Repulse/第二話
悪い夢の終わりを祈ることを、悪しきことだと思ったことはなかった。というか、悪夢ばかりを望むようなバカみたいな望みを晒していた気は、一切ない。長く、露と消えてしまうほどに儚い、演目が終わればすぐに消えてしまいそうな泡沫の悪夢を、朔はずっと大事に、守り続けている。『悪夢』はすぐに終わるべきで『吉夢』はできるだけ長く、その夢を見せているべきだ。朔が見上げていた舞台の隅で、天使なんて名ばかりの、悪夢の擬人化みたいな男が笑っている。なによりも、どんなものよりも、男は悪辣で。そしてその焦燥をひた隠しにしたまま。天祥院英智は気丈にも、用意された客席に座り込んでいる朔の姿を、見下した。朔の一番深いところに沈めていた宝物をほじくり返して、弄びながら。
「朔ちゃん。君が『こちら』に来てくれてさえいれば、この舞台はこんなに惨い結末なんて迎えなかったかもしれないよ?」
歌う。天国を泳ぐかのような高らかな声で。もはやバベルの塔の最後のような崩壊をみせたValkyrieなど眼中にないというような態度のまま、fineは――英智は、つむぎは、舞台の上で踊り続けている。
黄金のような輝きさえ放っていたはずの朔の翡翠色の瞳は、いまは、その色濃い輝きを伺い見ることはできない。落ちた影すらも追いかけられないほどの目を見ながら、英智はちいさく、そっと、ほくそ笑んだ。
――「君の歌声は僕の理想だ」と、宗は朔に告げた。朔のその才が開花した頃、まだ『五奇人』などというレッテルがそのひとたちに張り付いていなかった頃、しばし――宗と朔は、ともに過ごした。長い期間ではない。歌ってくれと宗に言われた箇所を言われた通りに歌っていただけだ。後から知ったことだったが、あの期間はちょうど、宗がいっとう気に入っているお人形だった仁兎なずなが、遅い声変わりを始めてしまった時期と重なっていたらしい。ともかく、なずなと出会った当初に目指し、組み上げてきた理想の崩れてしまうような声を出させるわけにはいかなかった宗は、朔の歌声に一筋の光明を見て――しかし、自身で鍛え上げていたはずだったそれを、宗はほかでもない自分の手で、手放した。やはり宗の望むものはなずなそのものだ――『惜しい』とは言われたけれど。なずなの存在によって確定してしまったValkyrieは、朔のことを受け入れることのできる余白を持たない。だからあの時宗が得たものはなかった。あの時なにかが生まれたとするなら、朔の中に薄らと芽生えた、自分の歌声に対する自信と、プライドだ。夏目とのやさしい出会いを果たしたすぐ後、すでに宗は――『Valkyrie』の名は、この学院内でも有名なものになっていて。あの斎宮宗にも認められた歌声をどう生かすかということを考えるのは、案外、楽しかった。宗を通じて徐々に言葉を交わすようになったみかやなずなには言っていない、門外不出の出来事だったが――とにかく。
今しがた揺らいだ玉座に腰かけていたのが宗であるという事実は、思いのほか、朔の心中を動揺の渦に陥れていた。
「ありがとう。僕の、思いどおりに踊ってくれて」
朔は、斎宮宗という芸術家の組み上げるステージのことを、愛している。偏屈な演出家が無理矢理眼前にお出ししてくるフルコースを、繰り返し記号ばかりのまっさらな楽譜を辿ることが、だいすきで、だから。それがどんなものを添え木にして組まれているかということには、見ないふりを続けていた。人形ごっこをしているなずなも、自分の意思よりも宗の望みを優先するみかのことからも、目を逸らし続けて。ほかの『五奇人』たちよりもやや違った色をしている『にいさん』の呼び名は、けれど。
「お師さんっ、なぁ、お師さん……?」
すべてを失ったかのように膝をつき、崇高な芸術の気配すらもお隠れになってしまったような姿を見てもなお、失われることはなかった。
宗はいまだ、敗残兵のように座り込んでいる。途切れてしまったカセットを振り払うように講堂の中に響いたメロディは、ほかの誰がなんと言おうと、どんな舞台にも負けない、うつくしくきらめいたものだ。あの日朔の声を認めてくれた宗に、しかし朔はこう告げよう。――到底、朔の歌声など、この舞台には及ばないものだ、と。
