なくしもの

 薄い液晶の奥にはいろんな世界がある。ボタン1つですぐに切り替わる世界は、面白くもあり、つまらなかった。世界は広いというのに、映されるのは中身のないバカばっかりだ。人を見下すことを面白いと勘違いした芸能人ほど、滑稽に映るものは無い。何か、なんでもいいからと面白いものを探し求める割には、結局、ニュースに落ち着いてしまうのだ。

 いいや、内容なんて何でも良かった。音さえあれば何だって。人の不幸と幸福を流しながら、床に転がった。今日は疲れた。目を閉じて、暗闇より先に私の意識を捕まえるのは、昼間に会った名前も知らない男である。穏やかな声色に、その時の私はなぜか怯えてしまって、行動の矛盾は思ったより私の心に引っかかっているらしい。

・・・

 原因の元を辿れば、なんとなくの所為だった。1カ月くらい前から、あまり体調が優れない。妙に貧血気味になったり、倦怠感が酷く起き上がれない日もあった。今日は珍しく体調が良くて、だからなんとなく、出かけようと思った。

 行くあては特になかったので、CDショップをいくつか回って、2時間もすれば飽きてしまった。最後に本屋に寄って、漫画の最新刊といくつかの専門書を買って、久しぶりのお出かけは終了だ。帰りの電車を待つ間、荷物の重さに少しだけ後悔したけれど、帰宅すれば忘れる後悔である。
そう思いながら夕食のメニューを考えていると、どん、と背中に痛みを感じた。ぐるぐると定まらない視界と、突然軽くなった左腕と、電車がまいります、という軽快なアナウンスを一つずつ認識して、自分の状況を理解する。突き飛ばされたんだ。誰、とか、どうして、とかは後から考えただけで、この時はただ、今起こっている状況を脳が追いかけることが精一杯だった。
だから、このままだと線路に落ちて、最悪死ぬだろうことまでは理解したけれど、それを回避しようとまでは考えられなかった。

 新幹線とぶつかった人間は肉片になるらしい。前にどこかで見たことを思い出す。そうなるならきっと、痛みは凄まじいんだろうな、とかを考えて、さっき、背中に感じた痛みも相当だったけれど、あれの何倍だろう。いや、痛みなんて感じないまま死ぬのかもしれない。ああでも、ホームに来るんだから、少しは遅いのかな。
他に考えるべきことはあるはずなのに、そういうことしか浮かばなかった。これがパニックというやつか、と頭は冷静なのかそうでないのか、自分でも分からない。目を固く瞑ったのは、せめてもの現実逃避だった。

 体験談、電車にぶつかっても大して痛くはないらしい。心の中で10を数えて、もう死んだだろう。なんて、不謹慎なことを思って目を開ければ、視界の隅で電車が走り出す様子を捉えた。遠くへ行くそれを目で追って、完全に見えなくなってから、ああ、どうやら、生きているらしい。

 現実を理解するのは容易くて、生きていることと、今自分の真後ろに人がいることを認識した。その人の腕は私の腰に回っていて、コレのお陰だと合点がいった。

「大丈夫ですか」

 棘のない、穏やかな声だ。だのに何故か、黒色を感じた。振り返るのが怖くなって、はい、と言った声は自分が思うより随分と掠れていた。けれどどうやら、聞こえてはくれたらしい。

「怪我は?」
「………いえ」
「ちょっと、診せて」

 こっちは、どうやら聞こえなかったらしい。男に捕まったまま(あとから思い出しても、この表現が一番近いと思った)人混みを避けてホームの階段下まで戻る。何人か、目が合ったけれど、声をかけてくる人はいなかった。当たり前だ。他人の揉め事なんて関わらない方が良いに決まってる。むしろ、かち合う瞳は心配というより怪訝なものばかりだった。

