鯉のぼり
立派で鮮やかな色をした鯉たちが、澄んだ水の中を悠々と泳ぐように空にたなびく。温泉街の中でも一番大きいのではないかと思われる鯉のぼりが高々と掲げられている旅館を目指して、みょうじは窓の外に望む風景を思い出していた。
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みょうじは小学生の頃体が弱くほとんどの時間を自分の部屋で過ごしていた。毎日ぼんやりしているうちに時が過ぎ、気付がつけば空はすっかり暗く、一日の移り変わりをしっかり刻んで過ごした記憶など無いに等しかった。この夕暮れは本当に今日の終わりなのか、ともすれば昨日の夜が今なお腰を据えているのだろうかと思ってしまう程判断に困ることさえあった。それほど彼女にとって一日とは曖昧で、切れ目のない一本の退屈な線のようなものに思えた。そんな彼女が今日と言う日を判断するのにはっきりとした指標になったのは、毎日誰かがポストに入れていく学校からのプリントであったり、5月になると窓から見える大きな鯉のぼりだけだった。真っ青な空に尾を大きく振りながらなびいている姿は、5月の朗らかな気候をより和やかな空気で包んだし彼女に勇気を与えてくれるものだ。男子の健康を願って掲げられるものであるが、それでも悠然とした様子を見ていると自分もその願いを御裾分けしてもらっている気がしていた。だから、彼女は5月になると普段滅多に開けない窓を開け、飽きることなく鯉のぼりを眺め続けた。
東堂は小学校の頃から一人の女の子に恋をしていた。彼女は体が弱いらしくほとんど学校に来ることはなかったし、会話したことなんて彼の覚えている限り一度もなかった。けれど家が近いという理由で毎日学校のプリントを彼女の家に届けいている時に、窓から見えた彼女の横顔に一目ぼれをして以来彼女を想い続けていた。白い絵の具を多く入れすぎてしまったのではないかと思われる白い肌は絹のようになめらかであったし、表情の見えない横顔は異国の人形を想い起こさせた。幾度となく二階の窓から見える彼女に声をかけようとしたが、彼は声をかけた途端消えてしまうのではないかという気持ちが邪魔をしてその一歩が踏み出せなかった。それだけ彼は彼女のことを白昼夢の一部だと思い込むくらい、幼心ながらに恋焦がれていたのだ。また彼女が何やら真剣に眺め、物思いに耽っている時間を邪魔したくなかったのだ。だから彼は精々毎日プリントをポストに入れ、たまに見つけた綺麗な石をいれ、折り紙を密やかなプレゼントとして忍ばせるくらいしか出来なかった。いつか自分の存在を気にかけて、空に向いている瞳をこちらに向けてくれることを願って。
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なぜもう一度ここへ来てあの時の鯉のぼりを見たいだなんて思ったのか、みょうじ自身明確な答えを持っているわけではなかった。小学3年生の夏、父の異動と同時に引越ししてから、この箱根へ来たことは今までなかった。しかしなんとなく小さい頃の持ちものを整理している際に、折り紙でおった小さな鯉のぼりが二匹出てきたのだ。最初はなぜこんなものが大切そうに箱にしまってあったのか思い出せないでいたが、ふと窓から見える鯉のぼりを思い出し、そして毎日ポストに入っていたプリントともに折り紙だとか綺麗な花などが添えられていたことを思い出した。あまり学校へ行かなかった彼女は、それを誰が入れてくれていた誰かにお礼をいうどころか、誰なのか判明する前に引っ越してしまった。その誰が、という事を今更知ろうというつもりはなかったが、なんとなくあの時見ていた立派な鯉のぼりをもう一度見たいと思ったのだった。そして、彼女は5月のこの季節。恐らく優雅にたなびいているであろうあの鯉のぼりを見に行こうとここへきたのだった。
目的の旅館に辿りつくと彼女は窓から見るより大きな鯉のぼりを見上げた。そして見つけ出した鯉のぼりの折り紙を2つ両手に持つと空を泳ぐ鯉のぼりに重ねてみる。なんとなくサインペンで書かれたウロコの模様がそっくりに見えたのだ。ざぁっと強い風が吹き鯉のぼりは大きく尾を振った。その姿は流れに逆らって川を登っているようで今なお彼女を励ましているようだった。
「…みょうじ、さん?」
突然名前を呼ばれてまさか自分のことではないと思いながらも、彼女はゆっくりと振り返った。振り返った先には見覚えのない整った顔をした自分と同じ歳くらいであろう、青年が夢でも見ているかのような顔をして立っていた。彼女は首を傾げる。あたりを見渡しても自分以外に人はいなかったし、呼ばれた名前は確かに自分のものだった。けれど彼女は驚きを隠せないといった風な表情をしている彼の事を知らなかった。
「えっと…ごめんなさい。どちらさまですか?」
「あぁ、そうだな俺の事を覚えている訳ないか。でも、確かにみょうじさんなんだな!?」
「えぇ、まぁ、そうですけど。」
東堂は彼女の姿を見て心臓が絞り上げられるような気持ちだった。束の間の休息に実家に帰ってきた彼は、幼い頃からお気に入りだった鯉のぼりをみようと外に出た時、彼女を見つけた。後ろ姿では彼女と分かる訳ではなかったが、彼女が両手に持ち空を泳ぐ鯉のぼりに重ね合わせるように掲げていたのを見て、確かに自分が作ったものだと思ったのだった。あの時空を写したように済んでいた瞳は最後までこちらを向くことはなかったけれど、確かに彼のプレゼントにはしっかりと視線が向けられていたのだ。そして、あれから数年たった今もそれを手にしているという事実が彼の気持ちを高揚させずにはいられなかった。そして彼女は白昼夢でもなんでも無く確かに存在していた。
「その鯉のぼり立派だろう?俺の家のものなんだぞ。」
「あ、すみませんお客さんでもないのに勝手に…」
「何、気にするな!そんなに鯉のぼりがみたいならよく見える部屋に案内しよう!」
そう言うと彼はか細い彼女の手を引いた。一瞬ためらったが彼女が消えてしまうことは勿論なかった。
「え、え、ちょっと待って!だ、誰なんですか?」
「誰でもいいではないか!今はそんなこと気にしなくてもいい!」
「いやいやいや、気にしますからー!!」
彼自身多少強引だという事は承知の上だった。けれど窓の中の世界を、あの時彼女の目には何が写っていたのか、やっと降りてきた彼女に聞きたいことが山ほどあるのだから手を離すつもりなんて当然ないのだった。
水の底から見上げるように
彼女の瞳には空でも見たことない風景でもなく、ちゃんと彼の気持ちが映ってた
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