Rousing
それはまるで、この世界の景色ではないようだった。どこか遠くおそろしい世界の中に否応なく引きずり込まれてしまうような、いっそ不気味なほどに真っ赤すぎる、大きな太陽だった。夕暮れ、地平線に沈んでいく恐怖を滲ませるくらいの大きさを抱く陽光の影が、朔にとって忌々しくうつくしい、たとえどんなに愛おしく恋しくとももう腕の中に帰ってくることのない思い出すらを呼び起こすような、青空のようにうすく輝く水色の瞳と重なっていく。その色彩とは綺麗に反照を見せた、血のように赤く染まったくらい瞳、あるいは、太陽のもとにきらめく穏やかに凪いだクリーム色の髪と、つややかに風に靡く、うねりをみせる烏の濡れ羽色の髪。それらのことを思えば、彼らが対照の立場にあることは、およそ天命によって定められていたことなのではないかとすら思ってしまって――そこまで考えてから、その思考を自分の中から追い出すように、朔はしずかにかぶりを振った。
あの頃、朔とともに過ごしていた――そうあることを許してくれていた五人の天才たちの姿は、いまはもう、朔のそばにはない。革命というシナリオの著者、すべての楽章の指揮者、夢ノ咲学院の改革を先導していた天祥院英智に地へと蹴落とされ、すでに開かれてしまった地獄の扉に吸い込まれてしまった四人も、そんな兄たちにずっと守られたまま、場外からそれを見ることしかできなかった残りの一人も、もはや、朔ではないほかの誰かの手で救われてしまった。
――きみも、ずいぶんと『なんぎ』な子だね。
かつて夢ノ咲学院のアイドルたちの頂点に立っていた『ユニット』の二枚看板のひとりは、むかし、朔に向かってそう告げた。いたましいものを見るかのようにゆるく細められた鮮烈なプラムの瞳は、朔の記憶の中で補完されていただけのものであろうと、いまだにその鮮やかな博愛を保っている。
「ぼくなら、たぶんそんなことはしないだろうね。というか、全世界の誰もが、きみよりはリスク管理が上手だと思うけれど。それでも、きみはそういう生き方をやめられないんだろうね――それが、きみの抱く『愛』の唯一の表現方法なのだろうし」
「……手厳しいですね、日和先輩」
「『先輩』としてのアドバイスだと思ってほしいねっ。きみはそういうのはひどく不慣れみたいだし、夢ノ咲への置き土産としては、こうやって先輩ぶってみるのもひとつだしね?」
木枯らしの吹き荒ぶ寒い冬。朔の青い髪をもてあそぶ強い風のふりをして、日和は愉快そうに胸を張った。対する朔は、くらい翡翠の瞳を不思議そうに瞬かせて、朔を見下ろす日和の表情を覗いている。
はて、そんなに日和と自分は関わっていないはずなんだけど、といった様子で眉を顰めている朔から、一瞬だけ、日和がすっと目を逸らした。朔に聞こえるかどうかの声で、呟くように漏らした言葉は、結局朔には届かなかったようだ。
「――遠縁の情けっていうのもあるのかもしれないね」
「先輩? いま、なにか――」
「いや? こっちの話だし、きみはあんまり気にしないでほしいね。……ふふ♪ よく見てみたら、たしかに似てるね、きみ」
「はあ。俺と先輩が、ですか? あんまり似てない気がするんですけど」
「ぼくときみが、じゃないね。知人ときみの目が、よく似ているなって。――ぼくだって、英智くんに言われるまでは気付かなかったけど。うん……そこはちょっと、悔しいかもね」
何の話をしているんですかと言いたげな、困ったような表情だった。ぱちぱちと瞬きを繰り返す朔をよそに、日和はそっと瞼を閉じる。――うん。やっぱり、あのひとは朔によく似ている。どちらかといえば、朔があのひとに似ている、と言ったほうが正しいんだろうけど。
「ともかく。きみは、この魑魅魍魎が跋扈する地獄を英智くんがさら地にしてしまった、そのあと。なにもなくなったこの世界を生き抜く方法だけ、考えているべきだね」
