ざわざわと、庭に植えられた木々が揺れる。
照り付ける日差しの中、頬を撫でた風はじっとりと熱さを孕んでいて、額に流れる汗を拭った。
今日もいい天気だ。
「お洗濯日和だなあ」
きっと夕方に取り込んだ洗濯物は石鹸と太陽とが混じった良い香りがするんだろう。
お行儀が悪いけれど、取り込んだばかりの洗濯物に埋もれてその香りを吸いこむのが楽しみだ。こればかりは家事をしている人間の特権。
先日の幽霊騒動から数日が経過した今日。あれ以降大きな事件も特になく平和な毎日を過ごせていた。
山崎さんは…あれ以降、何も言ってこないのでモヤモヤするけれど。
そんなことを想いながら手元にある買い物袋を見下げて、思わず笑みがこぼれる。
また土方さんのマヨネーズが減ってきたので(明らかに消費スピードが尋常じゃないけれど)買い出しに出たら、いつも利用しているスーパーでマヨネーズが売り切れており(そんなことがあるのかと膝から崩れ落ちた)、仕方なく少し遠出して普段はいかないスーパーに行ったら、特売をやっていたのだ。
おかげで乳製品(特にマヨネーズ)や卵を格安で購入することが出来た。
安いからと調子に乗って買いすぎて、食材の重みでふらついてしまうけれどそれにすらお釣りが来るほど得した気分だ。
歩きなれない街並みを鼻歌交じりに歩いている、その時だった。
「もし、そこのお嬢さん」
そんな声が聞こえて振り返る。
人通りが多くざわついているこの空間の中で、果たして"お嬢さん"に分類する人間は何人いるだろうと思ったが、とりあえず辺りを見渡す。
すると道の端でこちらを向いて手招きしている人影を見つけた。
この暑いのに着物を何重にも着込み、長い黒髪がしゃなりと腰のあたりまで伸びていた。顔を隠すように笠を深く被ったその頬には汗一つ垂れていない。
改めて周囲を見渡すがその姿を見て立ち止まったのは自分だけのようで、その人物が変わらず同じ場所で手招きを続けているところを見ると、呼ばれているのは自分なんだろう。怪しすぎるその様相にどうしようかと迷ったものの、意を決して人の流れを外れ、その人影の目の前まで歩み出た。
「何か御用でしょうか…?」
恐る恐るそう尋ねる。
するとその人物が懐に手を入れるものだから、思わず身構えてしまった。少しだけ後ずさる。
だがここまで近づき応えてしまった以上ここで逃げ出すのはもし相手が本当に困っている人だったら少々失礼だろう。幸い人目もある。そう大事には至らないはずだ。
その人物の手は数秒ほど懐の中を弄って、ゆっくりと戻ってきた。その手に握られていたのは物騒な武器でも爆弾でもなく、一枚の紙。
「ここに行きたいのだけれど、迷ってしまって。もしわかれば教えて戴けませんか?」
一瞬でもその人を疑ってしまった自分を恥じる。
旅のお方なら、これだけ厚着をしていても不思議ではないだろう。
心の中で謝りながら買い物袋を一旦日陰に置いて、差し出された紙を受け取って開く。
そこに描かれていたのは店の名前と簡素な地図だけ…確かに、これでは周辺住民じゃない限り分かりにくいだろう。旅人なら尚更だ。
「ああ。このお店、私もよく行くんです。えっと、この道を真っ直ぐ行って……」
人が行き交う道を指して説明をしようと思ったが留まる。
旅人の方を見ると、口元は少し不安そうにしていた。
「…口頭じゃわかりにくいですよね。もし良ければご案内しましょうか?私も同じ方向へ行くので」
「本当ですか?お願いします」
ぺこりと頭を下げるその人に笑みを浮かべ、買い物袋を手に並んで人込みを歩く。
それにしても随分背が高い。下から見上げているにも関わらずやはり口元しか見えなくて、ちょっとだけ不安になる。
「この街は、賑やかで楽しいですね。田舎から出てきたものだから目移りしてしまいます」
その方はきょろきょろと辺りを見渡しながらついてきた。
特に背後を気にしているような、そんな様子が何だか可愛らしくて思わず笑ってしまう。
「そうなんですね。この街にはどのくらいいらっしゃるおつもりで?」
「まだ決めていないの。でもとても楽しそうだから暫く滞在しようかしら。もし良ければ日を改めて別の場所も案内してくださる?」
「勿論。あ、でも私も仕事がありますので…手が空いていれば、で良ければ」
笠から覗く口元がふわりと微笑んだ。
「あ、あそこですよ。仰ってたお店」
前方に先ほど見せてもらった紙に書かれていたものと同じ店名が掲げられた看板が姿を現す。
それを指すと、隣を歩いていたその人は、ほう、と息を吐いた。
お店の目の前まで来ると、その人は手に持った紙と看板とを何度か交互に見て、それを大切そうに懐に仕舞い込むと深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました」
「お役に立てて何よりです」
