いつか夜が降る日

 べつに、なんでもかんでもお酒を飲んで騒いでいたいわけじゃない。一番最初にラニがアルコールを呷った時はたしかに「自分がアルコールに酔えるのか否か」という意図が主だったが、いまは違う。結果からして、ラニにはアルコールへの耐性があり、毎夜様々な店を渡り歩いては同期に酒臭いと顰め面をされる程度に酒を飲んでもなお、ラニが本当に酒に酔ったことはない。【HELIOS】の中でも無類の酒好きとして名高いラニが実はまったく酒に酔っていないらしいということを知る人間は案外少数派だ。
 普段であればワーキャーと声を上げて騒ぎながら酒を飲むような店を好むラニも、もちろんたまには静かな場所で一人でカクテルを飲みたい時がある。平時は明るくうるさい人間であるラニが物思いに耽る時、あるいは、自分の体質を気に病んで、酔うことを試みている時、声を上げてみんなで笑いながら酒を回すような店とは精神性を共有できない折、ラニは光もつかない夜のバーに足を運ぶのだ。もちろん、そこにはラニの先輩が来ることがあれば、同期の顔を見ることもあり、後輩が酒を飲める年齢であれば、後輩が座っていることもある。だがこのような場所に来る「ヒーロー」たちのおおよそはラニに興味本位でちょっかいをかけたりしない。たまにラニと飲もうと席を寄せてくるお節介な先輩もいるが、少ない。絡んでくる先輩はラニとペースを合わせてアルコールを呷っているうちに潰れるし、ラニ自身がそれを気にしたこともなかった。それは先輩からのラニへの好意であり、紛れもない心配と好奇心だけで繕われた厚意が滲み出ていることを知っているからだ。目くじらを立てて気にするようなことでもない。
 ラニがカウンターに座ってカクテルを何度も注文している間、視界の隅でちらちらと靡く紫がかった桃糸が、バーカウンターの暖色の光を反射しているのが見えた。ビアンキがたまにこのバーに訪れていることは知っていたが、ラニがバーで酒を飲みたいタイミングと、ビアンキがここでアルコールを浴びる瞬間が同じになることは、わりあい珍しいことだ。邪魔はしないでおこうと静かに酒を飲んでいたラニのグラスが空く度に新しいカクテルが出される。段々と強くなっていくアルコール濃度に気付かないまま喉を鳴らして水でも飲んでいるかのように酒を嚥下するラニに、ふと、ビアンキの視線が紐付いた。ラニにとって不幸だったのは、ビアンキがある程度酔っ払っていて、平時酔っている時に違わず、おいおいと声を上げて泣いていたことだ。ビアンキが泣き始めたな、とぼんやり後ろの喧騒を耳にしていただけのラニの背中に、突然覚えのある熱が飛び込んでくるまで、ラニは静かだったバーに広がりつつある喧騒を他人事だと捉えて憚らなかった。
 ビアンキがしゃくり上げながらラニの名前を呼んでいる。ロビンじゃないんだ。昔ビアンキと一緒にの見に行っていた先輩から聞いた話とはやや色を変えた声色だ。
「び、ビアンキさん?」
「ラニ……ひっく、あんたねぇ〜……!」
 ビアンキは嫌がるだろうが、普段はジュードの隣にいることが多いビアンキの姿は、ジュードと比べると随分華奢なように見えている。ぎゅっと背中から抱き着かれたことで、ビアンキもまた案外『ヒーロー』らしくしっかりとした体つきをしていることを認識したラニが、ビアンキの肩越しに大人たちを見て、息をついた。ばっと驚いたように振り向くラニに、ごめん、というモーションをしたのは、【HELIOS】の『ヒーロー』という立場の大人たちではない。どうやら珍しくデザイン部の何人かで飲みに来ていたらしいビアンキが、衆目など気にしていないような素振りで、ラニのことを詰るように、ラニの背にのしかかった。
 ラニの身長は、一歳年上の同期であるニコと同じ百六十八センチメートルだ。女性にしてはわりと高身長な方に入るラニは、とはいえ百八十二センチメートルのビアンキとはおおよそ十四センチ程度の身長差がある。それだけ大きいひとにぎゅっと抱き締められたなら普通はもっと苦しいだろうに、多分、酔いはしながらもある程度の力の加減はされているのだろう、ちょっとだけ息苦しいかも、くらいの強さを保って、ビアンキはやわらかくラニに触れている。