こうやって日和が朔に意味深なことばかり言うものだから、朔は父にその答えをせがむことを忘れてしまった。子どもが当たり前に持っている権利とかそういうものを、親子関係が現状最悪な冬海家に持ち帰ることもできなかったし。なにより、この地獄みたいな場所を超えて、そばにいた誰もがいなくなってもなお生き残ってしまうようなことを考えることすら、なにも考えていなかった。あの時代に自分が動くことも考えることも諦めてしまったから自分ひとりだけが誰も彼もから置いていかれたのかと考えれば、ある程度妥当な仕打ちであろうとすら思ってしまったこともあるけれど。
――朔のことが必要だと宣って、脅しなんて姑息な手まで使ってきたはずの英智さえ、いまはその傍にいるうつくしい小さな瞬きの星が伸ばした手を取っている。誰よりも誰かの傍にいたかったはずなのに、結局誰も朔の隣にいてくれなかったのも、戻ってきてくれなかったのも全部、寂しくて、辛くて、悲しくて――もう、どうにかなってしまいそうだ、とすら思って。正気を保てているのかどうかさえ怪しい朔の頭の中はいつだってぐちゃぐちゃで、まるで真っ黒なクレヨンで画用紙を塗りつぶしてしまったようなどす黒い感情は、あまりにわかりやすく、朔の脳内を支配していた。
救われたかった。それでも、誰より先に楽そうな道に逸れてしまったから、朔のことすべてを引き上げようとするには、朔はあまりに傷を負わなさ過ぎている。大仰に救われるような余地は、もはや朔にはなかった。それでもどうしても誰かに救われたくて、救ってほしくて、誰かの手を取りたかった。春名茜という男が朔を呼び慕うことがなければ、朔はこの感傷を心臓の中で風船みたいに膨れ上がらせたままにすべてを諦め、夕闇の中に背を預けていただろう。
ぼんやりと地に沈んでゆく夕日に焼け焦げたオレンジ色を反射させた翡翠の瞳が、この夢ノ咲にあるだだっ広い屋上の、重苦しい銀色のフェンスにぶつかって、がしゃんという小さな金属音が耳の奥に響く。死、というなによりも魅力的な輝きを、ただひとつ朔の中にある後悔をすべて帳消しにしてくれるであろう唯一の救いをこの手の中に握るのは、いまであれば簡単だった。けれども、校舎裏にひっそりと建てられている、夢破れた者たちの眠る慰霊碑といっしょくたにされるのもなんとなく癪な気がして、朔は夕日のように沈みゆく思考を切り替えるように、ぱちり、とひとつちいさな瞬きを呈す。
自分のそれが夕日と同じ、とは、幻想の中であれどどうしても、そう思うことはできない。夕日は、朔の持つ透き通るように薄い翡翠のそれとは似ても似つかないし――もし、この夕日を、誰かのものに例えるとするのなら、それは。
朔ははたと色濃く馴染みの赤色を滲ませる自分の頭に気付いて、ちいさな苦笑をこぼす。
(……未練、だなあ)
冬海朔が、ほんとうの意味で、ひとりで立っていた『アイドル』だった時代への。
過去に思い馳せるように瞳にうつろな光を灯した朔を遮るように、朔の後ろからは、やや重めの――きい、がちゃん、という音に重なる、ぱたぱたとこちらに駆けてくる軽い靴音。冬海くんと朔の名前を紡ぐ甘やかな高い声は、最近になってやっと見慣れてきた、夢ノ咲学院プロデュース科の唯一の生徒のものだ。
ぼんやりと夕日を見ているときに風に弄ばれてしまったのだろう、ひっかけていた肩からいつの間にやらずるりと落ちてきていた深いグレーのセーターカーディガンをしっかりと羽織り直し、いままでなにを見ていたのか、なにを考え、なにを思っていたのかすらすべてを心臓の裏に隠すようにして覆った朔が、にっこりと穏やかな笑みを浮かべ、転校生の方へ視線をやった。
「俺に用事? 珍しいね。どうかしたの、あんずちゃん」
「あ、えっと……つぎのライブプロデュースの件で、相談したいことがあって。会長に冬海くんのことを聞いたら、冬海くんなら屋上にいるかもねって」
