ブルーグレー
理由はたくさんあった。
音楽プレーヤーからランダムで流れている曲が最高の選曲だったこととか、今年一番の冷え込みだってこともそうだし、差し込む朝日があたたかくて気持ちが良かったことも。
たまには真面目の枠から外れたかったこともある。
本来降りるべきだった駅でわざとおりなかった理由は、そう、いくらだってあるのだ。
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平日の朝。
一松は電車に乗り、揺れに身を任せていた。
両耳をイヤホンで塞ぎ、何をするわけでも無く自分の手の爪を眺めている。
昨晩切ったばかりの爪先を指の腹で撫でると、切りたての爪が皮膚に引っかかった。
彼は爪を切るのが嫌いだった。
切った爪の断面はザラザラとしていて、服の繊維を無遠慮に引っ掛けてはすぐダメにしてしまう。
ヤスリをかければいものの、自分の爪の一枚一枚を丁寧に扱ってやる価値もないし、なにより面倒だ。
ささくれ立った皮膚に囲まれた不思議な形をしたそれを、愛してやる義理なんてないのだ。
一松は気になる中指のささくれを無理矢理ちぎった。
普段であれば一松は通学の時間帯に電車を利用してはいなかった。
そもそも彼は電車登校ではないのだから、当たり前だ。
徒歩で通える範囲に学校はあるため電車に乗ることはそう無い。
では何故、日本に住むほとんどの人間が学校やら会社やらに向かう中、学校から逃げるように走る電車に乗っているのかと言えば、気まぐれである。
教師が急に始める小テストや、晴れていたのに急に降る雨と同じ、あの、気まぐれだ。
大した理由も無いが電車に乗ってみようと思った。
強いて言えば、学校に行く用事が思いつかなかったからだ。
残念な事に、品行方正とは言い難い一松にしてみれば、気まぐれに学校をサボる事など車通りの少ない道で信号無視をするくらいには、ハードルの低い行為だった。
ほんの出来心で一番安い切符を買って、切符を買ったからにはそれを使って改札を通った。
上りの電車よりも、下りの電車の方が終点が遠かったのでそちらを選ぶなど、彼はいくつもの無責任な判断を重ねて今に至る。
無論、同じ学校の生徒が降りる駅でもあったので、クラスで見かける顔ともすれ違った。
しかしその誰もが一瞬不思議そうに一松を見るが、声をかけ、彼の不誠実な態度を改めようとする人間はいなかったようだ。
彼とクラスメイトの距離感はその程度で、誰もが六つのうちどれだか確信が持てなかったから。
さて、そんな訳で一松はゆく当て無く電車に乗っていた。
そして思いの外皮膚の深いところまでささくれを剥いてしまった事を、少々後悔していた。
血が滲む傷口に、イヤホンから流れる軽快な音楽とは裏腹の憂鬱な気分に苛まれる。
一松が薄っすらと皮膚を濡らす血液の処置を考えていると、最近お気に入りのアーティストの歌声が急に途切れた。
代わりに車両内の喧騒が押し寄せる。
音楽プレイヤーの電池が切れたのかと思いポケットを弄ろうとするが、耳を塞ぐ感覚がなくなったので、イヤホンが耳から抜けたのだと気づいた。
一松は驚いて顔を上げると、クラスメイトのなまえが彼を見ていた。
「…え、みょうじさん?」
「一松くんこんな時間に電車に乗ってなにしてるの?」
見上げた彼女の右手には、さっきまで一松の耳を塞いでいた紫色のイヤホンがあった。
一松は状況が飲み込めなかったが、とにかく責められているような気がして言葉にならない謝罪を口の中で転がす。
一松はあげた視線をもう一度下に戻すと、自分の指と冬だというのにむき出しになったなまえの太ももを交互に見た。
学校の最寄り駅を過ぎれば、知り合いに会うことはないと彼は思っていたので、予想以上に動揺したようだ。
しかし、ふと彼女と同じ疑問が彼にも浮かんだ。
「みょうじさんも何で、電車に乗ってるの?」
既に最寄り駅は過ぎたのだ。
言わずもがな、彼の通う学校の人間が乗っていていいはずはない。
寝ていて乗り過ごしたか、彼と同じくサボることを目的としているはずだ。
なにも自分だけが気まずい気持ちになる必要ないと、やっと結論をだした一松はいつの間にか隣に座っている彼女の方をみた。
「えっと、人が、死んだから」
「は?」
気まずそうに視線を動かす彼女をみるに、その理由は随分罪悪感のあるもののようだ。
