若いうちは、溺れるほどに狂おしい恋をするものよ。むかし読んだおとぎ話のなかで、美しい妖精の女王が言っていたことだ。クロエはいままさに、その感情の波を打ち消すことに必死だった。
 二回も膝を交えればカリムのなかでは馴染みの客になるらしく、宴に誘われることが多くなったが、クロエはしばらくスカラビア寮に赴くまいと決めていた。ジャミルの言う用意というものが、まったく整いそうにないからだ。
 いまさら憧れや羨望などでは説明のつけようもないほど、ジャミルのことが好きだ。あの日以降、気まずいながらも話す機会が二・三度あったが、その度に想いを自覚した。しかし、その自覚が深い納得をもたらすたび、たまらない不安がクロエの胸に広がる。彼と話すときの無上の心地よさを前にして、作り上げてきた自分が崩れゆくような恐怖と、彼の隣に自分のような女は相応しくないという潔癖な自己嫌悪だ。
 昔のよしみ、思い出の美化、そうでなければ自分への好意に納得がいかない。ゆえに、本来ならすぐにでも告白を断るべきだった。それでも、かの妖精の言のとおり荒波のような恋心が後ろ髪を引くので、これをどうにかしなければ到底あの場には立てないと思ったのだ。

「よう、クロエ!」

 そんな葛藤が続くまま半月も経とうかというある日、合同講義を終え講堂を出たところで、溌剌な声がクロエを呼び止めた。カリムだ。もしや懊悩の種であるところのジャミルもいるのではと身構えたが、どうやらひとりらしい。

「カリムくん、ごきげんよう」
「おう。急だけど、魔法史って得意か?」

 てっきり宴の誘いだと思って用意していた断りの文句が、意味をなさない音となってこぼれた。

「得意なほうだとは思いますけど」
「そりゃよかった! クロエの都合がよければ勉強を見てほしいんだ」
「はあ、なるほど」
「一昨日の確認テストがうまくいかなくてさ。次はもっといい点が取りたいんだ」

 ホリデーの件以来、カリムはジャミルとふたりでいることが格段に少なくなった。仲違いしたからというよりは、カリムのほうがなるだけ従者を頼らないようにしているような印象だ。なにか思うところがあるのだろうが、本人はいたって普段どおりの朗らかなようすで、その心内を推し量るには限界がある。

「ジャミルくんじゃなくていいの?」
「や、あいつに頼りきりじゃダメ! 今回は対等に競い合いたいんだ。クロエ、前にちらっと勉強の話したときすっげえ説明上手かっただろ?」
「そんなことは……いえ。どうもありがとうございます」

 遠慮も謙遜も、カリムの前ではさしたる意味をなさない。それを思い出したクロエはすぐに言葉を選び直す。
 人に教えるということは、自分の勉強にもなるものだ。ちょうど女学院のほうでも近いうち魔法史のテストが行われるし、この冷静さを欠いた頭を冷やすにはちょうどいい。引き受けて損はないだろう。
 「私でよければ」クロエがそう言うと、カリムは元の笑顔をさらに明るくして、勢いよく手を引いた。

「それなら早く行こうぜ!」
「えっ、あ、寮まで?」
「教科書置いてきちまってさ、ダメか?」

 今日はクロエも魔法史の教科書を持ち合わせていない。となれば、勉強を教えるためにはこのところ個人的な禁足地と定めていたスカラビア寮まで行くしかないのだが、ジャミルを思えばさすがに気が引けた。

「あの! ジャミルくんに迷惑じゃないかな」
「あいつなら部活だからしばらく帰らないぜ。なんかあったのか?」
「そ、そう……いいえ、なんにもありません」

 しかしそんな思いも杞憂に終わり、クロエは押し黙る。もとはといえば自分が引き受けたのだ。ここまで来れば腹を決めるべきだと思った。
 テストとはいえ小規模のもの、ゆっくり説明しても部活終わりまでには余裕がある。なんにも困ることはない。あの場所へ行くのももう三度目なのだから。

