ふわりと、鼻先をアルコールの香りが掠めた。
頭上でからからと鈴が鳴る。薄暗い店内に蓄音機が吐き出す音色が反響していた。
店の中にはバーテンが一人と見慣れた背中。
先に始めていたのか耳の先が少しだけ赤くなっていた。
「急に呼び出して、どうしたの」
見慣れた背中の隣に座ると、つんとアルコールの香りが強く鼻孔を突き上げる。
ふいと顔を見上げた隣の男の顔は思ったよりも赤く、それなりに出来上がっているようだった。
「おお、夏鈴。待ってたぞ」
彼はそう言って笑うとバーテンに視線を移す。
「マスター、おかわり。あとこいつに同じものを…」
「それウイスキーでしょ? いらない。この後仕事なの。軽めのカクテルを頂戴」
彼の声を遮ると不服そうに頬を膨らませてこちらを見てきた。
いい年をしてなんて顔をするんだ、この男は。
「それで? 何かあったの」
出されたウイスキーを殆ど一息で飲み切り、彼はグラスをカウンターに置く。からん、とグラスに残った氷が音を立てた。
それに倣うように、目の前に差し出されたカクテルグラスに口をつける。
ふわりと柑橘系の甘さが舌の上で香った。
「ツナが、次期10代目に襲名された」
危うくグラスを落としかける。なんとかそれは堪えて、コースターの上にグラスをそっと置いた。
「恐らく今後あの子を狙う殺し屋が日本に押し寄せるだろう」
もう一杯おかわりしたウイスキーをまた飲み干して、彼はこちらをじいと見る。
顔の横から視線を感じながら、カクテルを一気に飲み干した。たん、と少し音を立ててコースターが跳ねる。
「…帰る」
「ん?」
「こんなところに居る場合じゃない。今日の仕事が終わり次第、日本に帰る」
本当は今日の仕事すら放り投げて今すぐに飛行機に飛び乗りたいくらいだが、それは流石に自分の名前に傷がついてしまうので避けることにした。
「飛行機のチケット、三時間後で取っておいてくれる?」
そう言いながら立ち上がると目の前に白い封筒が差し出される。そっと受け取って開くと、日本行きのチケットが入っていた。
思わず目を丸くしながら男の顔を見る。
「母さんには連絡しておいた。お前の部屋はいつでも帰ってこられるようになってるってさ」
「……なによ、最初っから私を帰すつもりだったんじゃない」
「お前なら絶対に帰るって言うと思ったからな。ただ、飛行機の出発時刻が一時間後だ。間に合うか?」
彼の顔が不安げに歪められた。その顔を笑い飛ばして、上着を羽織り、懐に入れていた仮面を被る。
「余裕」
それだけ言い放って、私はまた、からころと音が鳴るドアをくぐった。