さくらノート

 灯りは私を見下ろして、嘲笑うようだった。動かない。動かなかったのだ。只々笑うだけで、私を殺したりなんかしなかった。まるで時間が止まったかのように感じて、それに反するように人混みは動き出す。

「青……」

 どうやらもう使い切ったと思っていた『運』というやつは、まだ私の中に残っているらしい。私だけが放り出された歩道は、今は人で溢れていた。
立ち上がろうとして、ここでやっと、私に向かって差し出されている手があることに気づいた。握り返したのは反射だと思う。感触では分からなかったけれど、肉付きの良い、男特有の骨格のそれは記憶に新しくて、

「大丈夫ですか」
「……はい」

 人混みの、無関心を体現した流れに逆らって手を出してきたのは、よりにもよってこの男だった。死にかけて思った何か、とか、そういうものよりも、一番最初に羞恥が襲った。私が1日に2度も死にかけるなんてどうでもいいけど、自分で世界記録と指をさして笑ったそれを、他人に笑われるのは流石に恥ずかしいと言わざるを得ない。

「もうすぐ来る頃だと思って、駅まで向かっていた所だったんですが」
「…すみません」

 どっちともつかない返事をすれば、男は、口許を緩めた気がした。

・・・

「良いんでしょうか」
「構わないさ。空き部屋なんだから」

 男の手を取ったその時、握られている私の手と、バッグの中にあるスマホを入れ替えるだけで良かったのだ。なのにどうしてか、私は帝徒医科大学の病室にいる。他の部屋より洒落た一人用の部屋だ。
流されるままベッドに腰を下ろして、男は部屋の隅にあるパイプ椅子を広げた。

「自由に使ってもらって良いから」
「いえ、大丈夫です。怪我もないし」
「貧血だろう」

 どうやら医者を騙すのは難しいらしい。どこかへ行こうとする意識を必死に繋ぎ止めて、この男と離れるまでだと言い聞かせていたのに、全てが無駄になってしまった。と、ひねくれるのは簡単だけど、本音を言うなら、休めるならそうしたい。
なんとなく悪いことをしているような気分もついには負けてしまって、彼の言葉に甘えた。

「すみません、少しだけ」
「少しと言わず、今日は泊まると良い」

 そこまでするのは、流石に悪い。空き部屋といっても病院である。電車がなくならない程度に休めれば十分だから、と言う前に、毛布を肩まで掛けられて、逃げ場を塞がれているように感じた。自分の意志が反映できないのは、なんだか不服である。表情だけ不貞腐れてみたけれど、彼は、笑うでも馬鹿にするでもなく、目を細めて息を吐いた。

「真面目な話をしようか」
「…………はい」

 男は話をすると言ったのに立ち上がって、床に膝をついた。両腕をベッドの上で組み、頭はその上に置かれた。目線を合わせる為にそうしたのだと思うけど、必然と近くなった距離が、落ち着かない。

「体調が悪いのは、いつから?」
「1ヶ月、くらい前だと」
「症状は貧血? 眩暈も?」
「はい。あとは、気怠いというか」
「その他は? ……例えば、咳が続くとか、心臓が痛い、とか」

 目の奥が、じんと傷むような感じがした。何か、気づかない方が良い事に気づいた時のような、気まずさのような、それである。貧血や倦怠感のあることが多かったから、格段いつもの、という認識は無かったけれど、確かに胸が痛む時がたまにあったし、咳が止まらない日も、あった気がする。

「…………あの、」

 すぅ、と息を吸って、少しずつ吐いた。一呼吸置いて、男と目を合わせてみたけど、気まずくなってすぐに逸らしてしまう。

「そういうの嫌いなんです。結論だけ教えてください」

 言ってないことを言われるということは、彼の頭の中には、きっと具体的なものが浮かんでいるのだろう。これは質問じゃなくて確認だ。だったらこんな、回りくどいことはしなくて良い。

「……すまない。単刀直入が好みだったね」

 真面目なのか、ふざけているのか、掴み損ねる。どうやらこの人は私と反対で、結論を泳がせる方が好きらしい。いいから早く、と急かしたくもなったけれど、それがその人の癖であるなら多少は仕方が無い。
待った理由はそれだけだ。きっと、何百何千、いや、それ以上の生と死を見てきた医者が、私一人の生死について、言い淀むなんて考えてもいなかった。だから、それから暫く黙り込んでしまった男が不自然に思えて、胸の奥がざわついた。何か、私は何か、大事なことを、

