Repulse/第三話
「――舞台? わたしが?」
「ええ! 私が脚本を書いた舞台ですよ。どうです? 夏目くんとともに舞台に立つ、というのは。『兄』として、末っ子同士の共演が見たい、というのもありますけれど」
いかがでしょう。高らかなオペラを謳うかのように、渉は自分の持っていた台本を朔に差し出し、朔に対してそう言った。『魔法使いの弟子』。おそらくは朔と夏目にあてて書かれているのだろうそれをぱらぱらと少しだけ読んで、朔はそっと苦笑いを浮かべる。朔と夏目が並んで舞台に立っているところを見たいのは事実なのだろう、穏やかな笑みを朔に向ける渉に、朔は内心、ひゅるり、という冷たい風が心臓にあいた穴を吹き抜けたようになって、口を噤んだ。
渉のこしらえたその舞台には、おそらく、『末っ子』と『影』を守るしかけがあるのだろう。渉は特別夏目から慕われていたから、さて渉にいさんはどうやって夏目のことを守るのかとは朔も疑問に思っていたけれど――こんな方法で舞台から放り出すことができるとは、流石の朔も目から鱗だった。そうきたか、とすら思って、感嘆したような息を吐く。反対する気はない。役者、あるいは演者、道化師である渉にとってはこれ以上ない、上手いやり方だと思う。――だからって、その庇護下に朔も降りるなんて決意が、朔に決められるはずがない。だって、渉の整えたそのうつくしいまでの筋書きの中に、朔なんて異物がいてはいけないのだから。
「おや、不満そうですね、朔ちゃん? あなたにはお気に召しませんでしたか。私の書いた脚本は?」
「まさか。『あちら』の考えた脚本に対抗し、無理矢理ひと一人分が通り抜けることのできる風穴をあけるのに、こんなにうつくしい作戦はないと思うよ、にいさん。渉にいさんの考えはただしい。わたしが渉にいさんの立場にいたら、こんな提案はできなかっただろうし。すごいよ、にいさんは。……でも、だからこそ、なんだ」
だからこそ。俺のことをその舞台の中心に上がらせたら、いけない。それくらい、渉にいさんなら分かってるはずでしょ、と。あくまで困ったような苦笑を崩さない朔に、渉はやっと、先ほどまで顔に張り付けていた笑顔の仮面をはぎ取り、そっと歪ませた瞳の奥を晒し、少しだけしゃがんで、朔の目元をのぞき込んだ。困ったように、悲しげに。けれどもそれを浮かべる渉の顔は、変わらず怜悧で、うつくしい。鮮明なアメジストの瞳と視線が合わさってなお、朔の苦笑は揺るがない。まるで能面のようだ。その表情を映すだけの、映画のフィルムみたい。渉はそんな朔を見ながらはあとため息を吐いた。
「バレてしまっていたなんて……ああ、いったいどこで間違えてしまったというのでしょう! やはり私にもまだまだ修行が足りませんねぇ。世界は驚きに満ち溢れている……その最たる例は、『あなたたち』なのですけれどもね?」
「ふふ、お褒めにあずかり光栄です♪ べつに、にいさんのせいとかじゃないと思うけど……? ……でも、ごめんね、だめなんだ。そういう『約束』だったから。どのみち、俺はもう、傍観者の席には座れないだろうし」
ぽとん。ひとつだけちいさな石が落ちて、さざ波のようにゆっくりと広がっていく波形のような緑色が、ゆらゆらと揺れている。もう傍観者にはなれないと宣う朔のことを、そんなことはありませんよと否定できていたのなら。もしかしたら夏目はもっとやさしい毛布でくるまれたままに、少なくとも周囲に旧友のいる、ただひとりの理解者をのこしての『終わり』を迎えることができていたのかもしれない。
夕暮れの色が斜めに窓から差し込んでくる空き教室。一時は六人で集まったこの部屋も、いまや渉と朔しか使うことのない、すでに形骸化されてしまった場所だ。夕焼けに染まりきった太陽の色が窓の外からじりじりと朔の視界を焼いている。陽光の照らす白銀の長い髪を見上げて、朔はそっと、渉にこの感情がつたわりますようにと、ゆるやかに目を細めた。
「舞台、頑張ってね、にいさん。俺も応援してるから。にいさんのこと……それから、夏目のこと」
「……ええ、もちろん。見ていてくださいね、我らが『お姫様』。あなたの望んだ舞台を、この私が! ご覧に入れてみせましょう……☆」
