「さ──最後の飛ばしかたは、ちょっと怖かったかな……」
「そうだったか? わりい! 急ごうと思ったらつい」

 バルコニーに吹きさらす風のなかで、#が両の眉を下げ、力なく肩を竦めている。あたりはすっかり夜だのに、揺れるブルーグレーの髪が晴れ空を想起させて、形容しがたい不可思議さを覚えた。
 というより、なにもかもが異様だった。カリムが絨毯を持ち出したことは寮生に聞いていた。しかしてっきり女学院に戻ったと思っていた女が──それもジャミルの想い人が、こんなに遅くまでカリムと絨毯に乗っていただなんて、誰が予想できようか。

「あ、ごきげんよう、ジャミルくん。バルコニーは寒いでしょう。どうしてこんなところにひとりでいるの?」
「それはカリムに話があったから待ってただけで……というか、君こそ変だろう。さすがに驚いたが」
「あはは、たしかに」

 そう返すクロエは、風のせいで少しばかり髪が乱れているし、服装だってなにも準備せずそのまま来たというような女子高生らしい装いだった。極めつけは、白い歯が見え隠れするほどの鮮やかな笑顔である。あの日、再開のときには行商人の持っていた美人画を思い出したものだが、いまやその作りものらしい面影はどこにもない。

「とにかく絨毯から降りろ、外は冷える」
「おう。クロエ、落ちないようにな」

 絨毯がわずかに波打って降りるよう促すので、クロエはおずおずとバルコニーのほうへ向き直る。電車とホームのあいだを跨ぐときのちょっとした緊張にも似ているが、下は線路より何メートルも遠い地面だ。

「大丈夫だ、落ちやしないさ。ほら」
「──ありがとう」

 見かねてジャミルが手を出すと、クロエは迷いなく自分の手を重ねる。夜風で冷えたのか、指先がひんやりとしていた。軽く引けば、彼女は難なく絨毯から足を離してバルコニーに着地する。普段より幾分か短いスカートが空気をはらんではたはた揺れた。

「カリム、お前もさっさと戻れ」
「あ、それだけど。オレはもう少し飛んでくるよ」
「はあ? それで風邪でも引いたら……」
「すぐ戻るからさ。クロエと話でもしててくれ!」

 そう手を振るやいなや、カリムは止める間もなく絨毯を進めた。それで、あっという間にバルコニーにはふたりである。先ほどの件で、彼なりに気を回したのだろう。ジャミルは主人の突発的な行動には慣れているようで、ため息をつくだけだった。

「で、どうして君がここにいるんだ」
「カリムくんに勉強を教えてたの。絨毯は成り行きかな」
「成り行きか」
「うん。楽しかったよ」
「道理で薄着なわけだ。寮のなかに入ったほうがいい」
「ま、待って!」

 外は寒い。ゆえにジャミルのほかに自らバルコニーに出る者はいなかった。いまのクロエにとっては都合のよいことだ。咄嗟に引き止められたジャミルは、怪訝に振り向く。

「寒いだろう」
「平気です。それに、あの、あなたと話すには……ここがいいから」

 クロエは腰に巻いていたカーディガンを羽織って、いよいよここで話すつもりらしかった。きっと、ふたりでなくてはいけないのだ。そうなれば必然、話の内容というものは容易に予想された。それで、ジャミルも確と向き直る。

「この前のお話を、私なりに考えたのです」
「……ああ」
「うん、それで、私……」

 ジャミルは沈黙した。つぎの言葉に耳を澄ました。流れを見るに、彼女から返事をするのだろうと思ったからだ。

「──ごめんなさい!」

 そうして、クロエは勢いよく頭を下げた。
 再び沈黙が降りた。心臓がひときわ大きく肋骨のうちで拍動し、ジャミルの思考も止まりかけた。
 ごめんなさい。すなわち、お断りということか。なにも予想外だったわけではない。クロエの性格を鑑みれば、むしろ引き下がるのが自然だ。そもそも脈がなかったのだろう、友人としては好きだが、異性としては──と、まあ、よくある話だ。
 ならば、別段気に病むことではない。初めての恋で、本気で手に入れたいと思ったのだから、あと二年存分に使えばよいのだ。そうだ、時間はある。
 ここまで考えて、ようやくジャミルの口は「そうか」と声を絞り出した。「そ」と「う」と「か」を一文字ずつ割り出すのに甚だしく時間を要した。このところ一番の情けない声だった。頭を回しているつもりでも、動揺は拭えなかったのだ。そんな彼を見て、クロエはあわてて言葉を続ける。

「あっ! ちが、いまのは違います。お返事ではなくて」
「……は?」
「ただの、謝罪です……」

 クロエもクロエで、平生よりもはるかに言葉の形成がままならなかった。いまなら言えると胸を張りはしたが、本人を前にして緊張が一気に押し寄せてきたのだ。
 あまりの不甲斐なさに、クロエはため息のような深呼吸をした。同時に、ジャミルも安堵の息をついた。

「……心臓が、腹まで落ちたかと」
「そ、そんな。でも私、謝りたくて」
「ここで謝罪が来ると思うかよ──いや、いい、気にしなくていい。それで? 何を謝るって言うんだ」
「ええと、私、あなたに勝手に憧れていたんです」
「憧れ?」

