夜風にあかつき
薄ら寒い均衡を保っていた、仄暗い夜の風景があった。弟はいつだって皆の気持ちを慮るのに長けていて、だから、一成の周囲には人が絶えなかった。いつだって人が集まるのは一成の方で、一留の周りには、誰もいない。他人の気持ちなんて誰だってわからないはずなのに、自分の気持ちばかりわかってほしいわかってほしいって苦しんで喘ぐ自分勝手な感情ばかりが渦巻くようで、吐き気がする。いつしかひとの感情を掴むことができなくなったのは、多分、なにもかもから目を閉ざしてしまったからだ。全部嫌いだった。弟のことを苛む誰かの感情とか、懇切丁寧にすべてをねじ伏せていく人間関係とか、そういうの。
――夜は嫌いだった。昔から。
眠るのは嫌い。夢を見るような経験もない。下手に関わられると誰もが自分から離れていくような、悪い子どもにしかなれなかったから。繋がれる手はなかった。一留ちゃんとは一緒にいたくないから、一緒にいない。
あえかな、涙を流すように震えた幼い声が脳裏に閃くように瞬き、一留ははたとして、ぱちり、と、まばゆいエメラルドのような緑目を、その白い瞼の下から、そっと覗かせた。
「あ、起きた?」
「……あずまさん……」
決して華やかではない。しかし蝶のような優雅さを纏わせるような、少しだけ鼻にかかったような声が、さらりと一留の耳元を撫でた。目を覚ましたばかりでぼんやりとしている一留のことをやわらかな視線で見下ろしている東が、ちらりと慣れたように一留の住むワンルームマンションの窓にかかったカーテンの隙間から見える光に目をやって、ふふ、と笑う。
「よかった。ちゃんと眠れたみたいだね」
「……うん」
「ふふ。眠り姫さまは、もう少しの寝坊をご所望かな?」
こくり。平時のそれよりも幾分か幼い表情をした一留が、甘えたように東の着ている夜着の裾を掴んだ。こうして穏やかに眠れたのはいつぶりだろう。下手をしたら小学生の頃から経験がないくらいの、ひどく凪いだ眠りだった。
一留がワンルームマンションを契約した時、どうせ自分も遊びに来るだろうからと、一留に対してはあまり遠慮を見せない一成が指定した淡い青色のベッドシーツが、ひとりで眠った時よりも重さを孕んで、くしゃりと歪んでいる。劇団にいる時はそうでもないように見えたが、細くて華奢なだけではなく、案外男っぽく骨ばっている東のゆび先が、するりと一留の髪を梳いた。すっかり染髪したあとの明るい髪色で見慣れてしまった弟とはちがい、一留の髪はいまだにヴァージン・カラーのままだ。指通りのいい一留の黒髪を弄ぶようにして一留の頭を撫でる東に、一留はそっと、寄り添うようにして、そのままの頭を預けた。
――「ふつう」になるために、一留はけっこう、案外、そこそこ、わりと、多分普通の人からしたら当たり前な、そういう努力を重ねてきた。そうじゃなくてもいい、自分は自分でいいのに、という自分を説き伏せてまで、一留は「ふつう」になりたかった。それは弟のためだったかもしれない。その下に生まれてきた妹のためだったかもしれない。それでも確実に一留は自分のために「ふつう」を目指したし、そうなれたらいいと思って、努めてきた。その「努力」のうちのひとつが、演劇だ。イルミネーションみたいな作り物の光に手を伸ばすような一留の姿は、もしかしたらすべてを知っている人から見たら見苦しかったかもしれないけど、そう感じるほど一留に近いようなひとはいなかった。MANKAIカンパニーに縁を寄せるようになってから再会した昔の友人――月岡紬には、もしかしたら露呈していたかもしれない。真面目に演劇をしたいようなひとからしたらいい迷惑だっただろう。人間になるための手段として演技を選んだ一留にとって、舞台とは、自分のコンプレックスを座らせる場所でしかなかった。そこそこ幼い頃からやっていた演劇を諦めたのは、一留と一成が高校生を卒業するかしないかくらいになってからのことで、二年ほど前のことだ。