「……なんで会長に俺のいるところを聞いたのかは気になるところだけど。まあいいや」
晩春の、初夏の、なまあたたかい風が吹いている。朔のことを見つめている転校生の表情はいやに真摯だ。彼女から向けられる視線を誤魔化すように、朔は転校生から目を逸らす。
「つぎのライブって、俺たちのじゃないよね? 茜からもそういう話はとくに聞いてないし、予定もないし」
「あはは、うん、そう。そうなんだけどね。私が助けてほしいのは、えっと……ライブそのものじゃなくて、演出のほう」
「……ああ、なるほど」
演出。自分の力不足を恥じるかのように顔をしたにやった転校生のことを見下ろすようなかたちで、朔は彼女のほうに視線を戻して、こくりとひとつ頷きを返した。
「俺っていうか、『わたし』のほうだね」
「冬海くんがよかったら、勉強させてほしいなって思ってるんだけど。……いいかな?」
「ふふ、うん、いいよ。わたしでよければ、きみという女神の一助になろう。まあ、わたしに任せておきなさい……♪」
あらゆるものを内包する木々のような、深いブラウンの髪。屋上に吹いているやわらかな風は、肩甲骨まである彼女の髪をふわりと揺らしている。転校生の持つ瞳は、先ほどまで朔が脳裏に浮かべていた息の詰まるような高い天などではなく、もっとずっと澄んだ、見慣れた青空の色で。これこそがまさに空であると言わんばかりの、穏やかなブルーだ。
『With』――朔が、朔のことを慕ってくれているひとつ下の後輩と組んでいる『ユニット』のライブは、少なくとも彼女――今年度からこの校舎に転入してきたプロデュース科第一号、あるいはテストケース、悪し様に言ってしまえば実験体の少女――には任されていない。とはいえ、それも今のところ、という話でしかないが。元より朔は去年、方々の知人から演出やプロデュースのノウハウを教わり、なおかつそれを活用し、伸ばす機会にも恵まれていた。『With』の基本的なプロデュースや仕事の斡旋を行うのは実のところ朔であるし、そういった意味で、もちろん悪い意味ではないけれど、『With』は、夢ノ咲の女神である彼女の手は必要としていない。生徒会権限で彼女の手を加えなさいと言われたら、英智に対して強く出られない朔は、はいと頷くしかないけれども。現状、そんな命令もとくにはくだされていないわけだし。
で、あるというのなら。いまこうして、朔を探してまでなにかを乞おうとしている転校生が望んでいるのは、アイドル、すなわち歌って踊れるアイドル科の生徒である『俺』ではなく、裏方――アイドルではない、何者でもない、あるいは何者にもなりえる影にもひとしい『わたし』であることは、自然、伺い見ることができるだろう。それを肯定するようにこくりとひとつ頷いた転校生が背にしている屋上から階段に繋がる扉をこっそりと見据えた朔は、こつり、と、フェンスに近く、儚げですらあった足場を組み直し、転校生のもとへと足を進めた。
「君、いままでに斎宮先輩の手がけた演出を見たことは?」
「斎宮先輩って……たしか、『Valkyrie』の? それなら、片手で数えるくらいだけど……視聴覚室でなら」
春。彼の救い、あるいは、光に近い、手の届きさえするような電撃――『Switch』が出演したイースターライブに、影片みかの姿があったということは、朔も重々承知している。しかしあれは決して『Valkyrie』の、斎宮宗という尊敬すべき芸術家が一から演出を組み上げたライブではない。それを理解し、この目で見たことはないと言い切ったことは、そこそこ高得点だ。満足そうに頷いた朔は、では次に、と、緊張を包含するような一拍だけ、ちいさく息を置く。
「うん。じゃあ、そうだね。……逆先くんの演出は、どう? 見たことはある?」
「え? ううん、えっと、でも『Switch』のお披露目のときに、一回だけ」