「あの…」

 一体目の前のこの人は、何を考えているのだろうか。まずは腕。両手で1本の腕を抱えて、手の動きを目が追っている。その表情がまるで真剣だと訴えていたから、何も言えなくなって、ただただその動きを見つめるしかない。
男性特有の、骨格の良い手指を眺めて、羨ましいと思ってから、別に羨ましい理由が見当たらなくて、自分の思考に首を傾げるのである。

「後ろを向いて」
「あの、」

 向いて、と指示しながら、半強制だ。肩を掴まれてぐい、と力を入れられれば、私には後ろを向くという選択肢しかない。若干痛んだ肩に眉をひそめてから、腰にあてられた手に触れる。

「あの!」

 今度は聞き取ってくれたらしい。

「私じゃなかったら、警察呼ばれてますよ」

 さっきまで真剣だったそれが、ぽかん、という文字がよく似合う顔に変わる様は、あまりにおかしかった。ごめん、とか、すまない、とかを言ったのだと思うけど、私が堪えきれなかった笑いがかき消して、何も聞こえない。

「……すみません。つい、おかしかったから」
「いや、」

 構わないけど。続けられる言葉はなかったけれど、きっと、心配の類だろう。

「大丈夫ですよ。どこも痛くないです」
「それなら良かった」

 満足気な口調なのに、どうしてか少しだけ、空っぽに聞こえた。違和感を押し流すように、ホームに佇む人々が電車の中へと流れ込んでいく。どうやらこの不毛なやりとりの間に、次の電車が来ていたらしい。

「あれに乗るんだろう。私も一緒に、」
「いえ、…大丈夫ですから」
「そうか。では、お大事に」

 透き通るような、透明な声が人混みをすり抜けた。どことなく怪しい人だけど、助けられたことは事実なので、ありがとうございます、と会釈をした。それと同時に、男も私に背を向けて、階段を昇っていく。
 ああ、名前きいてないや。気づいたのはこの時だった。

・・・

 よくよく思い返せば、私は今日、死にかけたのである。あの男の存在はその事実すら薄めていた。男の、穏やかな声に怯えて、怪しい素振りに安堵した。あの時の感情が、全然分からない。

 分からないなら、考えなければ良い。その考えに至るのに数時間を要したのだから、時間の無駄遣いとはこのことである。この数時間の間に、今日買った漫画かCDのどちらかくらいは消化できただろう。折角調子の良い日だったというのに、なんだか無駄にした気分だった。
 しかしその考えに至ってしまえば、私の勝ちである。まずは漫画だ。CDは明日取り込むとして……。大きめのトートバッグから書店の袋を引っ張り出す。

「……なにこれ」

 漫画に引っ付くように、かたん、と音を立ててバッグから出てきたそれは見覚えのないものだった。スマートフォンだ。私のスマホは今、テーブルの上にある。

 一体誰のもので、どこで拾ってしまったのだろう。今日の行動を頭の中でもう一度辿り、再び、駅のホームでの出来事を思い出す。突き飛ばされた時に、私の荷物はホームに散乱していた。その荷物は、私があの男に捕まっている間に、見知らぬ人が拾ってくれていたのだ。動揺か何か、荷物のことなんて忘れて手ぶらで乗車しようとした私に、その人は手渡してくれた。

 きっとその時に、私のものでないこのスマホも、ホームに落ちていたのかもしれない。場所さえ分かれば後は私の考えることではない。駅に戻って、駅員さんに預かってもらおう。
空からオレンジ色が消える頃合いで、きっと帰ってくるのは夜遅くになってしまうだろう。けれどそれよりも、他人の所有物が手元にある事実の方がなんだか落ち着かない。スマホと財布だけを持って立ち上がると、その時丁度、スマホが鳴っていることに気づいた。

「『帝徒医科大学病院』…?」

 画面にはそう表示されていた。出るべきか、出ないべきかを悩んで、ひとまず鳴り終わるまで待ってみる。着信が止んでから画面を見ると、さっきの病院から何回も着信が来ていた。病院から、こんなに連絡が来ているなんて、余程緊急なのではないだろうか。もしかしたら、悠長に届けている場合じゃないのかもしれない。
 緊急着信の文字をタップして、かけてみる。3コールくらいして、おっとりした女性の声が聞こえた。