――とはいえ。そうした選択をした朔に、夏目が直接不満を訴えてくるだろうというのは、いくつかの予想のうちのひとつとしてあったことだ。演目を観客の前で披露するには練習が必要で、それは『五奇人』とて例外ではない。渉に手を取られた夏目が一連の流れを聞いてしまったというのは当然のことで、朔はすっかり慣れてしまったレッスンルームに押しかけてきた夏目に苦笑し、朔の名前を呼ぶ夏目の声に応え、そっと分厚い扉を開いた。
「いらっしゃい、夏目」
「『いらっしゃい』じゃないんだけド?」
不機嫌そうに腕を組み、目線を同じくする朔に対してするどい視線を向ける夏目の姿は、少なくとも同い年にはあまりみせることのない様子だろう。『五奇人』の内々くらいでしか見られない夏目を目の前にすることができるという幸福はあるが、じっとこちらを見ている夏目に対して飄々とした態度を保つこともできず、朔は、夏目の追求に、やわらかな苦笑で返答した。突き刺すような琥珀色の瞳。あはは、と誤魔化すように頬をかいた朔を、しかし夏目が見逃すわけもなく。
「誘われたことは知っているヨ。にいさんに聞いたからネ。……それくらいハ、朔だって分かってたでショ?」
「あぁ、うん。まぁその、ちょっとね……。やることがあるから。舞台の客演なら、夏目だけで十分だと思うし。……俺も、楽しみにしてるんだ。渉にいさんと夏目が、舞台の上で向き合うことは」
「……この、裏切り者。ボクは朔とも一緒に立ちたかっタ。折角にいさんたちが『朔が舞台に立つことを許してくれた』のニ、朔はボクと舞台に立ちたくないってことかナ?」
「いやいや、そんなことはないんだよ、夏目? 俺だって、できるなら夏目と立ってみたいけれどね。でも……だめなんだ。ゆるしてよ、夏目。怒んないで?」
そんなこと言わなくたって、『わたし』はちゃんと夏目のこと、この目で見ているから。
学院指定のレッスン着。着慣れたそれに身を包んだ朔の姿は流麗なものだ。血まみれになっていく『兄』たちのことを見据えていた翡翠色は、桜の季節の頃のそれより少しばかりくすんでいるように見える。夏目はそれを見ながらすっと眉をひそめ、朔に対してはぁ、と小さなため息を吐いた。仕方ない、あくまでそれに納得してあげているのは夏目であるという格好を崩さずに。
夏目が血だらけの彼らから少なからず目を逸らせていたのは、むしろ『五奇人』が夏目のことを純粋な末っ子であってほしいと願っていたからだ。夏目はその願いを邪険にできない。心配しながらもその大筋しか知らぬ『守られた末っ子』としていまだ学院に籍を置いている夏目は、その詳細まですべてを視認している朔の感情を知ることはできない。朔はやはりこの『革命』の中で疲弊していて、直接の討伐はなされていないものの、場外乱闘のような構図で、『あちら』は朔を亡き者にしようとしているのではないか、と夏目は危惧している。
「……朔ハ」
「うん?」
「最近また忙しそうにしているみたいだけド。……夏にはもうアレは収まってたのニ、まタ、いまさら」
「心配してくれてるんだ、夏目は……『裏切り者』の俺を」
「……当たり前でショ」
「……ふふ、そっか」
やさしいなあ、夏目は。
しみじみと。噛みしめるように、喜色を滲ませた微笑みを晒した朔に、夏目はひくりと片眉を跳ね上げた。これは、普段の朔ではない。疲弊しきった人間の顔――隠しきっていたのか、これを? 兄たちからも朔のこんな様子は聞いたことがない。あの渉にすら気付かせないなんて、朔にできることなのか? 夏目は背筋に冷水をかけられたかのようにぴくりとからだを跳ねさせ、朔の左手を握っている右手を取った。
だれもいない校舎の隅。レッスンルームの中に響いている朔の歌声は春先のものよりもずっと洗練されているものだ。この世の中にこれを超えられるものなんてあるのかと夏目が疑ってしまうくらいには、その声はこの世のものではないように聞こえる。いつか零が朔の歌に惚れ込んだと言っていたのが、いまになって夏目にも理解できた。