先ほどまではしっかり彼の顔を見ていた瞳は今はどこかそっぽを向いている。
スカートの裾をつまんだり、伸ばしたりしている様子はイタズラを白状する子どものようだった。
「遠い親戚が亡くなったの」
「…それで?今から葬式?」
彼女は首を横に振った。
否定の意味だ。
そういう意味であればこんな罪の意識は無いとばかりに。
「お母さんは、遠い親戚だしワザワザ行く必要は無いって言ったの。学校へ行きなさいって」
「でも、学校へは行ってない」
「先生には親戚が亡くなったから休むって言った」
「でも、親戚の葬式には行ってない」
「完全犯罪」
「でも、僕に声をかけた」
「共犯が欲しかったの」
イタズラっぽく笑うなまえは、一松が学校で良く見る彼女とは随分違って見えた。
綺麗に切り揃った毛先に、色を入れていない髪の毛。
化粧っ気はなく、制服もそこまで着崩していない。
どちらかと言えば真面目に分類されるなまえが、学校をサボるなんて一松は珍しいように思えた。
電車は彼女の躊躇う気持ちも気にせずに黙々と線路を走り、学校の最寄り駅を通り越して5駅目となっていた。
気が変わり今から引き返しても、遅刻は確実だった。
スクールバッグを膝に抱き、座席に腰を下ろしている彼女は今日学校にいくつもりなど無かったようだが。
「みょうじさん、真面目だと思ってた」
「真面目だよ?学校と家では」
サボったのだってこれが初めて、となまえは気恥ずかしそうに俯いた。
一松はそんな彼女をみて、学校をサボることは恥ずかしいことで罪悪感を感じるべきことなのか、と改めて自分の意識の低さを感じざるを得なかった。
確かに、親戚の死を利用して、と言えば聞こえは良くないが母親が別に行かなくていいと言うくらい遠い間柄なのだろう。
彼女は会ったことだって無いのかもしれない。
しかし、これがまともな人間の反応なのか、と一松は隣に座る彼女をまじまじと見た。
「でも今は学校にも家にもいないから、自由!」
「…そう」
「自由なので悪いこともできる」
「悪いこと?」
「例えば、その一松くんの痛そうなささくれをもっと剥くとか」
そう言ってなまえはニヤリと笑った。
一松は先ほど自分のささくれをちぎった瞬間を思い出し、首筋にひやりとしたものを感じた。
急いで外敵から身を守る亀のように、手を袖にしまい込む。
すると、慌てたようになまえは、血、血がついちゃうよ!っと騒ぎ立てるのだった。
なまえは先ほどから、一松の冬の乾燥を一身に受け散々荒れ果ててしまった指先が気になっていたようだ。
申し訳なさそうに苦笑したなまえは、嘘だよー、と慌ててカバンから小さなポーチを取り出す。
彼女のカバンから出てきた頭の悪そうなウサギが散らかったデザインが、一松には意外に思えた。
なまえは繊細な指先で、幼稚なポーチを開くと、そこからティッシュと絆創膏を出し一松を安心させるように目の前に掲げた。
なまえはすっかり引っ込んでしまった一松の手が出てくるように、袖口を引っ張り促すと怯えた手がおずおずと顔を出す。
深く傷つけてしまった指先を軽くティッシュで抑え、なまえは絆創膏を器用に巻きつけた。
男女で手を取り合っているような図がどこか気恥ずかしく一松は車内を見渡すが、下りの電車ということもあり、すっかりがらんどうだ。
利用者のいない錆色の座席が黙して並び、つり革が振動に揺れている。
高いビルが立ち並ぶ都会も抜けて、どこか寂しい住宅を望む線路を電車は、彼らのためだけに走っているのではないかと錯覚する。
「一松君って、ハンドクリームとか塗らないの?」
絆創膏を巻きつけたなまえは、小さなハサミで一松の硬くなり毛羽立った皮膚を丁寧に切っていた。
一松はいつもならば無理やり剥いてしまう其れは、こんな風に処理するものなんだとマメに動く刃先を見ながら答える。
「ベタベタするから好きじゃない」
「ささくれができるのと、ベタベタするのどっちがいいの」
「ささくれができる方」
「変なの」
呆れた表情で笑うと、なまえはポンポンと一松の手を軽く叩いて解放した。
施術は完了というところか。
一松は先ほどよりも整えられた手に視線を落とし、くぐもった歯切れの悪いありがとうを言った。
「なんか、慣れてるね」
「ネイリストになりたくて」
「意外」
「私もそう思う」
あっけらかんとしてそう言う彼女は、自分をよく客観視できているようだ。