「癌の可能性があるから念の為検査をしたい。明日か……出来れば今すぐにでも」

 大事なこと、が、ある気がした。その、気がするに触れた時に、ようやく男が口を開くのだから、考えていたことが全部散り散りに消えてしまった。残ったのは、特にまだ名前のなかった病名である。

「今からですか」
「君さえ良ければ。こういうのは1秒でも……」

 後半が、うまく聞き取れない。突然襲ってきた吐き気を堪えようと、私の意識の大半が取られたからだ。こんな時に限って、情けなくて、嫌になる。

「大丈夫。落ち着いて」

 男はさっと身を乗り出して、ゆっくりと、私の身体を起こした。胸許に寄りかかる体勢が一番苦しくない。
恥ずかしい、と吐き気が収まってから少しだけ思ったけれど、少しだ。そんなことより不安でいっぱいだった。

「……すみません、もう」
「このまま話そう。今は苦しいだろう」
「ええ、きついです。きついので、今日は」

 今はとにかく、早く寝たい。痛みや苦しいのは私の意識の外であって欲しいから。目を閉じて、深呼吸を繰り返す。呼吸に合わせてとんとん、と背中に触れる手のひらが気持ち良かった。
落ち着いてからまた横になって、肩まで掛けられた毛布を顔の半分まで引っ張った。

「何かあったら押して。僕が来るから」

 指を差した先のナースコールを確認して、頷けば、ふ、と笑った。男の背中を見送ってから目を閉じる。ガラ、と開いた扉は、一向に閉まる気配が無い。

「おやすみ、みお」

 どくり、と心臓が跳ねた。緊張の糸が張って、扉が締まりきって、少しだけ緩んだけれど、冷や汗は伝ったままだ。

「……名前、」

 言ったんだっけ。昼までの記憶を遡ってみたけれど、思いあたるものは無かった。そもそも私は相手の名前を知らないし、聞いてないから、一方的に名乗ったとは考えづらい。
どうにも引っかかるけれど、きっと答えは、今考えたところで分からないだろう。考えるのは無駄な行為だと分かってしまえば、思考の放棄は簡単だった。

・・・

 朝日が好きだ。朝起きたら、まずベッドから出て、カーテンを開けて、朝日を浴びる。これは特に意味は無いけど決めたこと、であり、しなかった日は無かった。

「おはよう」
「………………。」

 だから不愉快なのだ。朝起きて、最初にしたのはこの男との挨拶である。平生であれば普通に返したと思うけど、生憎、朝は気分が良くない。

「……じゃま」

 重たい瞼はそのまま、髪をかき分けながら、そう伝えるのが限界だ。男は笑いながらすまない、と言ってどいてくれたけど、すまないなんて1ミリも思っていないような、そんな笑い方だった。

「朝食を済ませたら検査にしよう」
「いえ。……食べないので」
「……そうか」

 だめ、とでも言うかと思ったけど、そうではないらしい。妙に諦めの良い男に手渡されたのは、検査用のガウンだった。着替えたら呼んで、と言われて、ああ成程と合点がいった。この人、急いでる。

「あの、」

 だからこれは、少しのいじわるだった。何となく理解はしたけれど、それでも分からない、最後のピースのようなものだ。考えたって仕方ないのだから、聞く方が早い。

「昨日、名前呼んだでしょ。あれ何?」
「あぁ……そんなこと」
「そんなことじゃなくて、その馴れ馴れしい態度も」

 そうだ。病室に来てから。それまではまだ医者の役だったと思うけど、妙に馴れ馴れしいというか、少なくとも医者と患者では無かった。なんとなく、の違和感だったけれど、この答えなら間違ってはないらしい。
 ふ、と笑う声に眉を顰める。この人、多分全く、悪いことをしている自覚が無いのだ。正直気味が悪くて、ここまで愉快そうに笑われると、私の認知が、思考が、間違っているんじゃないかとさえ思う。

「君は覚えてないんだね、みお」

 どうやらこの気味の悪さの方が、当たりらしい。けれど、覚えていないと言われれば、形だけは納得した。

「久しぶりだね、みお。みお……浅倉みお。もうすぐ2年か」
「2年……?」
「いいや、たかが執刀医の事なんて覚えてないだろう。無理もないさ」
「執刀?」
「僕は忘れないけどね。鉄パイプに貫かれた心臓なんて、まだ君でしか見たことが無い」
「はあ……?」