朔は『亡霊』であり、『五奇人の影』であって、『神さま』のようなものと同義のような存在になりかけている。朔と繋いだ手のひらに熱を与えるかのようにきゅっと握りしめた夏目に、朔はさっと困ったように顔色を変え、空いている左手でそっと自分と背の変わらない夏目の頭を撫でた。幾巡かその手の動きを経たのち、夏目がはっと、いまやっとそれに気が付いたように朔の手から逃れる。
「夏目」
しずかなる音。穏やかに流れる川の水を留めるように、うつくしい朔の声が、夏目の意識を浮上させた。まるで『魔法』のようだ。――夏目が朔と出会ったあの日、桜の大木の下で朔の持つ翡翠色が映した光のような。
「ごめんね」
ゆるしてよ、と、朔が笑う。
「……べつニ。これくらいで怒ったりしないヨ。……というカ、これだけで喧嘩別れするような関係性だと思われていたのなラ、かなり不満なんだけド」
「もちろん、そんな風に思ってるわけじゃないよ。わざわざレッスンルームに来てくれるくらい、俺のことを大事にしてくれてるもんな、夏目は」
「……分かってるなラ、いいヨ」
――そうして、夏目は違和感をおぼえながらも、それで納得してしまった。朔が夏目に向けてくれた穏やかな笑顔。それに裏付けられた安心を、夏目は簡単に信じ込んでしまった。凪いだ景色の満ちた部屋の中、納得に流されることもなく、外聞も恥もなにもかも投げ捨てて、夏目がいやだと朔に泣きついていたら。朔のからだすら攫ってしまうくらいに大きな波に身を委ねようとしている朔の手を引っ張って、『こちら』に戻すことができたのかもしれないと、後悔してやまない。
ああ――意地なんて、張らなければよかった。
(口には出さないけれド。でもほんとうなんダ、朔)
キミをたすける『魔法使い』であることができたのなら、こうして頭を抱えていないのだ。渉の書いた脚本によって遠ざけられた舞台を観客席から見るしかなくなってしまったいまも、なお。
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天祥院英智が学院の真実を目の当たりにして、これをどうにかしようと勇んで『五奇人』の構想を頭の中に浮かべた時、もっともはじめに出てきた偶像の姿は、日々樹渉の気配をまとっていた。
「渉にいさんは、『神さま』じゃありませんよ」
――君の口にすることは信用できない、と、英智はぼやく。朔の歌声を聞いてその世界の中に取り込まれてしまったことは確かだし、『冬海朔』はその生い立ちから、この革命における『トリックスター』にすら成りうる可能性があった。北欧神話におけるロキのように。『光』――バルドルを殺すきっかけになった悪神。英智はある意味かみさまに縋るただの凡人のような構図にすら見えるのであろう自分の姿を客観的に見据え、朔の気配をかき消した。渉は英智の望んだ脚本のままに踊ってくれる『神さま』だが、英智にとっては聖母のようですらある。その祈りの中に朔の姿が過ぎるのは、他の宗教に傾倒しているようなものだ。
兄たちが夏目の目をふさいで、自分たちの屍をただ踏み越えていくだけ、その視界に自分たちの死体などを映さないように守っている中で、けれど朔はそうして守られることはなかった。朔は自分にゆるされた翡翠の光のうち、兄たちが処刑されていく光景だけを目に焼き付けていただけ。夏目と朔では役割が違うし、そうした『差』は当たり前なのだけれど。
朔は、零に苦言を呈されて例の『ドリフェス』の舞台に上がった宗から「小僧を頼む」と言い残されている。それを準えるように「なっちゃんを『おねがい』します」と告げた奏汰の、あるいは「夏目を頼んだぞ」と言い捨てて海外に飛んだ零の姿すら、すべて見ていながら。
――なにも、しなかった。なにもだ。ただ見ているだけ。しあわせになってほしかった『にいさん』たちの死に姿を見続けていたのに。夏目を守るためだと言いながら、その役割にかまけてばかりで。それはきっと、裏切りにひとしい。
手は伸ばさなかった。そう在ることを、『五奇人』の兄たちにゆるされたから。
だから多分、こうなったのは自明の理なのだと思う。先日、夏目に甘えられるようにレッスンルームを尋ねられた時よりももっと剣呑な視線をたずさえている夏目に、朔は以前と同じような苦笑を返した。
「滑稽だったでショ」
