おねーさんと高校生




◎藤真



ああもう!という、大きな独り言を、たぶん、口に出してしまった。

でもそれを言いたくなるくらいには、たった今終バスに乗り遅れた自分に苛ついていたし、夜中の郊外の駅じゃ誰もいないから、聞かれもしない。その安心感のせいだ。



駅の改札からバス停まで、学生時代にも走ったことがないくらいの本気走りをしてしまった私の肺と喉は、いつもじゃ有り得ないくらいに悲鳴を上げている。"悲鳴"という文字通りに、変な音も出している始末。
自分の荒い息が聞こえるのも嫌で、静かに、誰もいなくなってひんやりとしたバス停に立ち尽くす。
それから、少し疲れたから、近くにあるベンチに腰を掛けた。
やっぱり久しぶりに走るとキツいものがあるな、とちょっと笑ってしまって、思いきり浅い呼吸を再び繰り返した。



そろそろ帰ろう。
少し息が落ち着いてきたな、と思ったときにはかなりの時間が過ぎてきた。もうバスがなくなってしまった今、歩いて帰るしかないんだから、早くしなきゃ。
そう自分に言って、ぐっと立ち上がれば、いきなりの動作に身体がびっくりしたかのように、目の前が真っ白になった。
ついでに足も、ずんと重くなって、ふらふらする。

別に立ちっぱなしになってれば直ぐに治まる立ち眩みだし急ぐこともない、と頭の片隅で思って、ひたすら治るまでぼーっとしていると、不意に肩に軽い衝撃。

「っ、」悲鳴に近い息を出しながら、ぱっと振り返ると、驚いた顔をした若い男の子。

「あ、すんません…」
「え、ああ、いえ…」
なんだろう、という猜疑と疑問に満ちた目をしていたらしい私に、その制服を着た子は恐る恐る私の様子を窺う。向こうの方が背は高いから、私の顔を覗き込むような体勢。

「あー…、大丈夫ですか?」
「あ、えっと、はい、なんとか」
「なら良かった。あらぬ方向見てぼーっとしてたから、何かあったのかと思って…」
少し笑いながらその人がいうから、ちょっと恥ずかしい。私も思わず照れ笑いを浮かべてから、「ちょっとだけ、立ち眩み」とだけ答えた。

「治ったんですか?」
「うん、もう大丈夫です」
そう言うと、その子は少しばかり微笑んだ。
よく見ると、なんて綺麗な人なんだろうっていうくらい整った顔だった。街灯の薄暗い明かりの陰では気付かなかったが、彼がゆらりと後ろ向きに三歩踏み出したときには、嫌というほどそれがはっきり分かった。

少し遠ざかったその人を見て、この突然始まった会話はお終いかなと思って会釈でもしようとしたとき、声が聞こえた。
「あ、俺、自転車なんで…方向どっちです?」
「…、こっち、です」
「ああ、同じ。じゃ、途中まで一緒に行きますから」

こちらが驚いて、なんでと訊けば、酸欠状態だったらしい私を心配してくれてのことらしい。
それにしてもそんなにしなくても良いのに、と少し感じたが、ここで断っても結局同じ道を帰るんだ。
チェーンのロックを外し終えた彼に向かって、私は少し口角を上げ、頷いた。





夜の道は暗い。
昼間はあんなに明るくて、人がいて、賑わっているのに。観光客も少しは来る地域なのも相俟って、どうもこの夜の街の寂しさを余計に感じる。いつまでたっても慣れないものだ。

隣を自転車を引きながら歩いている背の高い学生にそっと目を向けると、ちょっとだけ穏やかな顔をした彼と目が合った。
「おれ、幽霊かと思った」

「……え?」
「だから、あなたのこと。幽霊かと思ったんです、って」
「はあ、ゆうれい…」
小さく呟くと、すぐ近くには吹き出しそうな顔をした彼。それにつられて、私も思わず笑ってしまう。
「…確かに、顔色は悪かっただろうし、立ったまんまだったもんね」
「それに、あらぬ方向見てたのもありますけど」

少し恥ずかしいから敢えて言わなかったのに。目で少しその人を睨めば、完璧なフォームで肩を竦めてみせられた。


しばらく二人でとぼとぼ歩いていると、少し明るい道に出た。ふと視線を上げると、五メートル先に交番と、仁王立ちしたお巡りさん。
途端に制服姿の隣に意識が向いて、よく分からない焦りを感じた。なんとなく、歩く動作にも力が入る。

自分でもなんの心配をしたのかよく分からなかったが、とにかく、何事もなくその前を通りすぎることはできた。

「ああよかった…補導されずにすんだな…」

「え?」

何やら物騒なことを言ったから怪訝に思っていれば、「おれ、制服だから。こんな時間じゃ普通、補導…ていうか注意されること多くて」と呑気な、それでいて少し楽しそうな声。
「そうか、制服…」なんとなくどぎまぎした自分の意味が分かった気がした。
「お姉さんのおかげ」
レモンの香りがしそうなほどの爽やかな声で面白くそう言うから、なんだか凄く下らないことなのに、ちょっと気恥ずかしくなってしまう自分がいた。


からから、と途切れることなく聞こえていた車輪の音が、はたと止まる。
それにつられて振り向けば、街灯のある曲がり角に佇んだままのその人。

「おれ、こっちなんで」
「あ、そうか…ここまで、ありがとう」
「いいえ、こちらこそ。あと、お大事に。それから、立ち眩みのときは目を閉じた方が良いと思う」
にやっと不敵な笑みを残して、彼は颯爽と自転車に跨がり、軽く開いた片手を見せて、直ぐに見えなくなってしまった。

ペダルを踏む音やチェーンが軋む音が、夜の静けさのなか、段々と遠ざかるのを感じる。

最後にとても余計な、恥ずかしいアドバイスを置いていった彼に対しての溜め息は、誰に聞かれることもなく直ぐに消えた。 

恥ずかしいことだらけの事件だった。
けれどとりあえず今回のことは、思わぬ不思議な経験をしちゃったな、というポジティブな思い出として覚えておくようにしよう、と決めながら、私は再び薄暗い夜道の上、自宅の玄関を目指して歩き続けた。





160823



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-Suichu Moratorium-