『はい、帝徒医科大学病院です』

 いざ掛けてみたものの、今の状況をどう伝えるかまではあまり考えていなかった。

「すみません、あの…拾った携帯からかけてるんですけど……」

 歯切れは悪くなったけれど、どうやら伝わったらしい。あちらでは訳が分かったそうで、少々お待ちください、と言われて、女性の声はカノンに代わった。4回ほど同じ音楽を繰り返して、やがて、静寂になる。

『すみません、お待たせしました』
「いえ。……ああ、あなたは」

 今度は男の声だった。妙に、どこかで聞いたことのある声だと言えば語弊で、どこかでなんてぼんやりしたものではなく、今日、さっきまでくっきりはっきりと思い出せた、男の声だった。

『その声は……今日、お会いしましたね。駅で』
「ええ。あの、多分その時に拾って…? いや、拾ってはないか……」

 全て文字で片付く時世、電話なんてもう何年とやっていないレベルだ。どの言葉を選べば通じるか分からず、とにかく出てきた言葉を投げかける。大丈夫ですよ、と返されたのは一旦落ち着けの意味だろう。こうなれば口を噤むしかない。

『とにかく、場所が分かって安心しました。ありがとうございます』
「いや、でも私が間違えたからで……」
『行方不明よりマシですよ。ところで急なお願いですが、私の所まで届けて頂くことは?』

 どうやら今かけている病院が勤め先らしい。ということは、医者なのだろう。やたら怪我を心配したのは職業柄なのだろうか、と、答えを1つ見つけて嬉しくなったが、そんなことを考えている場合ではない。

「30分くらいあれば、行けます」
『助かります。着いたら、外来受付の窓口が一番近いと思うので…』

 それでは、お気をつけて。その言葉で電話は締めくくられた。それこそ何年ぶりの見ず知らずの人との電話で、手も顔も汗ばんでいる私とは対照的である。それとも昼のことを指しているのだろうか。あんなこと一生に一度もないだろうから、1日に2回もあろうものなら世界記録だ。これは正論であり、強がりでもあった。

・・・

 病院へ向かう電車は、飲み会に向かう人と家に帰る人でごった返していた。さっきから、眩暈が酷い。今日は大丈夫だと思ったけれど、もしかしたら昼に元気に動き回りすぎたのかもしれない。席は空かないから、なんとか窓側に立って、走っている間は窓に寄りかかった。

 電車からホームに降りた途端、今度は吐き気が襲う。ふう、と大きく息を吐くに留めて、足を止めることは無かった。早く、はやく届けないと。考えているのはそれだけである。渡すところまで意識があれば、後は大丈夫だろう。これは善行とか人の為とかではなく、只単に、自分の、自分への扱いが一番ひどいだけだと認識していた。

 辺りはすっかり真っ暗だったけれど、都会の夜である。街灯はいくつも並んでいるし、車通りも多い。そんな明るい夜を歩きながら、気づけば眩暈も吐き気も幾分か治まっていた。
 あと2、3分もすれば着くだろう。体調もさっきのように悪くはないし、これなら帰りの電車くらいには乗れそうだ。信号を待ちながら、帰ったら何をしようかと考える。なんたって齢17だ。夜に寝てしまうのは勿体ない。そう、17なのである。まだまだこれからという歳であり、眩暈は治まったというのに、やっぱり視界はぐらついた。

「うそ…」

 今度は声を出す余裕まであったらしい。見知らぬ人間の故意なのか、後ろに見える人混みの圧なのか分からないけど、やっぱり、私は人混みから弾き出されていた。地面にぶつかる衝撃と、走ってくる車にぶつかる衝撃は一体どちらが先だろうか、と考えながら、諦めるように目を瞑った。

 諦めたというのに、無意識の私は、スマホの入ったバッグだけはしっかりと腕の中に納めていたのだ。暗い視界の中に過るのは、名前も知らない男だった。
1/2
prev next

listtop