昔、ジャミルとマンカラ勝負をしたことがある。彼のいる路地裏へ足繁く通うようになって数日、主人にわざと負けているのだと言うから、勝ち数を意図的に操作できるなら本当はどれほど強いのかと興味が起こったのだ。
 ルールも何も知らない異国の遊びだが、クロエにはそれなりの自負があった。ひとつは覚えの早さ、ふたつは場の観察力。頭の出来が特別いいとは思わないし、むしろそのせいで培われたものとも言えよう。暗記は才能が要らないから都合がよく、己の不出来を隠すべくひとの顔色を窺ううちに周囲がよく見えるようになった。それがボードゲームにおいてはなにかとうまく作用するらしく、使用人と遊ぶといつもまずまずの勝率であった。

「それ、俺みたいに勝ちをゆずっているんじゃないのか」

 と、石を移動させながらジャミル。

「んー……たぶんちがうんじゃないかな」
「なんでそう思うんだ」
「私、養子なんですもの」

 その答えにジャミルは少なからず驚いたようで、当惑の眉を寄せながら、一拍置いて「そうなのか」と聞く。「そうなんです」。ふいに聞こえた使用人や親の内緒話によれば、以前いた実娘は病気かなにかで夭折して、そのお嬢さんに似た養子を探した結果クロエが選ばれたのだと。よほど前の娘が大切だったのか、親はずいぶんよくしてくれるが、その使用人までがぽっと出の養子に気を遣わねばならないほどの厳しさはないはずだ。熱砂の外を見たことのないジャミルにしてみれば、異様な話であった。

「きみは代わりってことか」
「あけすけに言えばね」
「ふうん……あ、俺の勝ち」

 見れば相手陣地の石はいつの間にやら全てなくなっている。あっけない敗北だ。それでもただ純粋に勝負をするのが楽しいのか、ジャミルは満足げに口角の天秤を釣り合わせている。こんな調子で何回か遊んだものの、すっかりルールに慣れたクロエもとうとうジャミルに勝てずじまいであった。

「ほんとうに強いんですね」
「あたりまえだろ。俺、こういうの得意なんだ」

 ジャミルは躊躇いなく自信の色を現した。挑むような感じの、いかにも得意そうな顔つきには確かな自負と自尊心が垣間見える。それがクロエにとってどれだけ頼もしく好ましかったことだろう。
 実を言うと、クロエは少し諦めていたのだ。やさしい両親は、自分を愛しているつもりでいて、つねに自分の先に知らない誰かを見ているし、一人娘の肩書きを背負って引き取られたぶんの期待は重かった。つとめて利口でなければならず、本当の自分なんて誰も必要としていないようであったから、いっそ忘れたほうが気楽なのではないかと思っていた。
 それがジャミルはどうだろうか。いつも隠しているはずの自分を手放そうなどとは些かも考えていないふうである。その自信が、今になって思うことには羨ましかったのだ。当人にそんなつもりはなくとも、彼を見ていると、ただ自分のために自分であればいいのだと思えたから。

「……あなたは、チェスも得意そう」
「チェス?」
「コマをうごかすボードゲーム。それぞれに役割があって覚えるのがたいへんだけどね、おもしろいよ」
「もってるのか」
「おうちにはあるけど、ここにはもってきてないなあ」

 「あ、そう」少し惜しそうに返事して、ジャミルは日陰から出た。日の高さを見るに、御殿に戻る時間だからだ。

「あした国にかえるんだろ」
「そうだよ」
「じゃあな」
「ええ、さようなら」

 グレート・セブンゆかりの旅も熱砂の国が最後だ。この挨拶はクロエにとって己との訣別でもあった。自分を捨てないまま奥底にしまい込んで、きっと変わらず忘れないでいよう──そんな決意の日だった。

■ ■ ■


「変わらないな」

 ゆえに再会の日のジャミルの言葉は、匕首あいくちのごとき力でもってクロエの心を占拠した。変わらないでよかったという思いがぬるま湯のように湧いた。そうしてやはり、自分が抱いた憧憬の光は本物だと解を得た。
 以来、特別というほどではないがジャミルとクロエはそれなりに話すようになった。彼はクロエにしては珍しくあまり取り繕わないで話せる相手で、合同講義で目が合えば手を振り、近い席が空いていれば座り、図書館で勉強を教わるくらいの差し支えない親しさでもって接していたのだが、そのあいだ偶然にも、二ヶ月遅れで編入してきたというジャミルの主とは一度も会わなかった。
 そんな付き合いが続いて夏も始まろうかという時分のある日、交流学習会が予定よりも早く終わって、部活生たちがそそくさと教室を去るなかでクロエは偶さか発表物の片付けを引き受けた。天気が蒸し暑くて、さして仲良くもない学友と集まって歩いていくのが億劫だったからだ。