朔は、fineのパフォーマンスを目にしなかった。だから、満員御礼だったのは、あくまでValkyrieのステージだけ。朔は宗たちのパフォーマンスが終わったあとすぐさま立ち上がり、舞台裏へと急いでいた。英智が用意したはずの朔のための席は、当の英智が歌い踊る時にはすでに、空席となっている。朔はどうしたって、いちどこの身の内側に入れたひとを見捨てることなどできないのかもしれない――と。はじめて自覚する、自分の奥底に眠っていたらしい衝動に、朔は驚いたように目を瞬かせた。
宗の操っていた糸の先、マリオネットのように踊っていた『失敗作』だった、流麗ですらあるほどのオッドアイを持った少年が、焦ったように、自分のすべてを投げうってもいいというような気迫すら感じる声で、宗に触れている。朔はその姿を、どこか違う世界にいる人間たちを観測しているような気分になって、ただ、見ていた。黙っているなずなの姿を見てもなお、もはやそれは、ひとつテクスチャを間違えてしまったかのような感覚になっていて。宗を心配して客席から降りたはずなのに、朔の足は、床に縫い付けられてしまったかのように、固まっているまま。
「にいさん。……宗にいさん」
宗の存在をいまいちど確認するように、しずかに宗の名前を呟いた朔は、『表』から聞こえてきた歓声を耳にして、はっとしたようにそちらを振り向いた。fineのライブが終わったらしい。黄色い歓声を聞きながらひらひらと舞台を舞う姿は、天国のように綺麗なものなのに。息を整えながら舞台袖に戻ってきた群青色の瞳が、唖然としている朔のことを見つめ、ゆるりと微笑む。
――君のせいだ、と悪魔は朔に囁いた。
「君さえ僕の言うことを聞いていればよかったのかもしれないよ、『うつくしいひと――僕のバト・シェバ』」
「だとすれば、あなたは大罪人ですよ、ダヴィデ王」
というか、誰が、いつ、どこで、あなたのものになると言ったんですか。
寝物語を口にするような、やわらかな耳当たりの声で。英智はそっと朔を見据え、あからさまに、脅迫に近い言葉を投げかけてくる。いまからでも遅くはない。ほかの誰かが傷付くところなんて、もう見たくはないだろう。
――実際。朔の身をひとつ捧げるだけで、始まってしまった舞台に幕を下ろさせることができると、英智が本気でそう言っているのなら、朔とて一考の余地はあった。どころか一も二もなく頷いたはずだ。たとえ守ろうとしたひとたちに裏切りだと後ろ指を指されることになったとしても構わないという思いはある。悪魔が朔に伸ばしてきた手のひらを拒むことなく、朔はこの学院の『革命』に手を貸しただろう。それでも朔が、その血の気の引いた、病的なほどに真っ白な手のひらを振り払ったのは、この狂った演劇が、朔のみの犠牲などで終わるはずがない、と理解しているからだ。
「これでもまだ、僕の手を取る気にはならないかな」
「ほんとうに俺だけで済むなら、あなたの手を取ってもいいかなって、少しは思ったんですけどね。でも、終わらないじゃないですか。あなたは焦ったように俺を――俺の歌を求めている。焦燥にその背を押されながら走っている。その弱いからだで――なにかを成し遂げようとしていることくらいは、俺にだってわかります。だから……ごめんなさい。俺はどうしても、そうまでして走ることをやめないあなたのことを、どうひっくり返ったって、恨むことはできない」
憎悪も、怨恨もなく。朔はゆらゆらと揺れる視界の中で意思の強い群青の瞳を捉えた。顔色が悪い。朔は宗のもとに走ってきたから見ていないけれど、おそらくライブパフォーマンスの中でかなり無理をしたのではないだろうか。いつくしみすら感じられるような朔の視線を受けてやっと眉を顰めた英智は、先ほどまでつくっていた悪魔の役を脱ぎ捨てた、ただの凡人のようだった。
ぼんやりと。その目に映るちいさな光だけを追っている朔の瞳が、穏やかに凪いだ水面のような色を見せて、英智のことを見上げている。英智の心中に根を張るつよい焦燥すら滲み出ているような群青の瞳。そのゆびのさきが紡ぎ、繋いでいくこの先の物語に、おそらく朔は――朔が愛するひとたちは、駆逐され、壊され、恣意的につくりだされた武器でもって、登場人物として、平等に消費されていくだろう。朔が傍観者のままであれるようにと英智が用意してくれた観客席は、今しがた朔自身が蹴り倒してしまった。
「どうしてあなたが俺のことを気に入ってくれているのかも、正直わからないですし」
