はじめに
冬海朔というひとりの『アイドル』のことを語ろうとするとき、誰よりもなによりもいちばん早くに名前が挙がるのは、逆先夏目をおいてはほかに存在しないだろう。というか、いないべきだ。アイドルとしてだけではなくて、きちんとした人間性を持った冬海朔の原点は間違いなく夏目だし、彼以外が名乗りを上げるとしたら、もしかしたら英智などはあり得るかもしれないが――事実、そうではない。夏目が朔の人生の起点であったことを夏目が知るタイミングは、少なくともこれまでにはなかった。そして今後も、夏目がそれを知る機会はないだろう。朔はそれを夏目に晒すつもりはない。いま朔のことを従えている、例の天使みたいな顔をした愉快犯が、そのためのシーンを設けたりしなければ、という話ではあるけれど。
朔は自分でこそ自分のアイドルとしての善性を自覚しきってはいないけれど、少なからず『アイドル・冬海朔』という『男』に魅せられて、あるいは朔に憧れて、誰もが羨む世界的ダンサーとしての名声を捨ててまで単身渡日した春名茜という男が、どこまでも朔のアイドルとしての魅力を担保している。ある種国際的な力さえ持つ『若き天才ダンサーのアカネ・ハルナ』の名を放り投げて、彼は朔のいる夢ノ咲学院の門を叩いた。茜が誰よりも敬愛している朔の隣に自分の籍を用意している以上、朔自身では自分をどう考えていようと、朔のアイドルとしての魅力が一級品であることは、すでに証明されている。朔先輩朔先輩と犬のように朔のことを先輩と呼び慕ってくれる茜のことを見る度、朔は茜に対しての申し訳なさにやや委縮していて、困惑した表情にも近い苦笑すら浮かべた。しかしそれでもなお、冬海朔は茜の中のアイドル性を崩さぬよう対応して、応えている。どのようなことがあろうとも、そのはじまりになにがあったとしても、自分に自信がなくても、冬海朔は間違いなく『アイドル』だ。朔は茜に対してアイドル的な体裁を保った。けれど、それは茜を『同じ舞台に立つ仲間』としてではなく、朔が笑顔を届けるべく邁進しているファンと同じ扱いをしていることにほかならない。
「朔せんぱいはね。『アイドル』ですよ、まちがいなく。うん。私だってそう思います。仲間とか先輩とか、それいじょうに、あのひとはアイドルなの。でも、それだけじゃなくて……私の、かみさまなんです」
くすんだ柘榴のような赤い髪をゆらして、平時のそれよりもひどくゆるやかな様子で、茜は笑う。学院の女神たる、けれど実際はただの同年代の女の子でしかない転校生を前にして。
やわらかく降り注ぐ太陽の光を浴びるようにほがらかな、学院の中に空間を置く、大きな中庭。あたたかみすら感じる真っ白な椅子に背を預けることなくぴんと姿勢を正している茜の前に座っている転校生は、しかし、テーブルの上のカップになみなみと注がれた紅茶に手を付けることはない。
茜はその語り口にたしかな口惜しさを滲ませながら、けれどもその感情さえもすべてを、是、と断じるように、強く、その瞳に感情を宿して、しずかに口を開いた。
「あのね、転校生さん。あのひとのことを、正しく、『ただのひと』だって認識できるのは、アイドルの内側すら全部偶像だって勘違いしていないひとたちだけなんです。ひとの全部をないがしろになんかしない、きよらかな新雪みたいなひとだけ」
それから、私がいちどだけ視聴覚室で見せてもらった掘り出し物――朔せんぱいと逆先が、ふたり、折り重なって歌を紡いでいる映像の中に存在した、時間の流れ。雪景色と時間だけが、冬海朔をただのひとにする。昔、誰かがその光景をレンズに留めて、激動の時代のさなかに、もう何者にも奪われたりしないようにどこかへ隠していたのだろうそれを思い返すように、茜はゆっくりと瞼をおろした。
「転校生さん。私はね、せんぱいがかみさまである事実を許容しちゃうんですよ、きっと。だって、私にとっての朔せんぱいは、ずっとかみさまみたいなひとだから。だから、だめなんです」
「春名くん」
ゆるり、と。普段のそれとは違う色を含ませた儚げな微笑みを晒す茜に、転校生はしずかに腕を伸ばそうとする。それで、その白い腕を掴もうとする前に、少しだけの逡巡を見せるように、その動きを止めて。転校生の手のひらの温度は茜には触れなかった。その代わりに彼女が口にしたのは、紛れもない、純然たる事実だけだ。
