エメラルド
春夏秋冬の旗揚げ公演を終えてから、しばしの時間が経っている。劇団で行われる公演に華を添える音楽に関して一留が少なからず関わっている以上、カンパニーと一留とのあいだは浅からぬ仲だ。そもそも双子の弟が他ならぬ夏組に所属していることもある。ここ最近、何故か一留の父親を気取りだした左京や、ある種でゲーマー仲間ともいえる至や万里とは違い、妙に一留に対してちょっかいをかけているような素振りの見える千景は、もしも関係性に名前を付けるとするなら、多分、兄妹にちかいだろう。一留がすっかり入り浸っているカンパニーの共有スペースでたまにシェイカーを振っている一留に絡んでくる千景の温度は、春組という千景の中にある家族に向けるものとは違った色をしている。先輩って、ちょっと引いちゃうくらい一留のこと気に入ってますよね。千景にとっても一留にとっても、この状況に関しては至のその言葉がすべてだ。カレーの話で千景と仲良くなったいづみとは違い、一留のことを千景が気に入ったのは、自分の性格に振り回されっぱなしのくせに意思だけは強い一留にちょっかいをかけたかったから。もちろん、そこに恋愛的な欲求はない。それはあくまで親愛の域を超えないもの。友人というには近すぎて、家族と呼ぶには遠すぎる、くらいの。少なからずそういった気持ちを一留に抱いている東が千景を黙認しているのは、当人たちにその意図がないことをわかっているからに他ならない。
親戚の経営しているバーでバイトをしている傍ら、夏期講習や冬期講習の時だけヘルプのような扱いで塾の講師をしている一留にとって、多くの学生の長期休みは、最も忙しない時期だ。自分が借りているマンションに籠っていては電気代が嵩むからと外出をしていた一留のことを天鵞絨駅近くのショッピングモールで見つけたのは、近く海外での仕事があるからと準備のために、平時より早く帰宅させられていた千景だった。ばったりと顔を合わせた時の二人の表情は、綺麗に二分化していた。おもちゃを見つけた子どものような表情をしていた千景に目を付けられた一留の顔は、普段からよく自分の気持ちを顔に出す性格であるとはいえ、あまりにわかりやすく苦虫を食い潰したような苦々しいものだ。はじめて一留と顔を合わせた時は人当たりのいい――悪く言ってしまえば胡散臭い――笑顔の裏に隠された「気に食わない」というような感情を故意にむき出しにしていたくせに、よくわからない。一留は何も言っていないのに、一留が言いたいことをわかっているかのように頷いた千景が訳知り顔でいづみに連絡を取るのを、一留は胡乱げな表情で見上げた。電話している千景の声を聞いているとそんなに状況に差異が見えないのも不思議なものだ。千景が春組に馴染み始めてから少しして至に言われたことをふと思い出して、一留は静かに嘆息した。
「監督さんは一留が来てもいいって言ってるけど。どうせうちには絶対に『誰か』がいるんだし、一留ひとり増えたところでなにも変わらないだろ」
「すっかりMANKAIカンパニーのひとになっちゃったね。最初にあたしと会った時の千景に見せてあげたいくらい」
「年上には敬称だろ、大学生」
「敬意を払える相手にはそうしてるよ、東さんとか」
モールの自動ドアを抜けたそばから、抑えきれない外の熱気が、一留と千景のことを襲う。夏の暑さはもとより梅雨どきの湿気にも弱い一留が顔を歪めた隣で、涼しげな表情をした千景が、すっと立っていた。クールビズが推奨される昨今、とはいえ最大限暑さを身体から逃すための服を好き勝手に着ることのできる一留とは違い、社会人として働く千景は、一留よりもぶ厚い素材の衣服を纏っているはずなのだけれど。
なんかズルしてない?
なにもしてないけど。強いていうなら善行を積んでるかな。
あ、わかりました。そういうの大丈夫なんで。
突っ込むのにも体力を使うのだから、と言わんばかりにひらひらと手をかざすように振った一留の頭を、千景はひどく愉快そうな顔で見下ろした。
千景が、どんな言葉も打てば響くように返ってくる一留のことをどうしてこんなに気に入っているのかは、千景自身も謎に思っていることだ。なんとなくという一言でその場を収めるには少しばかり癪だと感じるが、それを突き詰めるほど一留の存在を重要視しているわけでもない。涼むだけを目的とするにはやけに大きい鞄を持ち歩いていることを千景が問えば、塾で教えてる子たちの丸つけ、と端的に返ってきた一留の声に、そう、と頷いて答える。家庭教師という職業においての経験者はこのカンパニーに複数人いるが、塾講師と家庭教師は似て非なるものだ。大変そうだね。温度のない低い声が、じゃれつくように一留の頭上に降った。その声を振り払うようにかぶりを振った一留の黒い髪がふわりと広がって、夏の温度に融解していく。
「ほんとに思ってるか怪しいけど」
「本当に思ってるよ。俺には無理だからな」
「……うそつき」