歌だけのはずがないから。もしかして顔かな、とちいさく呟いた朔は、崩れ落ちている宗の背にそっと自分のちいさな手のひらを添える。『ドリフェス』と銘打たれただけの公開処刑のための舞台、あるいはゴルゴタの丘の舞台袖で、朔はそうした穏やかな顔のまま、英智の手を振り払った。
「あなたは宗にいさんのことを、むごいやり方で処刑しました。俺はそのことを恨まない」
どうして、とみかが言う。そんなん裏切りやって、信じてたのにって、そんな感情ばかりのせている瞳を交わして、朔は宗のもとに膝を立てて座り込んだ。
「ゆるします。あなたはこれからきっと、他のにいさんのことを刺し殺そうと暗躍するでしょう。そのすべてを、俺が――わたしが、ゆるします」
お師さん。ついぞ呼ぶことのなかった、交わらなかった未来。イフの世界線に身を置く朔がもしかしたら口にしていたかもしれない可能性のひとつを舌にのせれば、俯いていた宗は、ぴくり、と肩を揺らした。
「帰りましょう、お師さん。あの舞台は終わったから。あなたのつくりあげた『青春』の形を保ったまま」
「……僕は、君の師ではないのだけれどね」
「ふふ、はい。俺はあなたの人形じゃない。演出を師事したことはあっても」
――これは呪いだ、と、朔は思う。だって英智は、悪役であることを望んでいる。いつしかすべてが終わったあと、悪の首魁として、罵られながら舞台を降りることを決意しているようですらある。それを。そのすべてをゆるして、許容するなんて。
自分が誰かに恨まれてもなお、その身に宿した偶像崇拝のその形のままにこの学院に革命の嵐を吹かせることができるのなら、自分はどうなっても構わない。そうして知らず知らずのうちに疲弊している英智のことを、朔は無意識に、憐れんでいる。弱くつめたい心臓に、自分自身の身を削って生み出したかがり火の熱を分け与えているようなひとだ。
おそろしいね、と英智はつぶやいた。眩しいものを見上げるかのような、瞳の奥を星の瞬きだけに支配されてしまったかのような視線でもって、その群青を、いままで追っていた朔の背から、そっと逸らす。
――おそろしい。だからこそ、『彼女』という神の幼体を、この舞台に上げるのははばかられたというのに。朔間零――あのばけものはいつだって、英智の気にかけているところばかりを選んで、積んで、その無駄に長いおみ足で踏みつぶしていく。英智が噛んだ唇は、ぷつりと零の瞳のような真っ赤な血を滲ませて、英智はそっとそれを手のひらで拭った。
宗の背に添えられていたはずの朔のやわく小さい手がみかに払われるのを見ながら、英智はそっと踵を返す。座り込んで動けないほどずたずたにされた宗の魂を呼び戻してなお、英智をゆるしただけで『裏切り』と断定されるほどの咎を背負ってしまった朔の姿を見ることなんて、英智にはできそうにないし。威嚇する猫のように毛を逆立たせているみかに、朔は困ったような微笑みをつくって、ごめんね、という囁きをこぼす。
「裏切りもんっ、最低っ、お師さんにえらいいろんなこと教わっといて、『敵』をゆるすなんて、そんなん手酷い裏切りやっ!」
「影片」
「お師さんの前に、もう、顔も見せんといてっ」
「……うん。ごめん、みか」
誰かを傷付けてまで、自分の異常性のことを博愛と名付けるつもりはない。朔はみかに払われた自分の手に視線を落とし、ゆるゆるとその瞳を瞼の裏へと隠して、けれどそうヒステリックに叫ぶみかに対してそっと、白い手のひらを差し出した。
「みか」
「っ、なんや」
敵対心ばかりが朔のからだを突き刺すことだって、気にもしないで。ただことの顛末を目に焼き付けようとしているかのようななずなの姿を背に、朔は、謡うように告げる。福音のように――聖歌のように。すべてを癒す楽園の音楽を鳴らすかのように。
「なにかあれば手伝うよ。俺でよければ。Valkyrieの衣装の補修――は、褒められたことはあっても、あんまり手を付けると申し訳ないから、そのほかのこと? ううん、例えば、そうだな、みかがしてほしいことなら、なんでも。いますぐ死んでほしいって言うのなら、今すぐはすこし難しいかもだけど……一週間後くらいには、きっとそうできるし」
――朔の名前を呼ぶ、悲鳴のような声がする。怒りに燃えていたみかの両目は朔の吐いた科白に対して憤りを忘れたかのように困惑を滲ませ、ぽかん、とちいさく口を開けた。
