イチゲルゲ
事の発端は全て私のせいでした。もともと彼にその要素があったことを知っていて、細心の注意を払えなかった私の責任。まさかこんなことになるなんて、確かに想像はできなかったけれど、だからといって許されることではありません。彼に非は無かった。あるとすれば、少し自暴自棄になり易いところだけ。
けれど私の罪に比べれば大したことないではありませんか。
私はほとんど単語しか喋らなくなった一松君の口にゆっくりとフルーツ入りのヨーグルトを運びました。そのほとんどが咀嚼と共に床にぼたぼたとこぼれ落ちましたが、いつもの事なので気にしません。床に落ちカーペットにこびりついたヨーグルトの染みなんていつだって落とせますし、何ならカーペットごと買い換えれてしまえばいいのです。そんな些細なストレスよりも、目の前の紫色の体くねらす彼を大事にしたいといつでもそう思っていました。
どうやら彼は一番イチゴがお気に入りだったらしく、滅多に見せない笑顔をこの時ばかりは薄っすらと見せました。それが嬉しくて、愛しくて、少しばかり悲しくて、謝罪をするように私は彼の黄ばんだ頬を撫でると、同じように一松君も私の頭を撫でました。謝らなくていいよ彼は言っているのか、ただ私の真似をしただけなのか私にはわかりませんでしたが、心臓につながる一番大事な血管を摘ままれたように心が痛みました。
これが朝ではなく、この後仕事に行かなくていいのであれば、私は涙を零していたことでしょう。マスカラが落ちないように私は上を向いて涙を堪えました。私に泣く権利なんて無いのです。
上を向いた私をみて一松君は天井に何かあると思ったのでしょう。不思議そうに上を見上げています。そんな彼になんでも無いよとつぶやき、胸のところにある簡略化された松のような模様を撫でてあげると、こちらをみて食事を続けるのでした。
「美味しい?」
「オイシイ」
ボソボソとしてるくせに低くてどこか落ち着く彼の声は失われ、古びた紙をこするような声です。姿形何もかも変わってしまった一松君でしたが性格は以前より少しだけ素直になった気がします。本当で有れば彼の好きな手羽先や、家庭的な料理を作ってやり、二人で暖かい味噌汁をすするような朝を送りたいのですが、固形物を与えると緑色の液体に変えて戻してしまうので作ってあげられませんでした。栄養が足らないとも思ったのですが、どうやら彼の尻尾のように生えているUSBケーブルから給電することが主な彼の原動力のようで問題はありません。
いわば食事は嗜好品。なのに何故あげているのかと聞かれたらそれはただの私のエゴでした。一松君と食事をしたいという私のワガママです。一松君が手羽先が好きだと言ったから、美味しく作れるように練習をしていた矢先、それを食べてもらえなくなった女の気持ちを少しだけお察し頂きたい。嗜好品の摂取が終われば彼をUSBポートにつないでやり、朝のお世話はお終いです。
ともあれ、この事態を招いたのは私の軽率な行動のせいなのです。その話をしたからと言って許してもらえるとか、彼が元に戻るとかそんなことは決して無いのですが、それでも少しだけ聞いて頂きたいのです。
まず、今私と一松君は一緒の部屋で寝食を共にしていますが、決して恋人同士ではありません。しかし赤の他人、ただの友達とはまた違う恋人一歩手前の間柄でした。
馴れ初めを話し始めると長くなってしまうので簡略化しますが、仕事で疲れた私を何度も支えてくれたのが一松君でした。仕事で大失敗した日、情けないことに一人でシトシトと公園で泣いていた私に、えらくちゃらんぽらんに酔った彼が声をかけてきたのです。気持ち良く酔っていたのでしょう。上機嫌な彼は私の話を聞いてくれたのでした。人生の終わりのような顔をしてふさぎ込んでいた私に、「僕みたいなクズよりお姉さんは全然すごいと思うよ」と、支離滅裂でよくわからなかったのですが大まかにはそんな事を言ってくれました。思わず彼にたまりに溜まった心の暗雲をぶちまけ、一緒になって世の中への不平不満を吐き出しました。
見知らぬ男性に何故そこまで心を許せたのか。恐らくは彼の根底にある優しい部分がそうさせたのだと思います。
その後何度かその公園で会うようになって、彼が意外と繊細で素直で無く、自己嫌悪に囚われている人だと知りました。それでも、彼の声は私の心の水面にじんわりと暖かい波紋を残しました。つまり、彼に恋していたのです。恐らく、私の自意識過剰で無ければ私の事を好いていてくれていたと思います。そうで無ければ今、このような醜い姿になっていなかったでしょう。
そして、一松君への恋心に気づいた同時期、私は他の男性とも親しくしていました。こちらも恋仲では無かったのですが、何度か二人だけの食事に誘われ、彼の気持ちは目を瞑ろうとも感じ取れました。仕事場の先輩だったため断りにくかったという事もありましたが、彼が優しく紳士的、さらには仕事もできる男性だったという事もあり、好意的に二人きりで会っていました。
恥ずべきことに私は揺れ動いていたのです。
私もいたいけな少女ではありません。恋に恋して恋に生きる女の子ではいられなかったのです。一松君が定職についておらず、生きにくい性格をしていたこともあり彼との未来に一抹の不安がありました。
それに比べ会社の先輩は非の打ち所がないような人でした。同時に複数の男性から思いを寄せられたことなどなかった私は自分の気持ちを掴み損ねていました。
