プロローグ
温室育ち…大事に育てられて、世間の苦労を知らないこと(明鏡国語辞典より)
***
総北高校1年みょうじなまえは、粘着質な道を通っているのではないかと言うほど重たくなったペダルに、自分の全体重を預けながら前に進んでいた。千葉県立総北高校は小高い山の上にあるため、正門までに緩やかではあるが長い坂道が続いている。正門までの坂通称正門坂と呼ばれる坂は、裏門のまでの坂通称裏門坂に比べ大分緩やかである。しかし、緩やかといえども坂は坂。登れば登るほど彼女は体力を消費していき、もうすぐで正門というところに差し掛かると、疲れて足を付いてしまう。大半の生徒はそのためかバスで通ったり、坂に差し掛かると自転車を降りて押しながら正門まで行く。しかし、負けず嫌いな気質がある彼女はどうにもこれが気に食わないらしく、歯を食いしばりながら必死に降りまいとペダルを回していた。もちろん、彼女のように自転車で登ろうとする生徒がいないわけでもないし、男子であれば登りきることができるだろう。スイスイ平坦を進むように、というのは難しいわけだが。
みょうじは今日こそとは、とばかりに力をいれて登っていた。入学式から1週間ほどたちクラスにも慣れ友達も何人かできた頃ではあるが、一向にこの坂には慣れない。7度目の正直とばかりに気合を入れるが、さすがに7日通ったくらいで足の筋肉が著しい変化を見せる訳もない。もうすぐで正門が見えるか見えないかのところで彼女はほとんど限界を迎えていた。隣を歩く学生の方がまだ速いのではないかと思うほどゆっくりと、ふらつきながら登る。自転車に乗っているのに徒歩の生徒よりも遅いとはなんたるか、と自分に喝をいれるがふらつきは大きくなり車体が傾く。思わず倒れないように左足がペダルから降り地面に足をつけてしまったところで、今日の正門坂への挑戦は終わりを迎えた。あぁ、今日も登りきらなかった。自転車をこぐことに夢中になり、止めていた息を盛大に吐き出す。中学時代運動部に入っていない彼女だったから、体力というものはそれほど持ち合わせていない。しかしそんなことは言い訳にならないと、いかにも残念というような顔をして自転車から降りた時、彼女の横を緑色の風が通り抜けた。
サドルに優雅に腰を下ろして坂の最後を上りきった姿を見て、彼女は一瞬原付のバイクに乗った生徒が通り過ぎたのかと思った。しかし、白い車体に見慣れない細いタイヤのそれは、間違いなく自転車だった。男子でさえ汗をかきながら立ちこぎでフィニッシュする坂の最後の距離を、白い自転車に乗った緑色の髪をした彼は平坦な道を走るように走り抜けた。呆気にとられた彼女は、自転車から降り押しながら前に進むことも忘れサドルに腰をかけたまま、ぼんやりとその背中を見送った。一瞬ではあったが横を走り抜ける時に見た横顔は、疲労に歪むでもなく、高性能なスポーツ自転車に乗り得意げな顔をするでもなく、ここが坂だということを忘れさせるような飄々とした表情をしていた。光の加減によって色を変える不思議な色をした髪は、そんな表情を隠すように少し長めであった。何故だが、彼女は彼が通りすぎる一瞬をまるで録画でもしたように何度も再生することができた。そして3度目の再生が終わったところで、散った桜の花弁が舞い上がるほどの風が体を通り抜けるのを感じた。頬が熱くなり、手が震える。心臓がやっと物事を把握したように早く短く脈を打ち始める。
まさに、一目惚れだった。
温室育ちプロローグ
この恋ぬくぬく温めていこうよ
- 22 -