彼の名前を口にするだけで、心臓が寒さに震えるようだった。寂寞感と恐怖。自分が裏切ってしまった親友。もはや道を違えたひと。――いまの震える朔の様子は転校生には露呈していないようだったが、それも時間の問題だろう。性質上アイドルたちとの関りが深い彼女に朔の裏側を知られるときが来るだろうと思うと、それはすこしおそろしいことのようにも思えた。
頭を切り替えるようにして、朔は凛として声を張り上げる。記憶の波を漂っていたらしい転校生がはっとして朔のほうを見上げるのを満足気に見て、朔は言葉を続けた。
「では、会長――天祥院英智さんの演出はどうかな? ここ最近はあんまりやってないみたいだけど。斎宮先輩のステージを見るくらい勉強熱心な君なら、どうだろう?」
「資料を見た上での想像なら、できるとおもう。……できます。実際に見たことは、まだないけど」
見たことのある書類に書かれた文字を記憶の中で追っているのだろう、顎に指をあてて考え込む転校生をよそに、朔は会話を交わしながら進めていた足のまま、きい、と重苦しい金属音を立てる扉の取っ手に手を掛けた。
「演出というのにも、個性があって、癖があり、人格がある」
例えば、朔に演出のいろはを教えてくれた師――斎宮宗のように。例えば、今しがた朔がとなえたアイドルたちのように。
「見たことがあるのなら分かりやすいと思うけれど。斎宮先輩の演出は、随分とクラシック調で、荘厳なものだよね。パフォーマンスとも歌とも喧嘩してないのは、あれがすべて斎宮先輩の趣味だからなんだけど」
思い返すのは、朔が見たことのある『Valkyrie』のライブ――と称するにはあまりにもその表現が俗物的なものすぎたそれのことだ。宗の操る糸の先を踊っていた人形たちの姿は、うつくしく、麗しく、その中にたったひとり息をする人形師の姿は、なによりも帝王然としていた。まあ、宗の貫いていたあのスタイルも、ただの趣味だからだと言ってしまえば、その言葉だけはちゃちなものに映ってしまうかもしれないけど。
「逆先くんは……、彼の『ユニット』のテーマのこともあって、最先端の技術を組み込むことが多いよね。彼らはまさしく『魔法使い』で、そうであると錯覚させるような凄まじい演出を駆使している。唯一無二だ。少なくとも、この夢ノ咲では彼ら以外にそういった演出を使っている『ユニット』はあまり見かけないし――そもそもあそこは、逆先くん以外は別に『魔法使い』というわけでもないからね。押し出せるポイントは綺麗に押し出していくというのは、誰かに教わったかのように上手」
そうして色の変わった演出を思い出すのに、朔はあまりにもその引き出しを開けるのが早かった自分を自覚し、そっと苦笑をこぼす。話しすぎてしまったかもしれないし、無意識のうちに引きずった未練なんて、この調子だとすぐに露呈してしまいそうだ。こほん、と話を変えるように空咳をひとつした朔が「それで、」と言って話を続けるのを、けれど転校生はなにに気が付いた様子もなく、ただ真面目な表情で、朔の演説を聞いているようだった。
「……ええと。それから、会長の演出はね。見せたいものを見せるのがすごく上手い。自分も立っているはずの舞台なのに、いざ自分が目立たない立ち位置を確立しようと思い立ったら、最短距離でそれを完成させてしまう。見せ方が上手いというよりは、そういう風に誘導するのが上手いのかも」
分かるかな、と、朔は転校生に問いかける。さらりと風に揺れた薄青の髪がその中に入れられた赤桃色をちらりと覗かせるのを目で追いかけていた転校生は、分かるような、分からないような、いまいち理解の追いついていないような表情で、朔の持つ翡翠色の瞳を見上げた。
「理解はむずかしいけど、なんとなく」
「うん。まあ、それくらいでじゅうぶんだよ、いまは。なにも『彼らのようになりなさい』と言っているわけじゃないしね」