「……思ったことないよ、そんなこと、夏目に」
「にいさんたちに、この子だけは守ろうって遠ざけられていることにも気が付かないデ、のこのこあんな板の上に立っテ」
「……夏目、それはね」
「ボクもにいさんたちといたかっタ。石を投げられてモ、魔女狩りみたいに炎で炙られてモ。にいさんたちといられるのなラ、それでもよかったのニ」
それでもにいさんたちは、夏目のことを守ろうとするよ、と、朔は思う。夏目のその希望を理解しながら、傷付いてほしくないから、遠ざける。夏目はにいさんたちのその気持ちを分かっていてなお受け止めることが難しい悔しさを、朔にぶつけようとしているんじゃないか。それが『夏目を守ること』だというのなら、朔は甘んじて受け入れられるけれど。
「朔は分かってたんだよネ。だから『師匠』のこしらえた舞台の脚本を受け取らなかっタ……舞い上がっテ、喜んデ……そんなバカなボクとはちがウ」
「夏目」
「ぜんぶ、わかってたくせに」
薄暗い部屋で。にいさんたちのためにと、嫌いな人間に対しても頭を下げ続けた夏目が描いている空想を、そうして結ばれた実を、朔は決して否定しなかった。渉が、『五奇人』が、このどん底から息を吹き返すことのできる可能性。夏目はぐしゃぐしゃになってしまった思考を拾い集めながらそれを書き出したのだろう。それを、おそらく渉は受け取らないだろう、なんて、ばっさりと切り捨てることはできなかったし。
朔ちゃん、という、穏やかな声が、朔の脳裏によぎる。――そういえば、英智は朔に性別を訪ねなかったくせに、ずっと朔のことを『朔ちゃん』と呼んでいたっけ。目の前で項垂れている夏目の髪に手を伸ばしながらぼんやりと英智の声に意識を預けていれば、手のひらをぎゅっと掴まれて、朔ははっと夏目に視線を戻す。
「おいていかないで」
ボクのことを。
「いっしょにいかせて、朔」
ちかちかと明滅を繰り返す薄明かりの中。もはや懐かしさすら感じるほどに足の離れていたらしい『秘密の部屋』で、泣きそうな声の夏目が、朔に縋っている。ぼやけてふにゃふにゃになってしまった魔法の言葉が朔の心臓をちくりと突き刺した感触を無視して、朔はそっと夏目の頭を撫でた。
「ごめんね」
俺に、夏目を助けられるくらいの力があればよかったのに。
「――」
困ったように。ただ、小さな微笑みを浮かべる朔のことを、目にするのが嫌で。夏目はしずかに自分の頭に乗せられた手を振り払い、出ていって、と言い残す。
「顔も見たくなイ」
いまだ、『五奇人』なんて肩書きの存在しなかった、あの春。いやな気配なんて微塵もしない、穏やかな春の日差し。桜の枝からこぼれてくる陽光の下、ふたり寄り添い、狭いベンチに座っていたふたりの影が、いまは、こんなにも遠い。あの頃歌っていた声は、あの日交わしいていた言葉は、なくなることこそないけれど――ここに再演することも、できそうになくて。
どこで間違えてしまったんだろうと、朔は思う。ひとり、『秘密の部屋』から遠のく足取りを辿りながら、思い馳せて。バカの一つ覚えみたいに、なにもかもに手を差し出せばよかっただろうか。なにも取りこぼさない選択を、どうしたら、夏目を悲しませることのない結末を迎えられていたのだろう。
『魔法使いの弟子』。悪逆の徒。ばけものたちによっていつくしまれ、育てられていた、善良なひとの魂。ただの人間。――ひとは、それを現実に重ねようとする。『五奇人』と呼ばれてはいたけれど、彼はそう育てられてしまっただけで、ほんとうに悪しき者はほかの四柱――あるいは、冬海朔だったのではないか、と。
上手くあて書きをしたものだと思う。日々樹渉という演者が夏目を守るために組み上げて紡ぎ上げた舞台を、朔自身も見上げていた。観客席の隅っこから。おばけのように。
「あなたのことも、守りたかったのですよ」
ほんとうです、と、渉は言った。どこからあらわれたかもわからない渉に、にいさんは相変わらず神出鬼没だなあとちいさな笑いを零して、朔は、普段よりも表情の乏しい渉の顔を見上げる。
