純情と磊磊

 ――「先生」のことは、正直ちょっと嫌いだった。それじゃあ頑張ってねと背中を押されて、ひどく適当に、厄介払いをするみたいに、ラニが放り込まれた十二期生の『ヒーロー』たちのことも、よくわからなかった。なんのためにこの場所に連れてこられたのかとか、時期外れの転校生みたいな扱いで輪の出来つつあった場所に入れられてしまったこととか、結局最後まで、ラニにはなにも理解できなかったからだ。理由を教えてくださいと遠慮なく他人に言うにはラニは大人びすぎていて、見えるものからそれを推理しようとするには、ラニはあまりに子どもっぽい。卒業記念でラニにそのことを教えてくれるはずだった「先生」が途中でラニのことを放り出したので、ラニはある程度同期と仲良くなったいまもなお、自分がはじめて『ヒーロー』になった時のことをわからないでいる。
 思えば、あのひとは面倒なことばかり押し付けられるひとだった。ラニのことも。世界も。全部。


「ラニ、酒臭い」
「女の子にそういうこと言わないでよニコちゃ〜ん、わたしも普通に傷付く心くらいあるよ?」
 薄明かりに照らされて揺れる大輪の花が日を呼ぶように、へらへらと笑った顔がニコの前を素通りした。可憐に象られた少女らしい姿からは消しきれないアルコールの香りがする。同じ場所に目線のあるラニの方をじっと見たニコが、不機嫌を表に出すように、少しばかり眉をひそめた。今日も今日とてどこかで浴びるように酒を飲んできたのだろう同期が、実はかけらも酔いを覚えていないのを、ニコは既に知っている。飄々とした顔で変なことを言いながらへらへら笑っているのが「ラニ・ジェロニー」の顔の一つだとして、ラニの知らない「ラニ」を知覚しているのは恐らくニコと、ビアンキ。セイジとジュードはなんとなく感じ取っている程度だろうが、酒も入っておらず真面目な顔をしたラニの表情を見た時の顔色は、十二期の中で共通の認識だ。
「ビアンキがまた怒りに来る」
「理由はどうあれ、ビアンキさんと喋れるなら満足だよ。ビアンキさんってば、わたしのこと叱るときしかまともにわたしと話してくれないし」
「それは……」
 まあビアンキさんがわたしのこと嫌いでも、わたしがビアンキさんのこと勝手に好きでいるだけだから、いいんだけど。誰にも聞かせるつもりがないような声で、ラニが言う。ニコはラニのそのぼやきのような言葉に返答するものを持ち合わせてはいたけれど、ここまでの自分たちの来歴ゆえに、返事に窮して、沈黙した。
 十二期生。ラニにとってのその肩書きが、ニコたちにとってのものとは少しばかり色を変えて思われていることを、ニコは知っている。少なからずロビンのことは憎からず思っているだろうが、ラニは十二期生としてはあまりに異質な存在だった。アカデミーに所属したこともなく、どこからか連れて来られたらしい『ヒーロー』。【サブスタンス】との著しい適合が見られたために中途半端な時期に十二期に配置されたラニは、その当初からビアンキに対してしか好意的な反応をしなかった。ニコからの歩み寄りがなにかあったのかと聞かれたら、それもとくにあったわけではないが、その点に関してはビアンキも変わりはない。メンターであったロビンよりも、ラニと年の近かったニコやセイジよりも、ラニはビアンキによく懐いた。ビアンキもまた自分のことを慕ってくれる女の子のことを邪険には扱わなかったし、時折、自分の姿に対して頓着のないラニの髪を結んであげたりもしていたはずだ。ニコと初めて会った時のラニはいまよりも表情に乏しく、肩甲骨まであるペールグリーンの髪を無造作に下ろしていた。童顔に見えて面倒臭いと言いつつも自分の髪型をツインテールから変えていないのは、初めてラニがビアンキにしてもらった髪型がツインテールだったからだ。ともかく、現在では想像もできないほどラニとビアンキの仲が良かったのは、もちろん二人と同じ期を過ごしたニコも知るところで、むしろいまのような関係になった二人のほうが、ニコにとってはまだ慣れない環境だった。
 ニコが思うに――というかセイジも言っていたが――いまのビアンキは、ラニにとってのロビンを再現しているように感じる。どこから拾ってきたのかはよく知らないけどと言うには、セイジとニコは自分のことを省みる能力に長けていた。触れるもの全て傷付けると言わんばかりの反抗期を迎えていたラニにロビンが四苦八苦していたのを見たこともある。それは、ニコにはあまり自覚のないものではあるが、父と娘のあいだに横たわる関係のようなものに、よく似ていた。
 思えばまだ自分たちが未熟な『ヒーロー』であった頃からラニはひとを思いやることはたいへん上手く、感受性の高さから悲しみを抱く人間と同調することもあった。自分の感情を見失いがちなラニが唯一自分として好意的な反応を向けていたのがビアンキだとすれば、反抗的に接していたのがロビンだったのだろう。ロビンを失ってラニの持つバランスが崩れることを危惧したビアンキが、それと同時に夜闇に消えることの多くなったラニの父親のような役を担った。ラニにとってのビアンキ・ロウがどのような存在であるのかは、ニコは預かり知らぬところだ。その役割を自分が担うことができないとわかった時点で昔のような関係に戻ればよかったのに、それでもラニのバランスを保つのは自分でありたいということを諦めきれないビアンキの態度がなんという名前の感情になるのかも、ニコにはわからない。
 酔ってもいないくせに酔ったフリをして夜を歩き、酒気を漂わせながら帰ってきて、ビアンキに怒られることを期待している。構ってほしいのかと聞けばそうでもない。昔から、この女の中身はぐちゃぐちゃだった。可憐な花かと勘違いする人間は数あれど、その内側を見ることのできる人間はそういない。だから騙されて、慈しんで、いつかラニから離れていく。
 間伸びした声でニコのことを呼んだラニの、淡い翠緑のツインテールが揺れる。それと同時に少しの怒りを込めて自分の肩に置かれた手のひらを認識して、ラニはぱっと嬉しそうに目を輝かせた。ラニの名前を呼ぶ声はセイジやニコの名前を紡ぐ音よりはジュードを呼びつける高さに近い。
「アンタまた酔って帰ってきたの!?」
「あは、ビアンキさぁん! 今日もきれ〜!」
 反省も後悔もなんらしていないような、へらへらとした顔だ。一センチだって自分が悪いと思っていないみたいな笑みを浮かべているラニが酔っていないことはビアンキだって知っているだろうに、ラニが帰ってくる頃には絶対にラニの顔を見に来るビアンキは、なんとなく、自分に貼り付いてしまった役割を剥がせないままでいるのかなと、ニコは思う。ゆらゆらと水中の中で泳いでいるようなぼんやりとした声が、ラニのことを象徴するように反響し、ビアンキの息が止まった。瞬きの間に空気を吸ったビアンキがラニのまなじりに触れる。
「どれだけ飲んだの?」
「覚えてないなぁ」
 ビアンキさんの顔見て酔っちゃった。そう言いながらゆるやかに笑うラニの姿は、あどけない少女のような顔をしている。……