迷わなくて良かった、と安心したように零れたその声にこちらまで嬉しくなる。
「本当にありがとう。差し支えなければお名前を聞いても?」
「勿論。咲と申します」
がさ、とその人が身に着けた笠が音を立てた。
「咲さん。素敵なお名前。私の名前は、」
風に攫われたそれを追いかけることなく、笠を抑えていた右手は気が付けば私の左手の手首を掴んでいる。
笠でずっと隠れていたその瞳と目が合った。
「桂小太郎、と申す」
ぞくり、と背筋が粟立った。
次の瞬間私の手首は強く引かれて、お店の脇にあった路地に押し込まれる。
背後にある壁と前方に居るその人とに抱き込めるようにされ、身動きが取れなくなった。
「少し我慢していてくれ」
口に彼の大きな手のひらが宛がわれて声が出せなくなる。
目の前にある胸を押し返すがびくともしない。
その時、路地の奥、開けた大きな道の方、先ほどまで私たちがいた店の前にあまり清潔とは言えない身なりの男二人が駆け寄るのが見えた。
「クソッあの女どこいきやがった?!」
「探せ!まだこの辺に居るはずだ!」
あの店は少し裏道にあるため先ほどまで歩いていた道よりも断然人通りが少ない。
周囲に人が居ないのをいいことに彼らは乱暴に叫ぶ。
「絶対探し出して捕まえろ!"真選組の弱点"を!」
ばたばたと行儀の悪い足音はそれだけ言い残して遠ざかっていった。
それを確認したのか、私を押さえつけていた人影と口に宛がわれていた手は離れていく。
「手荒な真似をしてすまなかった。貴殿の後をずっと尾けている輩が居たものだから助けようと思ったのだが…思ったよりしつこくてな。こうするしかなかった。怪我はしていないか?」
状況が呑み込めなかったがとりあえず怪我はしていないので、彼の言葉にこくりと頷いた。
手も身体も離してくれたことを考えると敵意は無いんだろうけれど…。
「あの…桂小太郎さん、って攘夷浪士、なんですよね…?どうして私を…?」
ただの女中とはいえ真選組にいる自分と攘夷浪士である彼とが何事もなく同じ空間にいられるのは、あまり普通ではないことのように思える。
確かに最近めっきり大人しくなったと土方さんがボヤいていたような気がしなくもないけれど。
「確かに俺は攘夷浪士だが、もう過激な活動はやめたんだ。ここには大切なものが出来過ぎたから」
「そ、そうなんですか…」
「それに女を助けるのに理由が居るか?男はいつだって女を守って然るべきだ」
そう言い、彼は腕を組んで微笑んだ。
果たして彼の言葉はすべて信用に値するかと言われれば怪しいところなのだけれど、助けてもらったのは事実なのだろう。
少なくとも今日のところは。
「ありがとうございました。桂さん。あなたが居なかったら私今頃…」
「いや、構わん。それより咲殿、気を付けろ。貴殿を狙っているのはほんの数人ではない。俺はとっくに穏便派だが、まだ過激派の攘夷浪士は切って捨てるほどいる。あまり一人で出歩くのは避けた方がいい。何より、女性なのだから」
彼の長い指が髪の毛の束を持ち上げ傷だらけの手のひらで楽しそうに弄び始めた。
「あ、あの…何か?」
「いや…綺麗な髪だと思ってな」
なんだかくすぐったくて身を捩る。彼の流れるような黒髪の方が艶めいていて綺麗だと思うのだけれど…。
やっぱり悪い人じゃないのかもしれない。改めてお礼を言おうと顔を上げた次の瞬間、その手は離れていった。
と同時に背後から腰に腕が回る。顔の横を煙草の香りが通り抜けた。そしてすぐに嗅ぎなれた石鹸の香りが鼻先を掠める。
「咲さん、大丈夫?!」
腰に回っているその手は震えていて、心配が見て取れた。
「山、崎さん…」
気が付けば周囲には土方さん、沖田さん、近藤さん…他にも数名の隊員がいて、桂小太郎に切っ先を向けたまま私を心配そうに見ていた。
「もう少し見つけるのが遅かったら危なかった。だがもう大丈夫だ、咲!」
近藤さんはそう言い、にい、と笑う。
「油断も隙もあったもんじゃねえな。最近随分大人しくしてたみてーだが、本性表しやがったか?」
「全くでさァ。しかも非力な女中を狙うたァ趣味が悪いんじゃないですかィ?」
すらりと刀を抜いた土方さんに倣うように、沖田さんはバズーカを構えた。
その様子を、中心にいる桂小太郎は見渡して肩をすくめる。
「丁度いい。貴殿らにも忠告をしておく。咲殿は攘夷浪士から狙われている。せいぜい目を離さないよう、気を付けることだな」
そう言うと彼は懐から何かを取り出し、それを地面に力いっぱい叩きつけた。同時に周囲に粉塵が舞う。
ぎゅう、と山崎さんに庇うようにきつく抱きしめられて、思わずそれに呼応するように彼の着物の袖を握りしめた。
煙が晴れた次の瞬間そこに居たはずの桂の姿は忽然と消えている。
「あまり心配かけさせてやるなよ」
耳のすぐ近くで、そう聞こえたような気がした。