 クロエは、気にしていないつもりでも、実娘の代わりの養子であるということを忘れた日はなかった。自身の価値がわからなかった。だからこそ、ジャミルの自分本位さと自尊心が羨ましかったのだ。

「最初にスカラビアにお邪魔したとき、なんとなくジャミルくんの好意に気づいていたのだけれど。遠いひとだから、もっと相応しい人がいるって勝手に決めつけていて……つまり、まともに取り合おうとしてなかった」
「ああ、なるほど」
「うん。今日の今日まで、断る気だったの。失礼でしょう。だから謝ろうと思って」
「待て」

 クロエの訥々とした声はその一言でパッと止んだ。断る気だったと言われては、もはや告白も同然だが、敢えてそこには触れなかった。もっと直接、彼女の口から聞きたかった。

「言いたいことがふたつある」
「はあ、ふたつ」
「ひとつ。謝罪の件だが、別に構わない。君の思考を咎める気はないから、気にするな」
「ええ、それは、ありがとうございます……?」
「ふたつ。今度こそ君は返事をするつもりなのだろうが、まずは俺から言われてくれないか」

 彼女の背には、青黒い空の色が広がっている。月も星も見えない、溺れそうな夜だった。その瞳だけが、ただ虚飾なく水面のように揺らめく。じっと見つめれば、彼女はうなずいた。そうして世界は静まり返った。

「君のことが好きなんだ」

 これだ、この目に恋をしたのだ。淡く鈍いこの光でもって、彼女は路地裏の自分を見つけ出した。思えばずっと、そのやわらかな衝撃にとらわれていたに違いない。

「俺はアジームの従者だから、必ずしも君を優先できるとは限らない。それでもどうか、俺の隣にいてほしい」

 はなから代わりなどではない。あのとき出会ったのがクロエでよかった。心の底からそう思うのだ。

「君以外はありえない。返事を、聞かせてくれないか」

 音の絶えたバルコニーで、その言葉がいっとうクロエの心に響き渡った。なんという声だ。夜風に溶けんばかりの静かな声だ。
 しかし、そこに宿る人肌のあたたかさを感じずにはいられなかった。恋の熱だ。やはり憧れなどではない、ずっと近くにいる意中のひとの温度だった。

「……私、あなたに憧れていたの」
「さっきも聞いた話だな。また謝罪か?」
「まさか! それに私、もう憧れてなんかいません」
「要するに」
「そう、要するに──」

 クロエは再びジャミルの手を取った。

「私も、ジャミルくんのことが好きなの」

 「喜んで、あなたの隣に立たせてください」そう言い切る前に手を掴み返されて、グンと引き寄せる力に足がよろめく。ジャミルの両腕と身体とのあいだに、ぴったりと抱き抑えられた。遠慮も平静もかなぐり捨てた抱擁だ。互いの冷えた身体に相手の体温が心地よかった。
 鏡のような女、ジャミルの求めた気休めの自由。クロエの遠い憧れのひと。そのどちらもが熱を帯び、このとき一様に崩れ去った。そのままジャミルは目の前の女の顎をすくい上げた。自然、顔が近づく。

「君に会えてよかった」
「私もそう思います」
「よかったなあ、ジャミル!」

 静けさを打ち破る声が聞こえて、思わずジャミルは身体を引き離した。「よう。帰ったぜ、お前ら!」いつの間にやら隠れて様子を見ていた一部の寮生も、これには声を上げた。歯がゆく思う者、ほくそ笑む者、三者三様の反応である。

「カリムくん!」
「な、お前、絨毯で飛び回っていたはずじゃ……」
「いやあ、それがどうしても気になってさ。途中で引き返してきた! 邪魔しちまったか?」

 カリムは絨毯からバルコニーに軽々飛び移る。相変わらず外は寒々としていて、主人に体調を崩されても困るので、ジャミルはやはりため息をついて「別に」と答えた。

「もう見られていようが知ったことじゃない」
「そうか!それならいっそ、今度宴でも開こうぜ!」

 「お前らも構わないだろ?」もはや観衆が隠れていることなど気にしていない口ぶりだった。彼らはあぶり出されたように横合いから現れて、おっかなびっくりうなずく。カリムの勢いに押されているふうでもあった。そのさまを、クロエは漫然と目で追って、途中でやめた。

「まったく、勝手なこと言いやがって」
「ジャミルくん」
「ああ、悪い、クロエ。こんなに野次馬がいたら……」

 おそらく続きはこうだ──「気になって仕方がないだろう」。この状況では誰もが気になる、いわんやクロエをやと思ったに違いない。しかし彼女はそれより早く、ジャミルのフードを掴んで引き寄せた。小鳥のような軽い口づけだ。けれど文字通り目と鼻の先で、彼の瞳が驚きに染まった。観衆たちがワッと沸き立つ。

「たしかに気になるけれど」
「な、お前、いま──」
「遠慮する理由にはならないでしょ?」

 冗談を交わすときのようにクロエが笑えば、いよいよ歓声が上がった。なかには拍手する者までいるが、別に本心から祝福しているわけではない。単なる好奇心、野次馬精神なのだろう。しかし、もはやなんでもよかった。

「ふふ──悪い子でごめんなさいね!」

 いまのクロエにとっては、観衆のざわめきも、無数に切られる瞼のシャッターも、その一切が些事であったのだ。

あなたの魂

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