「俺はただの幻だよ、にいさん。わかってるでしょ。『五奇人』という強い光につくりだされた影。ただの亡霊。見ていることしかできなかった、役立たずの傍観者。にいさんたちの『おねがい』を受け取るまでもなく、――夏目のことを守りたかっただけの、ただのモブ。守るもなにも、存在すら定かじゃないものを、どうやって守るっていうの、にいさん?」
音もなく。そうして見上げたアメジストの瞳をのぞき込んでいる朔の瞳は、雰囲気に似合わないくらいには純粋で。澄んでいて。渉はいたましいものを見るかのようにその目を細め、すっと、朔の姿を見下ろした。
最後のひとり。真実を語る道化師。――天祥院英智の求めた、うつくしい偶像のひと。
「――ひとつだけ、忘れ物をしました」
「……渉にいさん?」
なにを言い出すの、と、朔が眉をひそめる。
「ええ。私だけではなく、我が同胞、得難い友人、そのすべてが忘れてしまった、いまは取り戻せないもの」
怪訝そうな表情をする朔を見ないふりして、渉は宣う。謳うように、渉は紡ぐ。もはや彼方遠くへ消え去ってしまった永遠の姿を、朔の目の前に晒しながら。渉は仮面を被り、自分たちの『忘れ物』――朔の前で、大きくその手をひらいてみせた。
「これは『あの子』の専売特許ですから、もしかしたら怒られてしまうかもしれませんが――『さぁ、魔法をかけてあげましょう、朔ちゃん』」
あなたが幸せになるように。眠り姫を言祝いだ妖精たちのように。『私たち』は祈りましょう。『にいさんたち』が願いましょう。
「いつかきっと、あなたが幸せになりますように。あなたがあなたの幸せを諦めませんように」
「……それが、にいさんたちの『忘れ物』?」
いまから死にに行く渉のこぼした、ちいさな『ほんとう』。その言葉を垣間見て、朔ははっと息を呑んだ。夏目のつくった物語を、夢物語、なんて言えそうにない。――朔だってほんとうは、みんなで幸せになりたかった。
朔の歌声を『価値あるもの』として認めてくれたレオも、それに芸術性を見出してくれた宗も。朔の手を引いてくれた零も、穏やかに朔のことを包んでくれた奏汰も。こうして朔の目の前で朔に言葉を尽くしてくれる渉も――朔が誰よりも大事にしている、夏目だって。
悪役が迎えることのできるハッピーエンドを。誰もが幸せになれる結末を。その末に流れるエンドロールを。みんなで手を繋ぎながら、見ていたかった。幸せだねって言いながら。夏目と一緒に。
そう、ありたかった。
「ずるいなぁ、渉にいさんは」
「ふふ、私たちの『姫殿下』ですからね、あなたは。夏目くんだけではなく、あなたも。私たちにとっては、いつくしむべき『愛し子』です」
「……夏目が幸せになれたなら、それがきっと、『わたし』の幸せだろうけど」
考えとく。『冬海朔』にとってのしあわせのことも。
夏目が歩んできた道のりは、決して楽なものではなかったと思う。茨の生えたいとばかりが足首に食い込んでいて、一歩足を出すだけでも傷ついて、痛々しい赤い傷ばかりが白い肌を浸食している。――そんな夏目を、守りたかった。朔の、はじめての友達だったから。
「ふふ。わたし、にいさんたちの『隠し子』だったんじゃないの?」
「そう言っていたのは零だけですよ。私はずっとあなたのことを姫と呼んでいたでしょう?」
「……そういえば、奏汰にいさんに『隠し子』みたいなことを言われたことはなかったかも」
さっちゃんとか、なっちゃんとか。そればっかり言っていた。あの穏やかな声で。
「宗なんてもはや我が子とすら言っていましたからねぇ。余程あなたのことを気に入っていたのでしょう」
小さな声で交わされる言葉。凝り固まった氷のようになっていた朔の思考を溶かしたそれは、どうしたってこの短い平穏の中、『にいさん』たちから与えられた、日常のかけらだ。
『五奇人』の終わりが、背後に迫る。おそればかりが自分たちの足を掴み、背を這ってすらいるこの前夜に、それでもなお――朔のことをすら守ってくれているというのなら。
「渉にいさん」
「はぁい、あなたの『渉にいさん』ですよ、朔ちゃん」
「――ありがとう」
それだけで、もう。迷っていたすべてに決着をつけることができるような勇気すら、この手のうちに芽生えたような気分になって。なにもかもを果てすことができるような無敵感すら、抱いてしまった。
抱けてしまったのだ。運の悪いことに。