転校生の吐いた自信のなさげな声に応える朔は、その言葉の通りに、なにも気にしていないような表情を浮かべている。むしろそれが当たり前だとすら言うような微笑のままで立っている朔に、転校生はそっと首を傾げた。それなら、どうして朔は転校生にこんな話をし始めたのだろうか。その疑問が顔に出ていたのかもしれない。朔はやや苦く笑い、演劇の舞台に立つ役者のように大きく腕を広げ、転校生の瞳を見返してみせた。
「わたしの演出も、もちろんだけど。すごいなあと思うようなことを成し遂げるひとにだって、おおよその癖はあるからね。あまり気負わないで、自分の癖を追求してみなさい。初めのうちは真似するのもよし、挑戦してみるのもよし、だよ。まあ、――あまり気負わなくてもいい。君はこの学院で、様々な技術を盗んでおきなさい。君がここを卒業した後、どのような未来に進むのかは、わたしには分からないけれど。この一時だけでも君と歩む、あの綺羅星たちのためにも」
「……うん、頑張ってみる。よろしくお願いします、ええっと、……朔ちゃん、の方がいいのかな」
「……」
――『朔ちゃん』。アイドルではない、冬海朔。影にひとしい、黒子のうちのひとり。スポットライトなんてこの先一生当たることのないその存在を拾い上げられたような気分になって、朔は思わず、笑っているのか、困惑しているのかすらも分からないような変な顔を晒す。もはやこの学院の一部界隈では公然の秘密となっている朔の生物学上の分類を、こうも忌憚なく言ってのけるとは。
「えっと、ごめん。嫌だった?」
「いや……そういうことじゃなくて。ううん、なんて言ったものかな、これは……?」
いやだ、というわけではない。事実、かの魔王にはあの頃もいまもそう呼ばれているということもあるし、今更だ、という意識もたしかに存在しているはずなのに、朔の胸のうちに燻って離れない違和感は、なにに起因するものだというのだろう。転校生に名を呼ばれるときは、波風の立たないようにという気遣いと遠慮のあらわれの『朔さん』か、アイドルとしての冬海朔――『冬海くん』、というのが多かったから、どうも聞き慣れない、というだけなのか。
ともかく、今回朔に対して転校生が頼んできたことは、アイドルである冬海朔がなにかできるだろうかなんて思う余地はない。徹頭徹尾、アイドルの冬海朔ではなく、ただの冬海朔に乞われたことであるならば、転校生に朔がそう呼ばれるのも、それなりに当然とのことと言えた。朔はううん、と幾つかの逡巡を経て、転校生に応える。
「――うん、構わないよ、それで」
ぽつり、と。無意識のうちに出してしまった言葉。朔にとっては、それはひどく懐かしい、聞き慣れた文脈だった。もしかして、誰よりもあの頃を懐古し、未練の中に生きているのは、朔以外にはいないのではないか、とすら思うほどに、朔は口から飛び出たその言葉に対して、またそのセリフを吐いた自分に対して、しずかに、愕然とする。朔の目の前に立っている転校生も分からないような、いっそ凪いですらいるような自嘲的な笑みをこぼしながら、朔はひらりとオーバーサイズのセーターカーディガンを翻し、階下へと繋がる扉にかけていた手のひらを、強く押した。
もはや、『努力すれば報われる』なんて夢物語が多くのアイドルに適応されるようになったいま、耕された大いなる大地に芽吹いた草木の上、その支えによって花開いた花弁である転校生が『そう』なってしまうことはないだろうと、分かってはいるのに。――それでも祈りを捧げてしまうことは、いけないことだろうか? その存在もろくに信じていないような『大いなるもの』に、願いを乞うてしまうのは、罪深いことだろうか?
(傷付きませんように――君が。君たちの行く先が、結末が、君たちの望む、うつくしいものでありますように)
――それだけが。『自分たちの望んだ終わり』を迎えることのできなかった朔から、転校生という『希望』に手渡せる唯一の産物であるのだと。どこまでも愚直に、純粋に――朔は、そう信じていた。