まだ、眠れてないの? ――MANKAIカンパニーに入り浸るようになった一留に、紬が心配そうにかけてくれた言葉の意図を、一瞬、捉えあぐねていた。ほとんどのひとは出払っているとはいえ、紬の性格からすればあまりにその言葉を口に出した時と場所はオープンだった。困惑したように眉を顰める一留の手を取ったのは、そんな紬と一留のことを眺めていた雪白東にほかならない。眠れないのなら、添い寝屋さんと眠ってみる? そんな提案に頷いたことから始まった定期的な添い寝屋の利用について、一留が誰かに内容を語ることはすくない。たまに一成や紬――そして春組に新しく入ってきた千景とそういう話をする時もあるが、稀だ。
眠れなくてもなんら問題はないと思っていた一留にとって、東と眠る時の穏やかな睡眠は、人生を変えてしまうほどの衝撃を持っている。許されるのなら毎日東と寝床を共にしたいなどと言えば、最近は一留の親をも気取っている左京になんと言われるかはわからないが――東の白い手のひらに寄り添うようにすりつけられた一留の頬を包み込むように、東がふわりと一留の頬を撫でた。するりと一留の頬に触れるゆび先の間からぼんやりとした形の時計を見据えた一留が、光の気薄な視界のまま、ぼうっとして東に言った。
「いま何時ですか」
「いま? 八時くらいかな。でも……一留、きょうは三限からだって言ってたでしょ。まだ眠れるよ」
「……ううん。あたしはいいけど、東さんは稽古だって……言ってたし。あたしも、曲、つくらないと」
ボクは大丈夫なのに。困った子だねって言いながら、東はやわらかな表情を浮かべて、むくりとゆっくり起き上がる一留の背中を支える。ほんとうにもう起きちゃうのって、カーテンから盛れる眩いばかりの陽光は朝を迎えているのに、大層なことだ。小さな欠伸を零しながら自分の端末を手に取る一留の背を抱いて、一留の肩に自分の顎を乗せながら、東はぽちぽちと一留の持つ端末を操作した。あ、という一留の声がして、そのあとにため息を吐いた一留に首を傾げた東の目の前に、一留はそっと自分が見ていたメッセージを表示させる。
――取引先と行く予定だった昼の予定がなくなった。どうせなら新しくできたカレー専門店に付き合ってくれないかな?
「千景さんから。……お昼一緒にどうって言われてたんだったな、そういえば」
「ああ。……千景と一留、仲良しだもんね。どこに行くかは決めてあるの?」
「新しくできたカレー専門店だって」
「ふふ、そう」
楽しそうな顔で、いってらっしゃいと言うくせに、東はまったく一留のからだを離すつもりはないようだった。千景からのメッセージに返信しているようにするりと端末の液晶に指をすべらせている一留の後ろ背であそぶように、東が一留のからだを抱きしめる。困惑したような表情を隠しもしない一留が、端末を操作しながら東のほうに振り返ろうとするが、見た目にそぐわぬ力の強さを見せる東の腕に阻まれた。どうしようもない男性の力に押し負けたように深く息を吐いた一留が、視線を向ける方向を同じところにしたままで、嘆息するような仕草で言葉を吐く。
「動けないんだけど、東さん」
「うん。もうちょっとだけ、ボクといてくれない?」
「……だれもいない朝は、終わったのに」
「そうだね。だからこれは……どうにもならない、ボクのわがままだよ」
そう言って開き直りを見せる東のことを、一留が強く責めることはできない。眠れない夜に東の静かな温度が光を添えるから、瞼を閉じることができる日もある。どちらにせよ、千景とお昼を一緒にするとしても、いまの時間からはまだ余裕があることだ。仕方ないなと目を閉じた一留を見下ろして満足そうに頬を緩める東に、一留はひどい大人のふりをして、わらった。
「東さんの甘えたがり」
「いまさらだね」