その建物を前にすれば、自然に「わあ」とため息にも似た声が喉からすべり出た。
 ツイステッドワンダーランドには多くの魔法士養成施設があり、当然そこには名門と称される学校もある。クロエの入学した女学院も名門には違いないが、やはりトップクラスの名をほしいままにする三大名門の一角を眼前に控えると、なにか圧倒されるものがあった。
 グレート・セブンのようなすぐれた魔法士を目指す者ならば誰もが一度は憧れる場所だ。十月も半ばの頃合、この名門の図書館にのみ収められた魔法学資料集を借りるために、クロエはナイトレイブンカレッジの荘厳な門をくぐった。歴史ある学校で、随所に見られる古い煉瓦造りがかえってその貫禄を誇示している。クロエが訪れたのは放課後とはいえ、メインストリートの人出はそれなりに多く、そんな中を他校の制服を着た女が歩くのは少し異質のようだ。すれ違えば奇異の目を向けられるのも致し方ない仕儀とはいえ、いたたまれなかった。
 カレッジの蔵書には興味があったが、もし図書館に入ってもこの調子が続くならば、すぐに用を済ませて帰ってしまおう。そんなふうに考えて、クロエは思いなしか早足で図書館を目指した。

「あっ、すみません」

 その足取りが崩れたのは図書館の入口をくぐった矢先である。周囲への注意が疎かになっていたらしく、その場に立つ生徒にぶつかりそうになったので、思わずクロエは立ち止まった。驚いた拍子につま先から視線がのぼって、ちょうど相手をつぶさに見るかたちになる。

「いえ、俺のほうこそ……」

 ゆるりと顔を上げた彼に、どこか見覚えがあると感じた。異国の肌の色と涼しげな面立ちに、夜の川にも似たしなやかな黒髪。赤い羽根と宝石をあしらった髪飾りは、いつかの露天商が母に売り込んでいた砂漠の魔術師ゆかりのお守りだ。青色混じりのグラデーションが鮮やかで美しく、ただ赤く着色しただけのレプリカとはひと味もふた味も異なる本物。つまり、上等の品。ひと目で熱砂の国の出身、それも良家の出だと想像がつく。そこでクロエにはひとつ心当たりが浮かんだ。

「もしかして、あなたとお会いしたことがありますか」
「悪いが、異国の女に知り合いは──いや、待て」

 案外な言葉を向けられたジャミルは、怪訝な顔をしつつも記憶を探る。はじめ、見知らぬ女にかまけている暇はないと思ったのだが、その顔に見覚えがあって、どうしても思い出さねばならないような気がしたのだ。
 なにしろ国を出たのは今年が初めてで、可能性自体が限られていたため、その風貌を見れば必然と思い出された。

「クロエ──で、合っているか?」

 もとより記憶力のよいジャミルにとって、その異国情緒の響きは殊に忘れがたかった。名を呼べば、彼女はその目を細めて頷く。

「ごめんなさい、名前を知っていたらよかったのだけど」
「いや、構わない。ジャミルだ」
「ジャミルくん……」

 正直、名前を呼ばれる日が来ようとは思っていなかった。たたでさえたった数日の仲で、遠い国の人間だ。加えてジャミルは根拠のない縁を信じるような性質ではない。
 たしかに彼女は、ジャミルの十六年の人生を辿ってみてもパッと輝く異質な色を持っている。しかし所詮は思い出の中に宿る美化された映像に過ぎないのだ。そうは思いつつも、彼女を前にすると昔のようになにか落ち着く感じがして不思議だった。

「ジャミルくんは図書館になにかご用?」
「ああ、レポートで使う文献を見繕おうと思ったんだが」
「うん」
「……外国の本の探しかたは知らなくて」
「確かに、コツが違いますものね」

 資料探しそのものが初めてというわけではない。それでもナイトレイブンカレッジほどの蔵書数、それも世界中 から集まったさまざまな言語の本があるのだから慣れるまでは難儀するのが道理だ。ミドルスクールのころを思い出してクロエはうなずき、そうして次に「それなら一緒に探しましょうか」と切り出す。
 それがあまりに自然な成り行きなので、きっと他人への気遣いに慣れているのだろうと思った。ジャミルは一度断りの文句を考えかけて、途中でやめた。知らないことはさっさと教わってしまったほうが早いと判断したのだ。

「悪いな、助かるよ」

■ ■ ■


 人目を気にする必要もないような、壮大とも言うべき広さだ。天井に届かんばかりの高い本棚と淀んだ紙のにおいが静粛に空間を満たすなかで、わずかな話し声だけが鼓膜を震わせている。

