねえ」「はあ?なんだその顔、喧嘩売ってんのか」「どうどう、血気盛んすぎでしょ」「星導もにやにやしてんのバレてんだよ」そんな会話が脳を通り過ぎていくのを至高の縁で拾いながら、カゲツはやっと足の裏に力を入れた。
「みんな帰るんなら、俺も帰るわ」
里に帰るのは一週間ぶりだった。長期の任務ではもっと帰らないこともあるが、今回がやけに長かったような気がするのは考え事が多かったせいだろうか。どういう顔をしたら良いのかが急にわからなくなる。あれ、ぼくってどんな表情で彼女に会ってたんやっけ?そっと頬に触れてみたら鋭い痛みがあって、そういえばここにかすり傷があるんやった、と他人事のようにぼんやりと考えた。
「あれ、カゲツ?」
「あ、」
「帰ってきたの?おかえり!」
そんなつもりがなかったのに、鈍った頭のまま無意識に歩んでいたのは彼女の家までの道のりだった。陽が傾き始めた空の夕焼けを一身に浴びた彼女がカゲツの方へとやってくる。その姿がやけに眩しくて思わず目を細めた。
「行く前は数日って聞いてたから、遅いなってみんなと話してたんだよ」
「……」
「カゲツ?……あれ。ねえ、ここ怪我して、」
一言目をひねり出せなくて両唇がぴたりとくっついたままだったカゲツの顔へ、彼女の手が伸びた。その指先が頬骨に沿って付けられた傷跡を撫でる。さっき自分で触ったときは痛みを感じたはずなのに、彼女の指の腹が触れても同じ痛みが襲ってこない。というよりも、カゲツはそんなしれた痛みなんかよりももっと大きな情感を浴びせられていた。
これだ、と実感した。自分が覚えた違和感、望んでいたもの、己を押し殺したはずなのに思い出してしまった姿。女の声が反芻する。「おまえは忍びに向いていない」と。
「カゲツ?」と心配そうな顔をした彼女が彼の顔色を窺った。真っすぐに向けられる瞳に穢れを知らない純粋さが滲み出ている。緑と紫のまなこに映るその姿が、彼が正に昨晩思い描いたその図そのままだった。あの女と対峙しているときに違和を感じたのは、現状を他の何かと……もっと明確に言えば彼女と、比べているせいだった。
任務で町へ降りると伝えるたびに、彼女はいつも少し渋った。街には色んな人がいるでしょう、と眉尻を下げ、「カゲツはかわいいからすぐにみんなに好かれちゃうよ」と。その『かわいい』という評価にはいささか納得がいかなかったし、彼女がそう寂しそうな顔をする理由が分からなかった。みんなという大きな括りが自分のことをどう思うかなど取るに足らないことだ。彼女が、自分のことをどんな風に感じているかと比べれば。
それにそんな心配など無意味だと思っていた。同じ里で生まれ育ち寝食を共にしたこの人と、他の誰かとで優先順位を付けることは容易かったからだ。カゲツの中で一番はいつもなまえだった。それは、きっかけとかいつからとかそういう期間じみたものではなく、彼の人生において常にそうだっただけだ。ふわふわだねと白い髪を触る手のひら、片耳だけに下げたピアスを弄ぶ指先、「カゲツの目は綺麗だね」と褒める声、その全てがカゲツの中心だった。
添えられた手に、自分の手を重ねた。手の甲からも感じる温かさ。嫌な思い出が浄化されて目の前の光景だけが目に焼き付いていく。
「……改めて、思ってん」
「うん?怪我、してるよ」
「なまえがぼくのいちばんなんやって」
口にした刹那、カゲツはあの女の言葉の意味を理解した。彼女という存在はカゲツの中で当たり前に馴染んでいる。己を捨てろ。己を捨てるということは、自分の気持ちさえも捨てるということだ。刷り込まれていたはずの金言は、もうすでに自分の中から廃れてしまっていることに気が付いた。どんな暗闇にいたとしても、彼女は特別で目を逸らすことはできない。できない、という言い回しはしっくりこない。……そうか、ぼくはそんなことしたくないんや。
なまえはカゲツが目を伏せ、自分の手に擦り寄るような仕草を混ぜて放った言葉に目を見開いた。触れた瞬間は冷たかった頬が段々と熱を帯びていくのを感じる。
「……うん。私もだよ」
彼の目元に落ちた影がゆっくりと伸びていく。夕が暮れて夜が顔を出すのは時間の問題だ。ゆっくりと瞼を押し上げると、微笑む彼女がその双眸に自分だけを映している。カゲツは彼女が向けるこの眼差しが永遠に自分だけのものだったらいいのにと思った。
閉ざされた里の中で同じ運命を辿ってきた。その軌跡を腐れ縁と名付けるには勿体ないと思うこと自体が、全ての始まりだったのだろう。恋のように甘酸っぱいものでもないが、友達と呼べるほど爽やかなものでもない。傍らで、その星の元に生まれたとは言え、この手に人の命を握る自分がいつか清らかな彼女を汚してしまうのではないかと、恐れていた。でもそれは思い上がりだった。
ほんとうは、ずっと前から気が付いていた。どんな自分とでも、彼女はどこまでも手を繋いでいてくれると。