酸いも孤独も喉の奥
――俗っぽく言い切ってしまえば、巴麻由という人間は、とうの昔から、ブラザーコンプレックスを拗らせていた。もちろん、一番上の兄に対してのものではなく、なによりも――太陽のようで、気高く、うつくしい。麻由より四年ほど先んじて生まれた、三人きょうだいの真ん中。幼い頃、麻由がひいくんと呼んではばからなかった、太陽のひと。兄にとって誰よりも大事なのは自分であると、愚かにもそう信じていた、幼い頃の自分。なんておこがましくて、ばかで、いやになるほど傲慢で、純粋すぎたいきもの。
「ああ――君は、他人に言葉を尽くす代わりに、他人からも言葉を尽くしてほしい人間だったものね」
――そういう自分がいたことを、奇しくも、兄・巴日和は自分だけのものではないということを麻由に示した男が、こうして麻由の目の前に、こういうこともありましたね、とさもなにも気にしていないかのように、まるで刺身の造りを食べるかのようにこちらに差し出している、というのは、いったい何の因果なのか。こてり、と首を傾げている日本のトップアイドルを前に、麻由はひくりと口角を釣り上げた。
巴麻由。アイドルの楽園、このアンサンブルスクエアという場所における四大事務所のうちのひとつ、リズムリンクに所属する歌手。――とはいっても、表舞台に立ちたくないという本人きっての希望から、イベントや番組に出ることもなく、その仕事の多くは、アイドルソングの仮歌を入れることだ。一枚、二枚、三枚、皿屋敷のような数え方ができるほどしか出していない自分のオリジナルソングのCDの売れ行きも、麻由はとくに気にしたことがない。自分のそれよりも、ツキノ芸能プロダクションに所属する最推しだとか、同じくアンサンブルスクエアにある事務所のひとつ、コズミックプロダクションに所属する兄だとか、そちらの方がよっぽど気になるし、アンテナを張っている。麻由は――自分が大きな世界に羽ばたくことなどできるわけがないと、初めから諦めたまま、リズムリンクの所長の手を取った。元より自分のCDがどうなるかは気にしたことではない。
言われた通り、メロディラインを間違えることなく、なぞっていくだけ。歌声さえ入れてしまえば、仮歌を担当する人間としての仕事は、もうない。すっかり立ち慣れてしまったコンデンサーマイクの前、ありがとうございましたと頭を下げれば、麻由の仕事はそれで終わりだ。足早にスタジオを出る麻由の表情は、別段、普段と変わったようなこともなく。それでもこの足が風に乗ったかのように軽く浮いてしまうのは、スマートフォンに入った連絡のせいだ。
――『こうきくん:ESビルの近くで仕事をしていたんだが、迎えに行っても構わないか?』
だいすきなひとからの、その連絡。こちらに来る気満々だというのに、わざわざ麻由に許可を求めてくるのも、昂輝くんらしい。もちろん、麻由にその申し出を断る理由などなく――まあ、これがESビルでなければ一も二もなく断っていただろうが――いいよ、という意図を持ってアライヌがぐっと親指を上げているスタンプを送れば、相手はすぐにそれを認識したようだった。
ESビルは、いっそ嫌になってしまうほどに巨大な帝国で、ES――その首魁と言って間違いのない天祥院英智という男の目指した楽園そのものだ。そもそもこのビル自体がかなり大きなもので、いくら近い場所にいるとはいっても、ここに来るのにはそこそこ時間も掛かるだろう。その間、ぼんやりとしたままロビーで待っているのも、どこか時間を無駄にしてしまっているような気がして、気が引ける。さて、どうしようか。麻由が下を向きながら、すこしだけ不機嫌そうに、かつんとロビーの床にローファーを踏みつけた時、――その時だった。
「ああ、ちょうどよかった――殿下!」
「……えっ」
「日和殿下の妹君ですから、あなたも殿下でしょう――ああいえ、そんな話をしている場合ではなく」
「あ、あの、七種さ、」
「殿下、閣下のことをお願いします。自分、今から大切な商談がありますので」
「茨、行ってらっしゃい」
「はい! 閣下のため殿下のためジュンのため、頑張ってまいります! 敬礼……☆」
台風のように過ぎ去っていった赤髪。その場に取り残されたのは、白銀の長髪を持った美貌の男と、男とは幼い頃にひとつ屋根の下にすら住んでいた少女の二人だけ。
「私たち、置いていかれちゃったね」
「どうしてわたしまで巻き込まれたのかはよく分からないけど。……凪砂くん、七種さんにいじめられでもしてるの?」
「違うよ。茨は、私たちのことを大切にしたいんだ。今日は、私の予定があまり良くなかっただけ」
「わたしのことを見つけられなかったらどうする気で、……まあ、その場合は七種さんがどうにかするだろうけど」
困惑して、当惑して、呆気にとられて――それでもこの状態の凪砂をひとり放り出すこともできない麻由の瞳のアメジストは、ガラス玉に反射したかのような歪みを見せる。対する凪砂は、なにがそんなに楽しいというのか、サンストーンのような目を輝かせて、くい、と麻由の手を引いた。
「凪砂くん」
「麻由ちゃんは、衛藤さんのことを待っているんだよね」