「アンタ――どうでもいいことはアタシに言うくせに、なんでたいせつなことはなんにも言ってくれないのよ……」
 同期でしょ、アタシたち。少しだけ掠れたひどくハスキーな声色で、ビアンキがぼやいた。ビアンキのことが好きだというわりに、ラニはビアンキに、それだけしか言わない。わたしはビアンキ・ロウが好きです。そういうことだけしか、ラニはビアンキに言ってくれない。自分では力不足なのかもしれないと苦しむビアンキの表情はひどくいびつに歪んでいる。同期の中でラニが最も年若いこともあって、ビアンキはラニのことを妹のように思っている節もあるが――それを踏まえても、なお。
 ふわふわと跳ねるラニのツインテールを追いかける薄紫色の瞳が滲んでいる。昔、ラニが突如十二期の中に舞い降りたあの時、あの手この手で着飾らせようとしてビアンキがアレンジしたまま、ラニはそれからの何年かをツインテールで過ごしていた。いまもだ。普通の顔をしたビアンキがさらっとラニにしたことは、ラニにとってはひどく価値のあるものだった。ビアンキからはもう十分色んなものをもらっているのに、それでもラニのためにどうにかして動きたいという意思の見せられた根底になにがあるのかだなんて、あんまり考えたくない。
 ビアンキのことは、好きだと思う。それが本当に恋愛的な好意なのか、それとも雛鳥が初めて見た人間への刷り込みのようなものなのか、ラニには判断ができない。ただ――好きな人に限らず、仲の良いひとに、そういう、自分の脆い部分を、あまり見せたくないような気がして。それは間違いなくラニ個人が抱えているどうしようもない性質だ。
「うーん……ごめんなさい?」
「ひっく……もっと飲みなさいよぉ、酔って……ぜんぶ、アタシに……話して……」
 こてん。こんこんとラニに対して話しかけていたビアンキの体が突然重くなって、ラニは慌てて自分の背中から滑り落ちそうになるビアンキを支えた。向こうの方からラニたちを眺めていたビアンキのデザイン部での同僚がぱたぱたとこちらに来て、申し訳なさそうな視線をラニに向ける。
「ごめんね、面倒見てもらって」
「え〜! 全然大丈夫ですよお。むしろすいません、せっかく楽しく飲んでたのに〜?」
「いやいや、ビアンキが勝手にラニちゃんの方に行っただけだから。こいつ、ほんとにラニちゃんのこと気にかけてるからさ、いつも」
「……へえ」
 そうなんだ。ぼんやりとした淡いペールグリーンの瞳が驚いたように瞬いた。その間何度かビアンキに視線をやったり、目線を外したり、落ち着かないような様子が見えて、ビアンキの友人がふとまなじりを緩める。――浮世離れしているように見えて、案外ただの子どもなのよ。ビアンキがラニについて言っていたことは、どうやら事実だったらしい。同僚の『ヒーロー』の前ですら飄々とした態度を取っているラニが『ヒーロー』として市民に人気であるかどうかということを聞かれたとき、多くの人間は偶像としてラニのことを好いているひとが多いかもしれないと答えるだろう。実際に初めて今日ラニと顔を合わせるまではビアンキの友人もそう思っていた。可愛らしい顔立ちに反したミステリアスな内面、決して自分自身を見せることのない徹底した態度。救いを求める人間の偶像になり得る『ヒーロー』。それが多くの人から見たラニ・ジェロニーの姿だった。
 ――けれど。
「ビアンキさん、そっちで無理とかしてませんか? やっぱり兼任って、その分仕事も多くなっちゃうし」
「ああ……うん。そこら辺は、自分で調整してるみたいだよ」
 ビアンキのことを心配しているラニの表情は、いつかビアンキがラニのことを語った時の瞳の色によく似た、あらゆる慈しみを煮詰めたようなものだ。ひどく、人間味に溢れた。
 よっこいしょ、とビアンキを背負って、ビアンキの友人がひらひらと手を振った。ここは払っておくから。いくら『ヒーロー』とはいえ、ラニはビアンキの友人にとって紛れもなく年下の女の子だ。かっこつけて支払いのために出した財布の中身は、思っていた五倍ほど飲んでいたラニの酒に八割を持っていかれてしまった。