「ええ。それじゃあ行きましょうか、スカラビアに」

■ ■ ■


 鏡をくぐった先には、相も変わらず冬に似合わぬ晴れ空が広がっている。気温は高いが、乾燥していて日陰は涼しい。この空気にもすっかり慣れたものだった。

「それで、どこを勉強するんですか?」

 聞くと、カリムは談話室に教科書を広げて「第四章、中世、夕焼けの草原における王政」の段を指し示した。本の出版社はクロエの学校と共通だった。女学院は変にネームバリューに拘泥して名門校に擦り寄っているため、たいていの教材はカレッジの受け売りなのだ。

「オレ、このへん苦手なんだよな。似たような響きの名前ばっかりだし、移り変わりが激しくて」
「中世は武力行使が許されていたぶん、弱肉強食の考えがより強かったんでしょうね」
「うーん、生まれと実力じゃどっちをとるのがいいんだろうなあ」
「……それは、私には選べないかな」
「あはは、そんな簡単な話じゃねえよな!」

 カリムはすぐに笑って次のページへ目を落とした。勉強を始めようという合図に違いなかった。
 もとも子もない話だが、歴史というのはほとんど暗記の学問なので、それを教えるとなれば自然に語呂合わせや暗記のコツ、記憶の紐付けかたの話などに限られてくる。そうしてクロエが雑談混じりに全ての範囲を説明し終えるころには、カリムもほとんど要領を得ていた。

「なんか、物語を読んでるみたいだ」
「そう思ったほうが少しは楽しくなりますよ」
「んん、なるほど。なんかできそうな気がしてきた!」

 「これでジャミルのライバル……友達になれるかな」カリムはそう言って立ち上がると、座りっぱなしで凝った腕や背を準備運動のように伸ばす。そんな彼を、クロエはどこか焦がれるような気持ちで見ていた。
 ジャミルにはカリムという、一生をかけて仕える主人がいる。オーバーブロット事件を経て、彼らの関係は結局なるようになったというか、きっとこれからなのだ。これまでの遠慮を取り払って、互いをそのままの形で見られるようになった。そこにクロエという異邦人は必要ないのだと感じて、滅入るような寂しさが胸に来る。
 そんな心を誤魔化すように帰りの荷物を鞄にまとめていると、ふと不自然な風が肌をすべった。すぐ近くの窓の外を、何かが横切るような感じ。同じくそれに気づいたカリムが窓際に視線をやって、つぎに頓狂な声を上げた。

「あっ、お前、いつの間に!」

 その正体は絨毯だった。金糸の刺繍が美しい、いかにもな上等品。それがなんの魔法か、空に浮いているのだ。かつての熱砂の国の王が愛した宝物の物語が想起せられた。

「……絨毯?」
「あ、わりい! 驚かせたよな。これ、砂漠の魔術師が仕えた王の宝──の、レプリカなんだよ。うちの家宝」

 なぜ家宝がここに、とは問うまい。カリムの入学にあわせて改修された綺麗な建物、学寮に似つかわしくない広い宝物庫、決して悪くはない育ちのクロエをして驚かしむほどに、アジームの富はそこらじゅうに溢れている。「そういや宝物庫の鍵、閉め忘れてた!」なんて笑うくらいなのだから、家宝のひとつやふたつで驚いてはいけないのだろう。

「そういやクロエには見せたことなかったっけ」
「うん。レプリカだとしてもすごいですね」
「せっかくだし乗ってみるか? まだ明るいけど、空が近くて綺麗だぜ」

 「悩みなんか忘れちまうくらいに!」その言葉は、いまのクロエにとってこの上なく魅力的に聞こえた。それで、いつもは遠慮が勝るところを、恥も外聞もなく好奇心のままにうなずいたのだ。窓から飛び降りるなんて初めてのことで、ブラウスの襟元をくすぐる風がいっとう凌ぎよかった。
 斜陽が地平線にとけゆくさまは、なぜだか昼間よりまばゆく見える。皮膚のひりつくような暑さだとか、赤い砂の輝きが、なべて太陽を追いかけ地平の向こうへ消え始める時間だ。絨毯の上は、そんな砂海のすべてを見渡せるような錯覚さえもたらした。