「……いや、うん、そうなんだけど。なんで知ってるかは、怖いから聞かないでおこうかな」
「うん。それでね、麻由ちゃんを見かけた茨が、カフェシナモンあたりで待っていてください、って言ったから」
「あ、そうなんだ……」
「『こちらの予定に巻き込むのですし、せめてカフェの金額くらいは提供するべきですよ、閣下』――だそうだから、今日の分は私が出すよ」
だから、好きなものを食べてね。
凪砂の、こういうところが苦手だ。なんにも分かっていないような赤子みたいなふりをしながら、その実、内実をもっとも把握しているような、狡猾な――、――否。これは、麻由が個人的に凪砂に抱いている私怨にすぎない。切り捨てる判断というものに長けた七種茨という男をもってしても卸せなかった乱凪砂という男から麻由はそっと目を逸らして、手持ち無沙汰になってしまった視線をカフェシナモンのメニューへ落とした。
巴麻由が乱凪砂のことを語る際、麻由は必ずといってよいほどに苦虫を噛み潰したような表情を晒す。ブラコン――巴日和のことが大好きだったブラコンは、いつの間にか巴家において小さくない存在感を抱いていた凪砂に日和が取られてしまうことを、潜在的に、恐れていた。その頃の凪砂といえば、例の『ゴッドファーザー』の元から巴家に引き取られてそう時間も経っていない、まさしく人形が自我を得てから日のない赤子のような存在で、年の近い日和は甲斐甲斐しく凪砂の世話を焼いた。妹である麻由のことを放って、のことである。仕方なく麻由も凪砂の傍にいることになった。なぜって、日和が凪砂の隣にいるからだ。凪砂は日和とよく言葉を交わしたが、麻由と接することはあまりなかった。そのうち『誰か』に『見てもらいたい』欲求ばかりが募った麻由は爆発して――「『家族』なんだから、仲間外れにしないでよ」、なんてことを泣き喚いたのだ。小さな子供のように――まあ、その頃の麻由は、正しく小さな子供でしかなかったので、仕方がなかったのだろうけれど。
ともあれ、乱凪砂は麻由にとって鬼門の存在だ。あるいは悪魔と言ってもいい。麻由は幼い頃の記憶や夢ノ咲時代の日和の表情から、そもそもアイドル業界は恐ろしいものとして遠ざけてきたので、その全貌は麻由がひっくり返っても知ることはできないが――目の前でコーヒーを飲んでいる凪砂の顔をちらりと見上げると、サンストーンの瞳がゆらりと細まりを見せて、麻由は驚いたように肩を縮めた。
「私に初めて家族と言ってくれたのは、君だったよね」
「そうだっけ。あんまり覚えてないな」
「仲間外れにしないで、と泣いていたのを、私は覚えているよ」
「わたしは覚えてないですが」
「あの時、私、嬉しかったんだと思うよ。今ならきちんと、そのことを思い出せる」
「……そう」
「衛藤さんには言ってあげないの?」
「突然なにを言い出すのトップアイドル!?」
「ああ――君は、他人に言葉を尽くす代わりに、他人からも言葉を尽くしてほしい人間だったものね」
「っ、――そういうわけじゃ、」
そういうわけじゃ、なくて。だって、どうしたって――麻由は衛藤昂輝に恋をしていて。それが恋であるために、家族となるのは難しい。
そう言って目を伏せる麻由に、凪砂は難しいとでも言うように眉を顰めて、すこしだけ首を傾げた。
「私は日和くんのために『アイドル』になったけれど――麻由ちゃん、君のためにできることがあったら、してあげたいとも思うんだ。それが、私にできる恩返しだから」
「恩返しがしたいのなら、お兄ちゃんにどうぞ。あなたがどう思おうと、わたしはなにもしてないんだから」
「……強情な子。日和くんも嘆いていたよ、もうすっかりお兄ちゃん呼びで慣れてしまって、ひいくんって呼ばれなくて寂しい、って。私も寂しい。もうナギくんって呼んでくれないの?」
純白の赤子。時代の寵児。真正『アイドル』――そうなるように生かされてきた、神の御子。凪砂に持たされたそういう意味のすべてを、けれどいまだけは、すべて投げ出してしまっているようで。寂しげな瞳を向ける凪砂にうぐ、と喉を詰まらせた麻由に、スマートフォン、という助け舟が出された。メッセージによると、昂輝くんはもうビルに到着したらしい。茨も一緒にいる、というメッセージのままに麻由は凪砂の手を強く握ってカフェから出たし、その間、凪砂の顔を見るようなこともなかった。迷子にならないようにという意味だけで、別段特別な他意は存在しない。
「ああ、閣下!」
「おかえり、茨」
「麻由、すまない。待たせたか」
「ううん、待ってないよ……ありがとう、こうきくん」
「……衛藤氏」
「ああ。……ありがとう、七種」
それじゃあね。終ぞ麻由は凪砂の方を振り向くことはしなかった。なんとなく負けた気分になってしまうので。まるで、小さな子供の癇癪のようだ。――あの頃から、麻由の根本的なところは、ずっと、変わらない。
「昂輝くん、七種さんと何を話してたの?」
「うん、まあ……ふふ、色々だ」
「そ、そうなんだ……?」
するりと撫でられた手のひらの感覚も、すべて。麻由にとっては、何も変わらないままなのだ。ずっと。