「不確定なことは、私には、なにも言えないよ。春名くんが思い詰めているよりも冬海くんは春名くんに自分を見せているかもしれないし、もしかしたら、春名くんの言った通りになにかをずっと考えてるのかもしれない。それでも……春名くんがいなければ、いまの、春名くんが憧れた冬海くんは、ここにはいなかったと思う」
転校生の口から転がり落ちたその言葉に、茜は彼の持つ夕焼けを帯びた海のような青い瞳を細める。気休めみたいな科白だった。茜がほしいのは、そういう、当たり前にある言葉なんかではなくて。
――茜が唯一、朔の望んでいるあのひととは違う色を輝かせているその瞳を見る時、朔はすべてを慈しみ、自壊してしまうような表情を茜の前に晒すのだ。普段の茜を見据えながら、茜を通して、朔が誰のことを懐かしんでいるのか、茜にはもう分かっている。
(『あのひと』に勝てるとは思わない。なにより。勝つ気もない。私は逆立ちしたって朔せんぱいのファンで、だからダンサーとしての名声や権力までつかってせんぱいのことを縛り付けて、『ユニット』だって組ませてもらっているけど。きっとこの先一生、春名茜という人間は、朔せんぱいの中で肥大していく逆先夏目のまぼろしを超えられない)
たしかに、いまの冬海朔をこの世に浮かび上がらせた功績は、他の誰でもなく、この茜のものだろう。だって『With』は、そういう『ユニット』だ。駄々をこねた茜のわがままのために、朔はそこに所属してくれた。しかしそれは、朔の純粋な厚意にすぎない。いまある『Withの冬海朔』という姿をつくりだしたのは間違いなく茜だけれど、それが朔にどのような影響をもたらしたのかを、茜が、あるいは朔との関わりの浅い転校生が理解しきるのは難しい。いくら学院の女神さまにそう言われて励まされたって、どうしても、茜はそうして、むりやり朔を縛り付けたことを気負ってしまう。
その妄執にもちかい失望を隠すように、茜は自分の目の前にある紅茶を呷った。
「こんな着地点のない話を聞いてもらって、ありがとうございました。それから、……うん。ごめんなさい、転校生さん。朔せんぱいには言えなくて」
「ううん、だいじょうぶ。『With』は冬海くんがプロデュースできちゃうし、私はあんまり関わる機会はなかったけど。……私に手伝えることがあったら、なんでもいってね」
「ふふ、はぁい……♪」
すっかり普段通りの笑い方にスイッチを切り替えた茜が、転校生に向かってにこりと笑う。憂鬱とか諦観とかを包含した表情はヴェールの向こうに消えてしまった。
――多分、茜は朔の意見を聞くことなく転校生に話を持ってくることはないのだろうなという予想が、ふと彼女の頭に浮かんだ。こんなタイミングは、今後ほぼありえないものになるのだろうと考えて、転校生はそっと苦笑をこぼした。書類上、また、『ユニット』が成立した理由上、『With』というユニットは茜がリーダーであるはずだけど。でも、いつだって茜は朔のことばかりを見ているから――おのずと、そうなってしまうのだろう。
転校生がそう思いながら茜のことを流し見た矢先、お茶はもういいんですか、という声とともに、ちらりと覗いた薄い水色の髪が揺れる。中庭でひっそりと開催された相談会という名のお茶会のセッティングを手伝ってくれたのは、誰あろう彼――紅茶部の紫乃創で、茜と転校生は、だいたい同じタイミングで彼の声が聞こえる方に振り返った。
「あ、はじめちゃん。紅茶ありがとう、とっても美味しかったよ」
「えへへっ、それならよかったです……♪ えっと、茜くんの悩みが解決できるお手伝いくらいは、僕でもできたかなって」
「心配してくれてありがとぉ。私の悩みについては……うーん。解決の糸口が見えた、って感じかも? ふふっ、はじめちゃんはいい子だねえ、私がよしよししてあげるっ。よしよおし……☆」
「わわっ、茜くん! 髪の毛がぼさぼさになっちゃいます……♪」
穏やかな風景。きわめてありふれた、いたいけで純粋な一年生たちが戯れているその陽だまりのような光景は、輝かしく降る陽光と相まって、天使たちの戯れのようで、転校生はほう、と息を吐く。いまのいままで岩のように重苦しい感情を吐露していたようには到底思えないような茜に、転校生はややあって笑みをこぼした。
(いつか、春名くんの気持ちが、ただしく朔くんに届きますように)
それくらいなら、転校生がひそやかに祈っていたって、罰は当たらないだろう――たぶん、きっと。