長編「THE ANIMA(銀の冠)」
5・6話間のお話にして短編「呪文」の続きです。
原作に登場しない学校の名前が出ています。
軽いテイストのスカラビア寮生視点。


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 ナマエ・ミョウジ。それはこの秋、スカラビア寮に配属されてから幾度となく耳にする名前だ。なんでもたまに寮を訪れるノクス女学院のお嬢さまらしく、あの忌々しいホリデーが明けて数週間経ったつい先日の茶会で、ジャミル副寮長といろいろあったとかなんとか。

 とはいえ、俺は過重労働の疲れが未だに消えず死んだ目をして毎日過ごしているため、詳しいことは分からないし姿も見たことがない。おまけに副寮長の座を狙う者が多いスカラビア寮は絶賛不穏な空気が流れており、とても誰かに聞ける空気ではない──正直ホリデーで副寮長の恐ろしさは嫌というほど思い知ったので、俺のような弱小一年坊主はむしろ大人しくしておくのが賢明だと思う。

 しかし俺だって腐ってもスカラビア寮生、気になる情報は知っておきたいし、なによりあの副寮長と噂が立つ女の子と聞いて好奇心をそそられないほうがおかしい。純粋にナマエさんのことが気になってやまない俺の頭に、ふと名案が舞い降りた。副寮長の座を狙って腹の探り合いが起きているなら、いっそあの人のいい寮長に聞いてしまえばいいと。

 カリム寮長は俺の変な質問を訝しむこともなく「ジャミルの好きなやつだぜ」と内緒話っぽく答えた。これにはさすがの俺も内心すぐに「それはねえだろ」と思った。副寮長が超・自分本位で陰険で性悪だということは既に寮内外に知れ渡った話である。俺はそれをいいとも悪いとも思っていないが、よりにもよってあの箱入り娘が多そうな女学院の生徒と馬が合うとは考えにくい。ノクス女学院といえばふわふわした可愛いお嬢さまが多く、どこか浮世離れした印象だ。それが過剰な幻想だと知る由もない俺は、あの副寮長が彼女らのうち誰かを見初めるはずもないと思ったのだ。

 まあ、カリム寮長はどちらかといえばポジティブシンキングの持ち主だし、真偽を判断するにはまだ早い。かくなる上はナマエさんとやらが寮に来る日を待つしかないだろうか。などと考える俺は、他人の気配に気づく間もなかった。

「君の部屋はここじゃないだろう」

 驚きのあまり喉からヒュッと空気の漏れるアレを人生で初めて体験した俺である。噂をすれば影がさすとはいみじくも言ったものだ、ジャミル副寮長は突如単身カリム寮長を訪ねた俺を訝しんでいるに違いなかった。

「副寮長…俺、寮長に聞きたいことがあって」
「へえ、解決したか? 俺でよければ答えるが」

 聞けるわけねえだろ! 寮生からしたら話すのも気まずい相手だというのに、当の副寮長が一番しれっとしているのはどういうことなんだ。下手に口ごもるとますます怪しいので、質問を弄って投げかけることにした。

「副寮長、好みのタイプとかあります?」
「はあ? 藪から棒にどうしたんだ」
「じ、実は俺、好きな人がいて…友達になる方法から聞こうと思って寮長のところに行ってたんです。副寮長にも聞いてみようと思ってえ」

 すげえ、俺。流れるように一から十まで嘘をついた。咄嗟にしては出来のいい言い訳に内心驚きながら副寮長を見た。

「君は少し引っ込み思案なところがあるからな、まあ、不自然な話でもないか」
「ハハ、お恥ずかしながら…」
「あー、それで、なんだったか」
「タイプですよお、好きなタイプ!」

 なんだかんだ寮生のことをちゃんと見ている副寮長だが、同時にいまの俺の話にはミリも興味がなさそうでいっそ清々しかった。副寮長は変わらず訝しげな顔をしながら、至極興味なさそうに質問の答えを提示した。

「突拍子もない質問だが──そうだな。強いて言うなら、一緒にいて安心できる人だろうか」

 いや、モテ女子の無難な回答かよ。

■ ■

「ごきげんよう。お隣、空いていますか?」

 その日の俺は疲れていたため、講堂の傍らでウトウトしていたが、普段滅多に話すことのない女の子の声にすぐさま表情を取り繕った。実に三ヶ月ぶりのため忘れかけていたが、今日は女学院との合同講義の日だった。
 アッハイ、どうぞ! と緊張丸出しの返事も気にせず、品のよいしぐさで俺の隣に腰掛けた女生徒は、清楚な雰囲気でいかにも金持ちといった感じだ。片手に抱えた教科書は一見して一年生の履修する科目ではないから先輩だろう。そんな人が隣にいるとなると、俺の意識もあっという間に覚醒するようだった。

「一年からこの講義を取るなんて、ずいぶん勉強熱心なのですね」
「え? あ、そうですかね…昔から召喚系は得意なんですよ」
「羨ましいな。私はどうも苦手で…せめて理論から理解できればと思って取ったのだけれど」

 科目名は召喚術概論。二年次から履修可能となる召喚術の基礎を滔々と説くもので、予習の一環として一年生も履修が許されている。別に俺は勉強熱心なわけではなく、単位欲しさに得意科目に飛びついただけなのだが、心の綺麗そうな人からの褒め言葉は素直に受け取ることにした。

「…きょ、今日は寒いっすね」

 二、三言めで既に会話の墓場、すなわち天気の話題に行き着いてしまった俺は己の会話能力の低さを恨んだ。

「ええ、スカラビア寮の生徒は特に外の寒さが堪えそうです」
「そうなんですよ、寮は夏みたいに暖かいのに…ン?」
「あ、ええと。知り合い──が、スカラビア寮にいるもので。お邪魔したことがあるのです」