「広いですね」
「だよな。こうして景色を見下ろすと、オレの悩みなんか些細に思えてくる」
「悩み?」
「さっき言ってた確認テスト、ジャミルは満点だったんだ」
「難しいって聞いたのに。すごいですね」
「流石って感じだよな! それでオレ、改めてあいつのこと我慢させてたんだと思ってさ」

 鷹揚に構えるカリムの口から悩みという言葉が出たことに、クロエはすこし面食らった。さして知りもしないだろう女相手にそれを打ち明けるとは思わなかったのだ。けれど「ま、遠慮しなくなったのは、きっと進歩だ」と続ける声に弱った感じはない。そうして次に、こう言った。

「ジャミルの実力も心も、ジャミルのものだからな」

 天啓。言葉の輝きがたちまちクロエの胸を打った。

「みんなそうだろ。オレも、クロエも、ジャミルも」
「私──私の心も」
「おう!」

 #4#はハッとさせられた。ジャミルの心は、ずっとジャミルのものでしかなかった。だからこそ憧れたのだ。それが例え自分本位だとしても、クロエにとっては紛うことなき強さでもある。その心の有りかたが好きだった。
 なにが「思い出の美化」だ、「相応しくない」だ。「乙女よ貞淑たれ」とは、なんと黴臭い校訓だ。いつまで都合のよい偏見や他人の目にとらわれているのだ。ジャミルと出会った幼い記憶も、この恋心も、偽りなく自分自身のものだというのに。

「……本当に、悩みなんてどうでもよくなる眺めですね」

 風。次から次へと吹き付ける砂漠の風が、クロエの湿った目元を乾かした。

「あ、なんとなくだけど、やっぱりクロエも悩んでたのか」
「うん。でも、もう忘れました。それよりね、カリムくん」

 「私、ジャミルくんのことが好きなの」最後のほうは声が細まった。思えば誰かに率直な気持ちを伝えることは初めてで、いまさら恥じらいが蘇ったのだ。それを聞き届けたカリムは、はじめ驚いたようすだったが、やがて感無量の面持ちでクロエの肩を掴む。

「──寮に戻ろう!」
「えっ」
「だって、それはジャミルに言うことだろ?」
「あ、はい、そうですけれど」
「それにオレ、お前らが幸せになってくれたら嬉しいよ」

 博愛のカリムらしい言葉だ。しかし、近いうち本人に伝える心が固まったとはいえ、いますぐにとなると人魚が陸で踊るくらいに無茶な話だ。クロエはそう思った。

「で、でも! 心の準備がまだですし」
「準備なんてしてたら、せっかく忘れた悩みを思い出しちまうぜ」

 グンと絨毯の速度が上がって、髪やスカートが無造作に空を泳ぐ。冷たい夜の風がめまぐるしく肌の上を泳いで、砂漠なのにまるで海のなかだ。クロエは思わず目を閉じた。瞼の裏には先ほどの景色が残像となって浮かび上がる。この記憶も、他ならぬ自分のもの。

「だから、絶対にいまがいい」
「……そっか。そうですよね」
「うん」

 「ありがとう」と言うと、カリムは笑った。いまなら言えるだろう。きっと答えを出すとはこういうことだ。これ以上考えることなんて、案外ないのかもしれない。もう一度、ゆっくり視界を取り戻せば、ひときわ目立つ豪奢な学寮が向こうに見えた。
 記憶のなかの妖精が「溺れるような恋ね」と耳の奥で微笑んだ気がした。

砂漠の夜でもあたたかい