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急に押し黙ってしまった隣に座るみょうじの存在を感じながら、彼女も昔のことを思い出しているのだろうと、彼は当たり前のようにそう思った。ジャングルジムの上から見える視界は、夜であろうとほとんど変わっていない。身長が伸びたことにより、見下ろす角度が変わっただけで記憶と相違はなかった。そして隣に座る彼女の姿はあの頃から大分変わっているが、空白を埋めあった彼女の気配というものは何年たっても変わらないらしい。記憶の中の彼女の影と現在の彼女の気配は、全く同じ遺伝子を重ねるようにぴたりと一致していた。
夏の終わりを感じさせない熱い風が通り抜け、葉が擦れ合うセミのさざめきのような音が公園に響いた。あの時のように音のカーテンに囲まれて、小さな公園は世界の全てとなる。夜ということを除けば、当時と変わらない状況に彼女も思い出さずにはいられないだろうと彼は思ったのだ。
「なんか、すっごいセンチメンタルな気分」
「は? 何言ってんの?」
幼い記憶を掘り起こした彼は、彼女が言わんとしていることも、昨日彼女に感じた安堵感の理由もわかっていたが、あえて気づかないふりをした。
「子供の頃こうやってさ、ジャングルジムの上で遊んでなかった?」
「そうだったけぇ?」
「ちっとも覚えてない?」
「……実は少し覚えてる」
頬をかきながら荒北はうつむきがちに、みょうじを見た。昨日から彼女に抱いていた疑問の答えには、ゆっくり腰を据える心地の良い納得があった。みょうじは空白だった荒北を知っている。そして、逆も然り。空っぽの自分に対する腹立たしさも、虚しさも、恥ずかしさも、彼女の前では通用しない。なぜなら、彼女はそんな彼を十分に見ていて、そして受け入れていた。
「なんで嘘ついたし」
「うっせーな! 昔の話とかハズイじゃん」
確かに、彼女はその時彼と同じく幼かった。自分が何者であるか分からないことに恐怖すら感じず、そして何者でもない荒北を訳も分からず受け入れていただけかもしれない。
しかし、彼にとってそれはさして重要な問題ではなかった。彼女が過去に空っぽだった自分を受け入れていたという事実だけでも、怯える彼を落ち着かせるには十分だったのだ。
「そう? そんな変わってるような気はしないけど」
昔の自分と変わらない。そう言われることに羞恥心を覚える反面、彼女の隣では無色透明でいられることに彼は安心感を抱いた。野球部の荒北靖友でもなく、自転車部の荒北靖友でもない。彼は何でもない自分を抱きしめてくれる響きを、彼女の言った「おかえり」という言葉に微かながら感じ取った。
「そういうおめぇもな」
ニヒルに笑いかける荒北に、みょうじは「心外!」と頬を膨らませた。
「ところで、靖友くんは、学校で何してるの?」
「今更じゃん」
「昨日は猫のことに必死で忘れてた」
「しんが〜い」
先ほどのみょうじをマネするように、少し高めの声。みょうじは「そういうのいいから」と口をとがらせる。幼いころにもそんな表情をよくしていたような気がして、荒北は小さく笑った。
「何って……部活やったり?」
「部活? なんの?」
「あー……自転車やってんだヨ」
「自転車?」
彼女は何か考える時、黒目が上を向く癖がある。引っかかることがあるのかきょろっと上を向くと、何か思い出したように頷いた。概ね、昨日の空気抵抗の件だろう。
「水色の速そうな自転車」
「そうそれ」
「靖友くん運動神経いいから何でもできそうだよね」
「まぁネ」
彼がニヤリとするのを見て、彼女は呆れたように笑う。彼が自信の出処を説明する気がないと分かると、彼女は諦めたのか、もう一度上を見た。荒北が水色の自転車で風切っているところを想像しているのだろう。
彼は彼女の頭の上に吹き出しがあり、想像している事柄が映像として映し出されているのではないかと思った。彼女の頭上に視線を移す。もちろん映像は映し出されていなかったが、その表情から恐ろしく間違った想像をしていないことが見て取れた。
国道を走るロードレーサーを荒北も時たま見かける。彼女も一度は見たことがあるのだろう。想像に容易かったらしく、すぐに上を向いた瞳は彼の方に向けられた。
「大会とかあるの?」
「部活なんだし、普通あるだろ。インターハイもあるし、それとは別に近々レースがある」
彼女は感心したように声を上げ、どこか色づいた表情で彼への質問を重ねた。彼は彼女の質問にできるだけ正確に、少しばかり自分がかっこよくなるように答えた。
練習が如何に大変か、部員の話、ここ最近レースで一位を取った話。彼はいつにも増して饒舌に喋る。みょうじは時折考え込むような表情をしたが、嬉しそうに話を聴いてくれるものだからついつい喋りすぎているようだ。ただ、彼女がとても興味を示した自転車競技部に入ったきっかけというものは、些か話にくい部分もありロードレースに興味を持つ模範解答のような偽りの返答をしたのだが。
「みょうじは何やってんのォ?」
それは社交辞令ではなく、自然と荒北の口からこぼれた。普段他人の事情なんかほとんど気にしない彼は、自分自身信じられないとばかりに眉根を寄せた。
「私? 私かぁ……」
すると彼女は気まずそうに首をかしげ、公園の端にぽつりと立つ簡素で錆び付いた時計をチラッとみた。時刻は二十二時を過ぎたところだった。時間は気にしていなかった荒北だったが、まさかそんなにも時間がたっているとは思わずその時計の針がしっかり動いているのか目を細めてみる。熱い風が公園に流れ、シンプルなよくある錆び付いた時計は彼の予想に反して、その長い針の歩を一歩進めた。
「あ、もうこんな時間になっちゃった。帰らなきゃ」
どこか芝居がかった声色で、彼女はジャングルジムを降り始める。あの幼い頃もいつも帰りを告げるのは、みょうじの方だったなと慎重に降りている彼女を見ながら彼は思う。
「もう帰んの?」
「明日早いんだ」
幼い記憶と彼女が重なる。ただ、どこか小さな違いを彼の敏感な鼻をくすぐった。あの時のさよならとは違う何かを。
「猫、来なくて残念だったね」
ジャングルジムの上に座る彼を見上げながら寂しそうに彼女はそういうと、小さく手を振った。その仕草も表情も懐かしかったが、やはりどこか違和感がある。胸が詰まるようなノスタルジアに染まった空気に、何か焦りのような冷たさを感じる。行動こそ悠然としていたが、何かから逃げるようなピリッとした肌触り。彼は身軽にジャングルジムから降りると、今にも帰ろうとする彼女の手首を掴んだ。
「待って。俺も一緒に帰るから」
「え……」
みょうじは荒北につかまれた手首を見下ろして、戸惑ったように、幾度か瞳をしばたく。彼も同じく、掴んだ細い手首に視線を落とし、慌てて手を離した。
「ところでさ、明後日、関内の方で祭りあるんだって?」
誤魔化すように、今日食卓での話題の中心にあった祭りの話を出すと、みょうじの固くなった表情が和らいだ。そういえば、彼女はお祭りの雰囲気が好きだったはずだ。金魚のしっぽのようなひらひらした兵児帯の浴衣を着た彼女が、はしゃぎながら両親と出かける瞬間を覚えている。
「うん、そうみたいね。今年は行く予定なかったけど」
「そしたらさ、まだ親帰ってこないんでしょ? 夜遊び、しない?」
彼の誘いに彼女の表情はさらに華やいだ。
「靖友君、不良になったね」
「っせ」
彼女は「楽しみ」と、少しだけ大きな声を出した。
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