一松の目の前にいるなまえはオフィスの一角で、OLをしている様子の方が思い描きやすい見た目をしていた。
彼の偏見に塗れた知識から言えば、ネイリストというのは派手な女の子が目指す職業という認識だ。
しかし、一松の荒れた手の上を軽やかに舞っていた彼女の爪は、少々長く形作られ、淡いピンク色のマニキュアが綺麗に塗ってある。
女性の指先のオシャレなど気にかけたことの無い一松ではあったが、単純に綺麗だという感想が思い浮かぶ。
些かこだわりを感じるそこには、手の届くささやかな存在証明があった。
「でもならない気がする」
なまえはツヤのある爪を撫でながら、困ったように笑い一松の顔を見る。
「なりたいと思ってるだけなの」
遠慮がちにその言葉をつぶやくなまえは、言わされているかのような不満げな表情だ。
物分りの良い大人のようなセリフも、稚拙な演技が台無しにしてしまっていた。
一松は彼女の言わんとしてることも、気持ちも受け止めるには自信がなく視線を車窓へ向けた。
「そういう事って、よくあると思うよ」
しかし流れる景色の中にも正解の答えなどなく、ただ一松は電車の音に掻き消されそうな言葉をぽつりと呟いただけだった。
中身の無い空っぽな言葉は彼女に聞こえたかどうかも分からないまま、ポイと線路に投げ出される。
しかし、夢だの何だの考える事は早々に諦めてしまった一松だったが、彼女の気持ちは痛いほどわかるような気がした。
身の丈、立場、高望みをしないこと、一松の分際で。
幾度となく理想を掲げようとする自分を、彼は痛めつけ押さえつけてきたのだ。
自分に多くを望まないことが、自分に失望しない方法だと知っていた。
指先以外は自由ではないなまえもきっと、自分という人間と希望の狭間で揺れ動いているのだ。
自ら線路に希望を置いて、電車に跡形もなく轢き殺してもらうのを待っている。
電車の走行音が、妙な静けさを生み出す。
お互い何か次につながる一言を今までの経験の中から探すのだが、見つからない。
彼らは自分たちが思うほど、何も経験していない事を改めて知るのだった。
明るい黄色い日差しが時間の感覚を無くし、二人はやけに長い沈黙の時間が続いたような気がしていた。
「ねぇ、この電車どこまで行くんだろう?」
黄色い光に包まれた車内の空気を先に震わせたのはなまえだ。
「高尾で乗り換えれば、長野まで行けるって」
「…長野」
「遠いね」
「一松君は長野行ったことある?」
「ないよ」
「私も無い」
かくして彼らは長野まで鈍行を乗り継ぎ、持て余した時間を使って向かったのだった。
向き合う気もない将来を案じるより、今は自由な身を存分に楽しみたかった。
心配ごとなんて、各駅において行けばいい。
所詮、帰りに拾って帰らなくてはならないのだから。
其の間、なまえの所在を知るのは一松だけで、一松の所在を知るのはなまえだけだ。
だからといって二人の間に特別な何かが生まれたかと言えば、そのようなことはなく。
お互いの印象が少し変わったという程度。
一松は意外と素直で、なまえは意外と子供っぽかった。
変わり映えのしない景色に少しだけ退屈し、肩を並べて少しだけ寝た。
やっと長野についたのは13時を過ぎた頃だ。
財布に小銭しか入っていなかった一松はその駅から出ることはできず、なまえに馬鹿にされながら戻りの電車に乗り込み二人の逃避行は終わりを告げた。
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次の日、学校で友人と話すなまえはいつもの真面目そうな女子生徒だ。
毛先は綺麗に切りそろえられ、色の入っていない髪色。
化粧っ気は無く、制服はあまり着崩していない。
しかしその指先は綺麗な淡いピンク色をした形の良い爪がある。
昨日丁寧そうに扱っていたその爪が彼女の本当の気持ちに色付いていることを、果たして友人や教師、更には両親は知っているのだろうか。
ふと、なまえの唯一の自由が軽やかにスマートフォンの画面上を踊り、一松のスマートフォンが震える。
『ちょっと、一松くん見過ぎ』
頭の悪そうなウサギが踊る変なスタンプと共に届いたメッセージに、一松は顔を真っ赤にして机に突っ伏した。
自由な彼女の威力たるや彼の想像を超えていた。
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