世界の終わり
「あれって、隕石?」
桃のネクターを垂らしたようなとろりとした夕暮れ。雲の多い空はどこまでも淡い色彩で、青と薄桃色の境目を極限までになじませている。そんな秋の空を教室の窓から身を乗り出して、みょうじは惚けたように眺めていた。
みょうじが指差す先には米粒よりも小さな物体が、白い衣を引きずりながら空を縦方向に移動している。
窓際の席に座っている荒北は、彼女の指差す方を向く。哀愁さえ覚える涼しい風がみょうじの髪を揺らしたが、そこからでは窓枠に邪魔され何も見えなかった。弄んでいたペンを置き先ほどから進捗の見えないテキストを未練なく閉じ、荒北は席を立つ。
「ハァ?どれ?飛行機じゃねぇのォ?」
「えー?飛行機の形してないよ。」
かなり遠くにあるのだろう。
みょうじが隕石だと言い張る物体は細かい目盛りの定規を当てないと動いているとわからないくらいに、ゆっくりと進んでいた。それはまるで、行く手を邪魔する濃密な雲の切れ目を探しながら進んでるように見える。確かに肉眼では米粒にしか見えないそれを、荒北は目を細め正体を突き止めようとした。その米粒が隕石だろうと飛行機だろうと、別段彼が興味を示したわけではないが、課題のテキストを済ませるよりは興味があったのだ。
「アレが隕石だったらすげぇでかいな」
「どうして?」
「こんなにはっきり見えてるのに、進むの遅いじゃん」
ふむ、と納得したようにみょうじは頷いた。彼女は尚もゆっくりと足取り重そうに進む米粒に焦点を合わせる。荒北は隣の彼女を覗き込んだ。下唇を軽く噛みある一定の空中を眺めるのは彼女が何か考えている印だ。その考えていることの大半はろくでもないことなのだが、こんなにも分かりやすく考え込まれては内容がどうであろうと知りたくなってしまう。みょうじのつんとした鼻先から、柔く噛み潰された唇までの曲線を視線でなぞっていると、閉じられていた口がぱかっと開く。
「じゃあアレが落ちたら大変!」
「アルマゲドンだネェ」
「地球滅亡の危機!」
「俺ら大発見だナ」
「NASAに連絡を」
「英語できないヨ」
「電話番号も分からない」
もうダメだ、と顔を手で覆いみょうじは天を仰いだ。それでも空を横切る物体はゆっくりと進んでいく。たっぷり5秒ほどそのポーズを保った彼女は指の間からちらりと荒北を覗き見た。いつも忙しく喋る彼が、今日は随分静かに感じたのだ。指の間から見える荒北は窓枠に手をかけ興味があるのか無いのかどちらともつかない表情をして、空を眺めていた。なんだかこの沈黙が落ち着かなく、彼女は顔にあてがった手を髪を撫でつけながら下ろした。何か喋らなくては、と毛先を弄ぶ彼女は何かひらめいたのだろう、荒北の方を勢い良く振り向いた。
「じゃあカラオケ行こう」
「ハァ?」
「もし今日が世界の終わりならやりたいことしなくちゃ」
「カラオケでいいのかヨ」
「今はそれしか思いつかない」
「もっとあるんじゃナァイ?」
「じゃあ荒北は何があるの?」
不服げに眉をひそめるみょうじの問いかけに、荒北はぐっと喉の奥を鳴らし黙り込んだ。人のことをとやかく言うのは簡単だったが、自分のこととなるとまた違ってくる。荒北は眉根を寄せて、禍々しいものでも見るかのように空に爪痕を残す白い物体をにらんだ。(それが本当に世界を滅亡させる隕石なら正しい反応かもしれない)重たく閉じられてしまった荒北の大きな口が開くのを彼女は待った。たまに何か言いかけるのか口をむず痒そうに動かす彼を急かす事無く待った。幾分かせっかちな彼女だったが、言葉に詰まる荒北が何だが珍しかったし、世界が終わるならこんな時間も肯定的に思えた。
「…アキチャンに会いに行くかナァ」
「あ!私も会いたい!」
パンっと手を打ち鳴らしながら、みょうじは跳ねる。いつも話と写真でみたことのあるアキチャンに以前からあって見たいと思っていたのだ。それなら早くと、せっかちな彼女はまだ見ぬ荒北家に思いを馳せながら荷物をまとめ始める。荒北の愛犬にあって散々遊んだ後はカラオケだと、受験を控える身だとはまるで思っていない計画を彼女は目論んでいた。しかし、愛犬に会いたいと言った等の本人はまだ物足りなそうな顔をして空を見ている。荒北を急かそうと彼女が声をかけようとした時、口の端からこっそりと零すように荒北は口を開く。
「…あとみょうじに好きって言わないとナァ」
「?」
気づかなければそれで良い、と言ったような口ぶりだったがみょうじと二人きりしかいない静かな教室ではそうもいかなかった。彼女は予想もしていない、それこそ突然の告白にぽかんと彼女は口を開けた。しばらくしてやっと彼女は言葉の意味を消化したらしい。空を眺めていたはずの彼の方を振り向く。荒北はすっかりそっぽを向いていた。短い髪から覗く耳が赤く色づいているのは夕暮れのせいでもなさそうだ。
「あら「ほら、カラオケ行くヨ!あとアキチャンにも会いにいく!」
こちらの方を向かないまま、荒北は無造作に通学カバンに課題を入れると教室の扉に向かって歩き出した。あれではテキストの角が折れてしまうだろうな、と考えていたみょうじははまだその状況をうまく飲み込めていないらしい。証拠にその場に足が張り付いてしまったように彼女は立っている。
「早く行くヨ!今日で世界が終わっちゃうんでしょォ!?」
振り返った荒北はやっぱり夕暮れのせいではなく真っ赤だ。元から声量は多い方だが、意識して大きくした声がわざとらしい。慌てたように彼を追いかけたみょうじだったが、世界が終わる今日という日を愛せずにはいられなかった。そしてやっぱり、あれは隕石じゃなくて飛行機だったのだと思い直した。だってまだ世界は終わらない方がいい。
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