「その服装、近くの女子校のだろ。名門だな」
「そうは言っても、ジャミルくんなんてナイトレイブンカレッジに選ばれているでしょう」
「いや、身に余るよ。じきに主が編入してくるから、俺はその世話に来たようなものだ」

 選ばれたのは紛れもない事実で実力だという自負がジャミルにはある。けれどすっかり板についた心にもない謙遜癖が即座に否定の言葉を選ばせた。それを聞いてクロエは「なあんだ」と軽妙な感じで肩を落とす。
 その表面的な反応自体は見慣れたものだった。不出来を装い相手の心に生まれた侮り。それを見るのはいつだって腹立たしい。しかし彼女のは落胆や侮りと一概に決めつけるには何かが違うような気がして、ジャミルは無意識のうちに黙って返事を待った。

「いまはお仕事中なのですね」
「……間違いではないが」
「妙に愛想がいいのはそういうこと。なんだか緊張しました」

 クロエはただ息をつくように一言、視線を本棚からこちらへ動かして恥じたように笑う。家柄ゆえに叩き込まれ癖になっているのだろう、育ちのよい表情の動きで、それが熱砂で話したころよりずいぶん堂に入っている。
 ふと、こんな話が思い出された。数年前、アジームの屋敷に飾ってはどうかと絵を売りに来た行商人がいた。額縁のなかで、花に囲まれた白肌の女性がやさしく微笑んでいる──所謂美人画である。なんでも世界を旅した熱砂の画家が、王国の様式に感銘を受けて描いたもので、伝統的な熱砂の技法と異国風の筆運びがちょうどよい塩梅に組み合わさった唯一無二の逸品なのだとか。交通手段の発達した現代を生きる自分にとっては、その画風にさしたる目新しさは感じられないが、当時は強いセンセーションを巻き起こし、絵画における異文化融合の草分けになったのだという。
 なんとしてでも売りつけたかったのか、商人の男はほかにも滔々と絵の価値を説明していたが、もとより美術品のたぐいは間に合っていたし、なによりあの絵は贋作だった。
 「真作は焼失したはずだし、表情がいびつすぎる」というのは、すっかり審美眼の磨き上げられたアジーム家当主の言である。クロエの頬に浮かぶ微笑を見ていると、あの絵の真作がもし現存していたならばきっとこんな表情だろうか、などと思った。そんな考えが浮かぶほど、作り上げられた乙女らしさがあった。そのなかで瞳だけが、眩しすぎない独特の輝きでもってジャミルを映している。

「私には入れない場所なんだから、少なくとも私よりは優秀ってことで」
「女性が入れないのは当然だろう」
「でも、あなたの主を知らないのに比較はできないよ」

 他人をよく見る女だ。昔の言に即すならば、うわべの決めつけを疎むせいか、はたまた癖か。とにかく周りに囚われずおのれの目でしかと見ようという光が淡く宿っているのだ。そこには身分も権力も干渉しえない。体裁のために善意を切り売りし続けた彼女の、絶対に変わらないところ。ゆえに無意識のうちに安堵感を覚えて、ジャミルはその目付きを漠然と好ましく思った。

「君は、なんというか。変わらないな」
「……そうかな」
「俺の考えだ」

 ジャミルが片眉を上げて言えばクロエはちょっとたじろいだように下を向いて、次に顔を上げたときにはもとの表情に戻っていた。

「ジャミルくんもね」
「そうか?」
「私の見解です」

 こう結んで、クロエは数メートルばかり向こうの本棚を指差す。見れば魔法陣の資料集が一面に並び、レポートを書くには十分といった感じであった。

「ああ、これなら大丈夫そうだ」
「よろしゅうございました。それじゃあ私はこれで」
「君もなにか探しに来たんじゃないのか?」
「いえ、私のは閉架書庫の本なので。司書さんに出してもらうだけですから」
「それは悪かったな。手間だったろう」
「まさか! ジャミルくんとお話出来てよかったです」

 軽やかに踵を返せば初々しく長いスカートがこちらを一瞥するように翻って、空気を含みながら戻っていく。ナイトレイブンカレッジと交流の多い、私立女学院の正装だ。掛け値なしに彼女によく似合っていると思った。
 クロエという女の前ではただひとりの人間として有れる、そのことが己のかさついた意識をこの上なく静かたらしめて、足をなくしたような気持ちで「また」と彼女を見送る。
 自分はきっと、彼女のなかに、知るよしもない自由の面影を見ているのだ。

不可視の薄らい⑴