 鉄パイプが、何だって? 脳がわかることを拒否した所為で、それ以上、納得も理解も難しい。そんな漫画みたいな展開、実際にある訳がない。2年前だとしても流石に、そんな衝撃的なことを忘れる訳もない。……はず、である。

「まあ、その時手術させて貰ったよ。僕にとっては貴重……いや、衝撃的なオペだったから、君のことが――……」

 途中からは聞こえていなかった。私の意識は目の前の男じゃなくて、2年前の記憶を探ることに集中していた。集中したところで、記憶にかかったモヤは晴れそうになかった。けど今なら何だか、思い出せる気がする。何か、何か……

「みお?」
「……すみません。聞いてなくて」
「大した話じゃないから。そんなことより、君の心配をしてるんだ」

 顔色が悪いよ。そう言って、握られた手がひとなみに温かくて、意識が記憶から逸れた気がする。そうか、私顔色悪いんだ。けれどきっと、理由は彼の描いているものではなく、別のものなのだろう。

「忘れている、ということは思い出したくもない話だっただろう。すまない。思い出させるようなことを…」
「そうじゃ、ないんです」

 だから、これだけは否定しておかなければならない。続きは中々、口から出て行ってはくれなかったけれど、男はずっと、待っていてくれた。
時間を置けば置くほど、言いづらくなる。どこかで言わなきゃ。深呼吸を1回、目線は床に落として、顔なんか見てやらないまま、やっと言葉は音になった。

「高校より前のこと、覚えてないんです。」

・・・

 検査の結果が出るまでは、少し時間がかかるらしい。それまで出掛けようか、と言われ、私は、言われるがままだった。
四方天(……と、いうらしい。途中ですれ違った先生がそう呼んでいた。)先生が手を握って引っ張るから、恥ずかしくなって、コレはやめてくださいと言えば、何が愉快なのか笑われた。この人、笑ってばっかりだ。
どこに行きたいとも、どこに行こうとも言われず、着いたのは駅の中にある本屋だった。

「本、買いに来たんですか」
「いいや」

 本には目もくれず、本屋の端にある文房具のコーナーに辿り着く。先生が手に取ったのは、分厚いリングノートだった。表、裏、中と確認して、何が不服だったのか首を捻って棚に戻す。左端から順番に繰り返して、ついに不服でなかったらしいそれを私に差し出してきた。

「君に合いそうだ。どうかな」

 自分用、じゃなくて私のものらしい。だったら最初から、私に選んでと言えば良いのに。という不満はあったけれど、今、彼に問いたい不満はそこではない。

「……そういうの嫌いって言いましたけど」
「ああ、ピンクは嫌いだったかな。」
「そうじゃなくて、」

 遠まわしとか、結論だけを言わない仮定とか、とにかく無駄なことが嫌いなのだ。ハァ、と溜め息は隠さずに。せめて気分を害したと伝わるように、睨みつける。

「検査結果、分かってるんでしょ。あと何日?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返す間も、視線を逸らさない。やがて、笑う。と思ったけれど笑わなかった。伏せられた瞼が、どうしようもなく、苦しい。

「……肺の末期癌。1カ月、あるかどうか」

 余命宣告を受けた人間は、どういう反応をすれば良いのだろうか。不思議と、落ち込むことも、今後を楽しもうという気持ちにもならなかった。いや、不思議には思わなかったけど。私は、こういう人だ。

「じゃあ、30ページもあれば十分。こんなに分厚いノート要らないわ」

 所謂、日記帳だ。そう思ったから決めつけて話を進めたけれど、否定はされなくて、だから本当にそうなのだろう。そうだな、と言って、次に手に取ったのは一回りサイズの小さなノートだった。

「これなら薄いし、小さいから持ち運びも楽だろう」
「他の患者さんにも、同じことしてるんですか」
「まさか。君だけだよ」

 僕が特別扱いするのは。なんとも胡散臭いトーンで、ああ、これ、全員に同じこと言ってるんだろうな、と直感した。問い詰めるのも時間の無駄なので、何も言わないけど。

 買ったものはノートだけだった。手を出せば、ちょっと待って、と言って、先生は忙しく表紙に何かを書き始めた。ペンのフタを閉めて、ようやく満足気に渡してくれる。
『2.20』と付け足されたのは今日の日付で、左の隅に、『四方天御稜』と書かれていた。ノートと一緒に渡されたペンで、日付の下に付け足す。『浅倉みお』。