「なにを、言っとんの」
「たすけたいんだよ。罪滅ぼしがしたい。みか、どうしたら俺のことをゆるしてくれる? この際、ゆるさなくてもいいから、俺をうまく使ってほしいんだ――実質、今年度はもう、『Valkyrie』としての活動は難しいだろうし」
君が望むなら、死だってその通りにこなしてみせよう、なんて。そう言って笑う朔の顔は、まるでみかのことをピクニックの誘っているような朗らかさで。そんな朔のことを、たとえもしもの話であっても、いちど懐に入れた人間を失う想像をしてしまった宗が、さあ、と顔を青くして、じっと見ている。宗のそんな様子に気が付いたみかははっと意識を朔から宗にシフトさせ、帰ろ、と宗の背を支えた。朔をおそろしいものを見るような視線で振り返って、みかはきゅっとそのうるわしのオッドアイを細める。
「何言われたって、何したって、ゆるされへんよ。裏切るものには罰をって、どっかで見たし……んああっ、おれの頭は悪いから、言おうとしてたことなんてなんにも思い出されへんけどっ!」
――やから、勝手に死なんといて。
「……わかった」
一向に揺らぐことのない、朔の微笑み。凪いだ湖畔のような瞳のあかりを背に、みかは宗を、なずなを伴い、舞台裾からずるずると退場していった。
「――朔ちゃん」
「わっ、びっくりしたぁ。渉にいさん、見に来てたの? 言ってくれたら良かったのに……♪」
「フフフ、すいませんね、朔ちゃん。『彼』が心配していましたので、お迎えにあがりました、我らがお姫様……☆」
瓦解した『Valkyrie』の姿は、そっくりそのまま、朔がおかした罪の気配だ。朔はその三人の影をしっかりとその目に焼き付けるように見据え――姿が見えなくなったところで、すべての演目を終えてがらんとしている客席を眺め、講堂から出ようとした。しかしそんな朔の視界の中に、ぶらん、と、新雪のようなうつくしい白を持った長い髪が揺れる。
日々樹渉。渉の口にした『彼』は、十中八九、夏目のことだろう。最近になって――というか、朔の性別を告げてから――朔のことを過保護に守っているつもりらしい夏目は、朔のことを一人にしたがらない。朔は困ったような顔をつくり、演技がかった様子で差し出された渉の手を疑うことなく、そっと自分のそれを重ねた。
「夏目の過保護が『うつった』のかな、にいさん」
「いえいえ。私たちは末っ子の恋路を応援しようとしているだけですよ」
「……恋路? 夏目、恋をしているの? 意外だなぁ、夏目はそういうのには興味のない人間だと思っていたんだけれど……?」
穏やかな温度。朔が先ほどまで身を沈めていた冷ややかなものから逃れるかのように渉の持つ人肌にぎゅっと縋れば、渉は珍しく惑ったような表情をみせる。言葉にするなら、多分、『マジか……』とかだろうか。朔はどうして渉がそんな顔をしているのかわからなくて、心中そっと首を傾げ、しかしそれを渉の前に晒すことなく、話を逸らした。
「俺はあなたたちの隠し子なんじゃなかったっけ?」
「おやぁ、そうでしたねぇ。とはいっても、『あれ』は零が勝手に言い出したことですし……些末なことですよ、姫殿下?」
「俺に姫は荷が重いと思うけどねぇ」
――だって、そう呼ばれることのできるような資格など持たないし。朔はもう、姫のように守られ、清廉な気配を纏う人間ですらなくなってしまった。小さく編み込まれた薄青の髪は、夢ノ咲に入る直前、男に見えやすいように、とカットされて短くなっているものだ。無骨な骨格を装うからだは、宗の助けを得て男に見えるようなものになって。
「お姫様には、俺はもう、なれないと思うよ」
諦めたように笑う朔は――しかし、ように、などではなく。朔はもはやその立場に甘んじることを諦めている。そこそこ仲の良かったみかにあんな視線を向けられてしまったことが、今更になって尾を引いているらしい。みかの前では気丈に振舞えていたはずのからだが、いまになってやっと、恐怖に震えている。渉はがたがたと揺れる朔の手を取り、泣きそうに揺れている翡翠の瞳を見返し、自分の両手で挟んだ朔の手のうちに、ぽん、と音を立てて、可愛らしい小ぶりの花を咲かせた。
「笑ってください、朔ちゃん。私たちのいとおしい子」
「……にいさん」
「さぁ。講堂の外で、夏目くんが待っていますよ」