将来性を取るか、愛を取るか。
でも、私は決意しました。愛を、そう、一松君をとったのです。おこがましいとは思いますが、彼には私が必要だと思いました。そして私にも。一松君さえいれば、私の未来は幸せになるのではないかと、そう思えたのです。
そこで転機が訪れました。先輩が転勤することになったのです。それも海外に。それは前向きな転勤で、ようは出世コースの起動に乗ったということでしょう。私の勤める会社では海外転勤はエリート中のエリートが選ばれる喜ばしきポジションでした。
そのことが告げられた日、私は彼に食事に誘われました。直感的これは告白されるのだと思いました。しかしこのときには一松君への強い気持ちがあったので、これで最後にしようという決心をしてその誘いを受けました。
そして、思った通り素敵な食事の帰り際告白をされたのでした。正直、素敵な食事の後という事もありゆらぐものもありましたが、しっかりお断りさせてもらいました。それでも彼は紳士的に頷いてくれ、そして最後に少しだけ男性の顔になって最後にキスだけさせて欲しいと言ったのでした。これで君のことは忘れると。
そこで私が断ればよかったのですが余りに真剣な目をしているので、断り切れなかったのです。男性とキスするのは初めてではありません。だから、キスくらいならと思ってしまった自分を、今後これほど後悔するなんてその時は思っていませんでした。そして私は先輩とキスをしました。それほど長いキスでもなく、触れるだけのような。
ただ、その時一松君は運悪く見てしまったのでしょう。私と先輩がキスしているのを。
目の端に紫色のパーカーが移り、捉えた紫を追いかけるように視線を送るとその先には慌てるように逃げ去る一松君の背中がありました。
特徴的な背格好を見間違うはずもなく、逃げ去る彼が一松君だと確信しました。私は先輩との別れの挨拶も漫ろにその背中を無我夢中で追ったのでした。そして、良く彼と会っていた公園へ行ってみるとそこには変わり果てた彼の姿がありました。
紫色の芋虫のような大きな体。その上から彼の黄ばんだ顔が覗き、目は虚ろな桃色でした。頭から触覚のようにギョロギョロとした目が生え、ナメクジのようなフォルムに私は思わず口覆い、悲鳴にならない声をあげました。目の前で起こっていることが理解できず夢でも見ているのかと自分の頬を何度も叩きました。
しかし頬は赤く腫れるばかりで、目の前の一松君はいつもの猫背でだらしないパーカーを着た彼ではなくなっているのです。口から緑色の粘液を吐きながら、何語ともとれない言語を叫び続けるまさに怪物でした。
「い、一松…くん」
見てはいけないものを見てしまったと自分を思い込ませ、その場から立ち去ることもできたのですが、ぽっかりと浮き出た顔はよく見慣れた顔でした。どんな構造だか分からないにせよ、彼の抱える闇がそうさせたと考える以外納得させられる理由が思いつきませんでした。
一松君は重そうな体をくねらすと、私の方を向きました。驚いたような表情、もしかしたら私はこの化け物に殺されてしまうかもしれない。恐怖で体が硬直してしまい逃げることもできない私に彼はジリジリと近づいてきました。彼の手が私に伸びてきて、ひゅっと息を飲んだときその手は私の四肢を引きちぎるでもなく、ぽんと優しく頭に手を置きました。
「え?」
「なまえチャン…」
「一松、くん?」
「オシゴト、イイコイイコ」
しゃべりにくそうに、回らない舌で苦しそうに、一松君は私の事を慰めました。彼の不器用な手が頭を撫でるたび、私は自分が彼を壊してしまったことを強く感じました。
責め立ててくれでもすれば、その鋭い牙でこの身を引き裂いてくれでもすれば、その方が何倍も良かったでしょうか。何度名前を呼んでも、彼は虚ろな目で幸せなあの日しかみていませんでした。それは皮膚を引き裂くよりも酷なことでした。私は思いの外柔らかな一松君の体に抱きつき声をあげて泣きました。彼は何度も頭を撫でるのでした。
そして、私は彼と一緒に暮らすことになりました。まさか、得体の知れない姿になった一松君を放っておけないでしょう。
「じゃあ、一松君行ってくるね」
一松君との不思議な共同生活が始まりましたが、家の外では私はいつもと変わらない社会人です。朝は仕事に出かけて、夕方家に帰ってくる。変わったことと言えば、掃除用具が増えた事くらいです。
「イヤ、ダ、ボクモ、イキタイ」
「大丈夫。すぐ帰ってくるよ」
「ステナイデ…ステナイデ」
「捨てないよ。一松君大好きだよ」
「ステナイデ…」
不安そうにギョロギョロと瞳を動かし明らかに動揺している彼をどうにか宥めて私は毎朝でかけます。勿論、仕事中彼のことが気になって仕方がありませんが、彼と生きて行くためにもお金は必要でした。家に帰れば毎日片付けから始まります。何故なら不安にかられた一松君が発作のように暴れ回り、緑色の液体をそこら中に撒き散らすからです。
彼に回復の兆候は見られません。いつまでも、今を映さないピンクの目にあの日の光景を映し続けるのでしょう。一度火を通した卵が二度と生卵には戻らないように、あの日死んでしまった彼は、元の彼には戻らないのです。それでも私は彼と生きていきます。
それが私の誰からも許されない罪滅ぼしだからです。
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