「なあ、そのへんの机にオレのノート入ってないか?」

 ひとりでいると、窓から窓へ抜けゆく風が凌ぎよかった。そうして広くて静かな講堂で作業をするうち、ふと聞きなれない声がクロエを呼んだ。振り返れば白髪の少年が立っている。

「忘れ物はここにまとめてあるけれど。よろしければ探しましょうか」
「いいのか? わりいな、邪魔して」
「とんでもない。それで、あなたのお名前は?」
「おう! カリム・アルアジームだ」
「カリムくんですね。Cですか、それともK?」
「K! あと、AlとAsimのあいだに横棒が入るから、あんまり見ない綴りだし見つけやすいと思うぜ」

 彼は肌が浅黒く、細部まで凝った装飾品はどれも高価そうだ。名前の響きも相まって、なんとなくジャミルの故郷──熱砂の国が思い出された。ところで、カリムという名には聞き覚えがありはしないか。それこそ昔、旅していたときに。

「おい、カリム。急に引き返してどうしたんだよ」

 あれこれ考えながら手を動かしていると、まさに今想起した男の声で、その名の呼ばれるのが聞こえた。そうして数拍遅れでこちらに向かうジャミルを見れば、すぐに腑に落ちる。きっと彼がアジーム家の跡取りで、ジャミルの主なのだ。

「ジャミルくん。ご主人がノートを忘れたんですって」
「全く、そのくらいちゃんと確認を……って、クロエ」
「お?なんだ、ふたりは知り合いなのか?」
「まあ、そんなところだ」

 ふたりを交互に見るカリムに対して、ジャミルはなにか都合悪げな顔に見える。それがいかにも早く立ち去りたいという感じで、どういうわけかはクロエにも察しかねるが、とにかくカリムの探し物を見つけだしたほうがよいと思った。

「ああ、ありましたよ。名前が書いてあります」
「悪い悪い! 助かったよ」
「お気になさらず」
「見つかったならさっさと帰るぞ、カリム」
「待てよ、片付けならオレらも手伝うぜ」

 ジャミルはさりげなく肩を竦め、これは断りかねると思ったのか、はたまた予想された言葉だったのか「そうだな」と返事をする。

「時間は大丈夫なの?」
「気にしなくていいさ、君ひとりじゃ骨が折れるだろう」
「なあ、これはどこにしまったらいいんだ?」
「あ、それは手前の棚です」

 渋々といった顔をしていたわりに、なにか予定があるわけでも、クロエを避けたいというわけでもないらしい。それならば先ほどのは何かと疑問が湧かないでもなかったが、かといって問いただすほどの好奇心もなかった。
 三人の片付けが始まればそこからは流れが早い。スクリーンをしまって、資料を整理して、小道具を元の場所に戻し、三十分はかかると思われた作業がみるみるうちに進んでいく。

「あなたの主を初めて見ました」
「ああ、言われてみればそうだな」
「社交上手な方ですね」

 いままでカリムに関してはジャミルの話を聞くだけであったが、今日その姿を見たクロエの思うことには、人好きしそうで印象のよい人物だった。快活で寛大で、まさに商家の血と呼ぶに相応しい。ある意味ではジャミルと対照的だ。天秤の両方に別々の重いものを乗っけて釣り合いを保っている感じ。
 こんな具合でクロエが初めて会う相手の人となりを観察するのは、けっして相手が好きか嫌いか決めようという意図からではない。その人を前にしたとき、良家の令嬢として最も印象よく見えるよう振る舞いを考えねばならないからである。
 再会から一年弱も経てば、ジャミルもその癖が何となく分かってきて、今の彼女の呟きはその思考のほんの一端であろうと思った。そうしてふと、彼女の見た自分はどのようであったのかと、今になって興味が起こった。

「俺は──」
「なあに?」
「……いや、なんでもない」

 「俺のことは、はじめにどう思ったのか」そう聞こうとして思いとどまった。妙なじれったさに駆り立てられたような気がして、これまで意識もしなかったことがらを今更疑問に思ったのが不可解だったのだ。自分でも不確かなことを軽率に口にするものではない。
 ジャミルはそれきり口を閉じて片付けを続けるカリムのほうへ向かう。これ以上なにか口走っては困ると思って、いつも話すときよりも努めて仕事中の顔をした。
 そのさまがクロエにとってはなんとなく遠い存在のように見えて、やはり自分のような女は一歩引く程度がよろしかろうと思った。尊敬というのは、ただ自分のなかに宿るものだ。

不可視の薄らい⑵