 なんで俺がスカラビア寮生だって知っているんだ? いや、それは腕章で分かるとして、スカラビアの天候なんてよその生徒が知ることか? と疑いをもつや否や、先輩がすぐに種明かしをする。
 知り合いのところを気まずそうに言い淀んだあたりで、俺の熟慮の精神が久しぶりに仕事をした──コレか。心のなかでオヤジ臭く小指を立てる。すなわち想い人、もしくは痴情の縺れ。俺は謎の好奇心を膨らませた。誰だよ、この純新無垢そうな女の人の心を盗んだアルセーヌ・ルパン・V世は。スカラビアとなると俺も顔見知りの可能性が浮上して、無粋な勘繰りをせずにはいられない。

「知り合いかあ。俺も知ってる人ですかね」
「え? ああ、たぶん…顔と名前くらいは知っていると思いますけれど」

 ますます気になって仕方がなかった。今日出会ったばかりの俺でも知っていると判断できるあたり、それなりの有名人なのだろう。女学院との対面式で挨拶を務めた実行委員のあの人か? それともまさか、カリム寮長──ありえない話じゃない。王子さまでも待ち望んでいそうな女学院生なら、あの人のよさに惹かれることになんら疑問もないからだ。ホリデーの一件のせいで完全に副寮長への苦手意識が芽生えた俺は、まあカリム寮長とジャミル副寮長がいたらこういうふわふわな人は前者を選ぶだろうという偏見のもと、彼のことを候補から完全に消し去っていた。

「なるほど。なんにせよ、外との温度差に感覚狂っちゃいますよね」
「ええ。この教室もずいぶん暖かくて、しばらくいたら暑くなりそう」

 正直気になって仕方ないが、そろそろ引き下がることにした。初対面でずけずけ質問したら本格的に嫌われる。新たな話題を見つけようとしたところで、先輩の左袖から大きめの絆創膏が見え隠れしていることに気がついた。

「先輩。その左腕ってどうしたんです?」
「ああ、これ。この前ぼうっとしていたら切ってしまって」
「だいぶ大きな怪我に見えるんですけど」
「傷自体は浅いんですよ。それにジャミルくんが手当してくれましたし…」
「ジャ」

 ジャ──なんて? 完全に意識していなかった人間の名前が飛び出したので、俺は言葉を失った。いや、副寮長、女の子の怪我を手ずから処置するタイプじゃない。絶対に体よくそのへんの人に任せて退散するでしょ。この人ナニモンだよ。

 いよいよ混乱してきたところで、講義開始時間ぴったりに教師がやってきた。年季の入ったNRCのドアは開閉の度に錆びた蝶番の音がするので、誰かが入退室するとすぐに分かるのだ。そうして講義が始まるが、俺は時計が一回りするあいだ、先輩の立場への疑問を忘れることはなかった。

■ ■

「お話してくれてありがとうね。ごきげんよう」

 講義が終わると、名前も知らない先輩はささやかに手を振った。いまさらだが「ごきげんよう」なんて挨拶を聞いたのは一体いつぶりだろうか。庶民の俺には馴染みのない言葉なので、思わず返事に惑って鸚鵡返ししてしまった。
 そんな俺の失敗談もそこそこに、このあとは部活だ。すっかり睡魔の充満した空気を一新するように生徒が退出していく。なんか今日は驚いたり混乱したりで無駄に頭を使ったな。そうしてのそっと講堂を出たところで見間違いようもないカリム寮長の顔を見つけた俺は、挨拶をすべく息を吸う。しかし、俺よりも先に別の知り合いを見つけたらしい寮長は、次の瞬間衝撃の言葉を口にした。

「よう、ナマエ!」

 聞き覚えしかない名前に、俺は思わず数日前体験したばかりの「ヒュッ」をまた実演する羽目になった。頭のなかでパズルがみるみる完成へと近づいてゆく。副寮長の謎の贔屓、先輩の言うスカラビア寮の知り合い──この綺麗な先輩が、件のナマエさん。正直ナマエなんて名前は珍しくもなんともないのだが、顔を覚えるのが苦手な寮長がしっかり認知している「ナマエさん」となると話は別だった。間違いない、この人だ。思わず俺は教室の壁にくっついて気配を殺した。

 カリム寮長とナマエさん(改め、ナマエ先輩)はなにやら勉強会の話をしているらしく、特に気まずい様子も見られない。この時点で俺の「先輩の想い人・カリム寮長説」は根幹から揺らぎつつあった。見れば見るほど、ふたりが後ろめたさのないただの友人に思えてならないのだ。相反してカリム寮長の言う「ジャミル副寮長の想い人・ナマエ先輩説」がものすごい勢いで信憑性を帯びてくる。絶対にありえないと思っていた話だが、あながち間違いでもようだ。そうこうするうちにナマエ先輩が寮に行くという方向に話が進んだらしく、急な予定に先輩も少なからず驚いていた。

「でも…あの! ジャミルくんに迷惑じゃないかな…」

 このときのナマエ先輩の顔を俺はしばらく忘れないだろう。物憂げに伏せられたまつ毛、所在なくカーディガンの裾を引っ張る嫋やかな手、迷子のような声色。おお哀れな男子よ、しかと見よ──これが恋する乙女の顔である! そんなことを昔読んだおとぎ話の妖精に突如として説かれた気持ちになった。うるせえ、男子校に通っていてそんなことが分かるもんか。ていうかアンタら両想いかよ! さっさとくっついちまえ、バーカ!

 あと数時間で本当に想いが成就するとも知らない俺は、窓から見えるグレート・セブン像に投げやりに祈りを捧げて、さっさと部活へ向かう意志を固めるのであった。

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