永眠とは
都内の某大学。そこで教鞭を執る若かりし哲学者・名字名前はその日、さして年齢の違わない学生と肩を並べていた。壁一面が本で埋め尽くされた狭い部屋の扉には、無骨な字で「名前ゼミ」と書かれていた。
「みなさん、論文のサマリーは決まりましたか?」
雑音が支配していた室内で、名字名前が声を上げた。呼びかけられた三名の学生は各々面倒だという気持ちを隠しもせず、言葉ともならない声を上げた。
「ペースが早すぎませんか、教授。私たち、まだ何も考えられていません」
髪をうなじあたりで一つに束ねた学生がため息混じりにする抗議に名字名前はにこやかな顔を崩さないでいた。
「今すぐに、というわけではないですよ。でも、今から考えることが肝要なんです。『なぜ』『どうして』は全てにありますから。もし、行きたいシンポジウムや気になる最新論文があれば教えてください。もし私の知り合いのものであれば、融通出来るかもしれませんから」
「けれど先生、あなた、すぐに居なくなるじゃないですか」
背の高い生徒が呆れ果てたように言う。その言葉は先程の学生も、もう一人の学生も同意見らしく、静かに名前の言葉を待っているようだった。
「話をするくらいであれば、今時ほら、スマホがありますから。それに、少しの間は学校に居るつもりではいますよ。私だって一応教授ですからね。授業を開講しなさいと教務に怒られてしまいましたので」
「もう俺、教授の代わりに授業じみたことやるの嫌ですから」
押し黙っていた最後の学生の言葉に、ずっとにこやかだった名前の眉が下がる。唯一の三年生である彼に頼りきりの運営をしていたことに、名前も負い目を感じている様子だった。
「それは──」
名前が口を開いた時。春も終わりを告げようとしているものの、未だ過ごしやすい気温に開けていた窓の先から、人々の悲鳴と、無音の予感が押し寄せた。一番窓に近い席に座っていた名前はいち早くそれを察知し、「それ」が何か良くないものだと気がついた。光が網膜に焼き付くその前に、机にコーヒーカップを叩きつけ、学生に振り返る。
「みなさん伏せて!」
指示と共に勢い任せに窓を閉めた名前は、空を帯状に染める可視光線を見た。急に音の消えていく世界に大学の緑豊かなレンガ道を見下ろせば、慌てふためいたまま静止する学生の姿があった。
「これは一体、何……?」
この日、人類は石になった。
──これは一体、どういうことだ。
皮膚が硬直した中でも名前の思考は巡っていた。一向に動く気配の無い体や、完全に外界を捕らえなくなった視覚や聴覚。恐らくは仮死状態となった体でも、脳だけが活発に動いていた。体は冷たく思えるのに、頭だけが熱い。名字名前は抱えられない頭を脳内で抱えていた。この状況は一体どういうことなのか。
名前は少しだけ考えて、あの光が原因でこの異常事態が起きたのだということだけは理解した。それ以上はあまりにも人智を超えた現象であり、現場検証を重ねた天才以外には解明することは不可能だろうと、一度合点しておくことにした。そうでもしなければ、この先いつまで続くか分からない現状をこの一点のみで消費してしまうと考えたからだ。
眠気が襲う。きっと体が本格的に死に向かっているからだろう。このまま意識を閉ざせば、もしかすると一生目覚めることは無いかもしれない。言いようもない恐怖が彼女を襲い、震えない体が震えていた。数度意識を手放しそうになっては、どうにか意識を持ち上げている。しかし、それがいつまで続けられるかは分からない。自分の中の時間感覚が徐々に鈍って、今日が何日で、今が何時なのか、名前には分からなくなっていた。
何十回と意識を手放した頃。名前は最初に比べてこの状況に慣れつつあった。慣れすぎることは完全に意識を手放してしまうことと同義だと考えた名前は、自分が哲学者だということに感謝した。哲学とは、正解の無い思考の迷宮だ。誰もその分野からは逃げることが出来ないが、大抵はその迷宮の途中で腰を下ろしてしまう。その螺旋階段を誰よりも下り、上るのが哲学者だった。思考を止めない事は彼女の得意分野だったのだ。
死とは誰もに平等に訪れる。今、自分は死んでいるだろうか。それとも、生きているだろうか。我思う、故に我ありとはデカルトの有名な命題だが、我思う、故に我は生きているのか? 自分の意思で自分の体を動かせない今の状態は実質的な死か? 植物状態の人間は死んでいるだろうか。名前は何度も螺旋階段を下り、上る。今が何年の何月、何日、何時なんて分かりはしないが、とにかく考え続けられることだけは確かだった。意識を手放す度に心のうちで舌打ちをしたが、それも徐々に思考に飲まれていくのを感じていた。しかし、哲学は一人では広がるものも広がらない。孤独であることがこんなにも考えを停滞させるものなのか。名前は何年と前になった記憶の中の生徒や知人を思い浮かべ、また少しの間意識を手放した。
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