「日記をつけるだけ?」
「日記でも良いし、感じたことでも良い。その日のことを何でもいいから書いてごらん」
「……意味を、教えてください」

 そう、意味だ。残された時間は、私が思うより僅かだ。1日の数分でも、こんなものに時間を取られる理由がなければ納得できない。
嫌だ、とか、理解できない、とか、そういうことではなくて、只理由のないものを自分の人生で行うことが、私には難しかった。

 四方天先生は顎に指を当てて、なにやら考えているようだった。文字通り、ようだ、と言う感じで、きっと何も考えてはいないのだろう。明確な答えを持って尚、私が何度嫌いと伝えても、直す気は無いらしい。

「君はもう少し、人生の余白を楽しんだ方が良い」
「結論だけ言って」
「そうじゃない。これが答えだ」

 …………。

「残りの人生をという意味じゃない。それは僕がなんとかする。君はもっと、ずっと長く生きられる。だから……」
「……だから、何?」

 やっと、言葉を絞り出せた。答えが抽象的で、ふんわりして、掴めない。探るように言葉を進めたのは、無意識か、あるいは怖さかもしれない。

「……話を変えよう。君は今日、そのノートの1ページ目に何を書く?」
「あのね、結論だけ……」
「君が書くのは『死ぬまでにやること』だ。」

 日記と言って渡したのに、君がするのはそういうことだ。
まるで知ったような口ぶりに、僅かだけれども波風の立った感情は、怒りや苛立ちだったと思う。

「『どうせ死ぬなら後悔しないように』……当たり前の感情でしょ」
「普通、なら。浅倉みおの場合はそうではない。君がやっているのは人生の清算じゃない。人生計画だ」

 生まれてから死ぬまでにすることを、淡々と羅列して、只消化しているに過ぎない。だから無駄話が嫌いなんだ、君は。予定が狂うし、羅列したこと以外に興味が無いから。
 きっと、事実を言っているだけだ。だのにどうしてか、責められている気さえしてしまう。

「……詳しいのね」
「そうだね。君は覚えてないようだが」
「………………。」

 きっと、他の人から見たら、致命的な欠陥と呼べるのかもしれない。記憶が朧気になって、その時に、自分がおかしくなったんだと思っていた。
けれど、そうじゃないらしい。私は最初からおかしかったのかも。もしかしたら、生まれた時から。生まれてからずっと、欠陥だらけなのかも。

 手が、指の先が小さく震えていることに気づいたのは、その手を握られてからだった。
何が、何が怖いのだろう。この男が? 私が知らない私まで知っていることが? 存在が? もしそうなら、この手のぬくもりで落ち着くなんてあってはならないのだ。
……だったら何が怖い?

「死ぬのが、怖い?」

 男が、呟く。ふるふると首を横に振った。

「違うの。……死ぬまでに、やることが多くて」

 終わるか分かんないの。
 ふ、と、私の震える手をなぞっていた指が、止まる。ちら、と視線を寄越せば、先生は眉を下げて、まるで悲しむような表情で、なんでそんな顔をしたのか、分からない。

「1ページ目は、今日あったことを」
「でも、」
「やりたいことは、今教えて」

 僕に、僕にだけ教えて。君が死ぬまでにすること。僕が約束しよう。僕だけが、君がしたいことを叶えてあげるから。

「死ぬ、前に……」

 いっぱい、いっぱいある。ありすぎて、何から言えば良いのか分からない。数分も前なら、何故この男に、私の人生を教えなければならないのかと思っただろう。
けれどそんな疑問をかき消してしまう程に、ただ、触れた指先が優しかった。最初に感じて、たまに見える得体の知れなさなんて消してしまうくらいに、優しかった。

 なんで、と思うかもしれない。最初に言うことは、1番、しなければならないことだ。私自身、私のことが分からない。けれどモヤのかかった記憶が、こうしろと言っている。姿を表さない癖に、声だけはうるさかった。


「死ぬ前に、桜が見たい。」
1/2
prev next

listtop