――実のところ。渉の声に頷いた朔に、ほんとうの母親はいないのだ。朔に男装を強い、もとより恵まれていた朔がどこまでポテンシャルを発揮できるか、ということを賭け事にして楽しんでいる『母親』は、あくまで書類上の関係で、血は繋がっていない。朔が幼少のころに父が連れてきた、父の昔の幼馴染だったらしい女。それが、いまの母親だ。朔のことを生んだひとは、朔が幼稚園に上がる前に死んでしまったらしい。事故だった、と、父は言った。地獄の底から、自分の無念を引っ張り起こしてきたのかというほど、低い声で。それ以外のことは、なにも話してくれなかったけれども。
穏やかな父が憤りを見せたのは、後にも先にも、母のことを聞いたあの瞬間だけだった。相当仲の悪い夫婦だったのか、あるいは、愛していたからこそ、思い出すのが辛くなるのか。母の好きだったもの、嫌いだったもの、母と行ったことのある思い出の場所、そのすべてを、父が朔に教えてくれたおぼえは、少なくとも朔にはない。だから、朔の知っている『母親』は、再婚相手の娘をつかって賭け事をするような、真正のギャンブラーだけ。
お前には母親がいないもんね。父のいない間、パチンコから帰ってきたのだろう、珍しく大勝したかのような上機嫌さを見せる女が囁いた言葉が、いまでも、朔の心臓の奥深くに刺さっている。ナイフのように。針みたいに。
父は、なにも話さない。自分の仕事のことも。しがない弱小カメラマンだと言ってはいたが、どうやらモデル経験者だったらしい、レオの傍にいた時分に親しくなった泉が『冬海』の名を聞いて驚いていたのを見て、朔は父の自称を疑っている。弱小カメラマンだというわりに、あの先輩の驚きは大きいものだったように見えたし。――『あの明星』のことも、あるいは生きる伝説である氷鷹誠矢の存在も、佐賀美陣のことも、父がヴェールで覆い隠していたのだから、それなりに影響力のあるひとなのかもしれない。朔は自宅でテレビを見なかった。父が嫌がるから。見るものといえば、『母親』の興味のある競馬の中継くらいで。父があらかじめ朔から遠ざけていた『芸能界』に、しかしこうして女の策略で近付いてしまっているのだから、多少の申し訳なさはあるが。多分母は、この場所で生きていたのだろうと思う。こんな――地獄みたいな世界の中で。
――冬海朔に、母はいない。存在ごとすべてを秘匿された彼女の幻は、いつだって不鮮明だ。朔の夢に、化けてでてきてくれるようなやさしさもない。父はなにも話してくれないし。穏やかなように見えて、あのひとは家族に興味がない。だから――朔はもとめた。朔のことを無条件に愛してくれるひとを。あるいは、朔の存在をゆるしてくれるひとのことを。憧れ、憧憬、切望。元からあったものを切に求める『飢え』とは違い、朔の抱いた欲は、知らぬものを求めるものだった。『はじめての友達』は、当の夏目が思っているような軽いものではなく、ほんとうに、朔が自分をゆるせる『はじめて』だったし、感じたことのない母性愛をはじめて感じたのは、宗の言葉で。夏目は、宗は、なによりも、誰よりも、朔の渇望に即していた。仕方がないね君は、と呆れながらも、宗は甲斐甲斐しく朔の世話を焼いていて――そんな宗のことを、朔はよく慕っていたのだから。こうして淘汰されてしまった宗を見て、なにも思わないはずがないのに。
(それでも、あのひとを、天祥院英智のことを、哀れだと思った。可哀想だって……そんなの、宗にいさんの方がよっぽど『可哀想』だったはずなのに。……みかの向けた視線は、ただしいよ。俺はいったい、どんな存在に変貌しようとしているんだろう。蛹になってしまった俺は、これからどうしたら、いとおしい日々を守っていける……? 渉にいさんにもらったこの花みたいに、人畜無害なお姫様のままでいたらよかったのかな? だとしたら、みんなの望まないような存在になってしまった俺は、どうしたら……)
朔ひとりだけでは、近いうちに破綻してしまうであろう心情。渉は朔の手をそっと引きながら、ああ、となにかを思い、しずかに目を伏せた。神の博愛に近しいそれが、朔の真ん中、心臓を食いちぎって、孵化しようとしている。それではいけないのに、もはやその変化は留められない。
――渇望していたはずのものに、自身が成り代わってしまえば。その先にあるのは、破滅という業火の燃ゆる、真っ暗な地獄だけだ。朔の影はすでに、その気配を揺らがせていた。