新世界とは
「え?」
音を立てて崩れる岩に肌が少しだけ引っ掻かれた。名前は腕についた薄い傷跡を見、そして鼻に感じる強烈な緑の香りに脳を揺らした。目に入る鮮やかな色にまぶたが震え、耳をつんざく鳥の鳴き声に足の力が抜けた。何百、何千年が経過したのだろうか。名前は回らない頭を回転させ、突然の情報量に暴れる脳みそに吐き気を覚えた。目が覚めたのだ、と気がついたのは、人間の声がようやく耳に到達してからだった。
「──…うぶ? 聞こえてる?」
自分が誰かに支えられている。そう気付いても名前は自分の力で立てないままでいた。声の主をゆっくりと見やると、どこか見覚えのある軽薄な笑顔が目に入る。少なくとも何百年も前の記憶は未だ鮮明らしく、しかし目の前の人物が誰だったのか、名前は思い出すことが出来なかった。きっと、どこかですれ違った程度の人物なのだろう。名前は小さく息を呑んで、張り付く空気に咳き込んだ。
「けほ、すみません。あの、ええと……。何から考えればいいやら」
掠れた声で言う名前に、キャスケット帽にも似た帽子を被った男性から水の入った袋が手渡された。名前はそれをまじまじと見て、目の前の人物たちがどのような文明を築いているのかと考えた。言葉は名前の知る日本語であったし、一口含んだ水も濾過されたものだった。
あからさまに警戒している名前の様子に、彼女を支えている男が分かりやすく朗らかに笑った。
「そりゃそうだよねえ、死んだかと思ったらこんな未開の地に居るんだもの。訳わかんなくなるのも当然。でも今ここで全部説明すると日が暮れちゃうからさ、とりあえず村に案内するよ」
「村……」
ようやく両足を地面にピッタリ貼り付けた名前は、先導する男性についていくことしか出来なかった。足の裏に土が刺さり、歩く度に不快感は増していく。
「村というのは、俺たちの拠点だ。歩きながら少しだけ経緯を伝えよう。俺は七海龍水。その軽薄な男はあさぎりゲンだ。帽子を被っているのが西園寺羽京。前を歩くのが石神千空」
名前の隣には、いつの間にか背の高い男性が並び歩いていた。彼の頭にはまるで映画の船長のような帽子が乗っていて、衣服や装飾も他の三人と比較して華美だった。名前は瞬時に彼がこのグループのリーダーだと判断し、言葉に大きく頷いた。急に男性に囲まれ、彼女は少なからず身の危険を感じていた。
「ここは俺たちが石化したあの日から、ざっと数えて三千七百年後の世界だ。これまで人類が築き上げてきた文明は悉く崩壊し、何もかもが手作りだ」
七海龍水と名乗る男が話す言葉に名前は足元が崩れていくような感覚に陥った。どうにか足を縺れさせながら歩く事は続けられたが、その言葉をそう易々と信じることは出来ない。
「とはいえ、生き残りというべきか、俺たちが眠っている間にも人類という種は脈々と受け継がれていた。ソユーズに乗っていた宇宙飛行士達が地球の状況に気がつき、帰ってくることに成功していた」
「ソユーズというと、飛行士に日本人もいた、あの?」
名前がようやく言葉らしい言葉を発したことに男達は驚いたようだった。少しの間沈黙が流れ、あさぎりゲン──見覚えがあると思えば、この男はテレビに出るような有名人だと名前はこの時ようやく気がついた──が、龍水の言葉を繋ぐように口を開いた。
「そう、あ・の・ソユーズだよ。世界の歌姫も搭乗したって、ケッコー話題になったよね」
「ああ、そんなこともありましたね。では、その方々のご子孫が今も?」
「つってもまー、科学も文明も、原始人レベルに戻っちまってたがな」
無言で名前達を先導していた石神千空がようやく口を開く。声は名前が思っていたよりも少し若く、気怠げだ。
そして、そんな彼の言葉に、言いようもない絶望が名前を襲った。先程から顎にパンチを連続で食らっているかのような気分だった。そんな、では、哲学は。連綿と紡がれてきた哲学の歴史はどこにも残っていないというのか。
「……絶望するほど、今の社会は崩れきってるわけじゃないよ」
西園寺羽京が帽子を軽く被り直して朗らかに笑う。それは、最初に軽薄そうな男が出したような白々しいものではなく、心の底からそう思っているようだった。
「そうだ。人間が存在する限り、再建不可能なものは無い。例え一世代では無茶なことでも、これから歴史を作り上げることが出来る。俺たちはその最先端に立っている」
「さい、先端……」
「ああほら、村が見えてきたよ。戻ったらとにかくご飯にしよう。お腹ぺこぺこだよ〜」
日が少し傾いて薄暗く閉ざしかけていた森が急に開き、人工的な炎が遠くでちらちらと明滅している。風に揺られ僅かに軋む手作りの橋のこちら側に座っていた人影は、すぐに五人に気がついた様子だった。小さく声を上げてから、大きな歩調で先頭を切る青年に歩み寄る。
「見つかったのか。……女性だとは思わなかったが」
「ンなモン心底どうでもいいわ。とにかく、色々進めんのは明日だな」
「そうか」
蔦で作ったのだろうか。少し歪みのあるメガネをかけた青年が、頭一つや二つ分目線の低い名前に対して頭を下げる。
「……金狼だ。遠くでこちらを窺っているのが弟の銀狼。千空達から、とても名誉ある役職に就いていた方だと聞いている」
目の前に現れたつむじに名前は少しだけ狼狽し言葉を詰まらせたが、ややあって同じように頭を深く下げた。
「そんな、私なんてそんな大した人物ではありません。どうぞ、他の方々と同じように扱ってください」
「えらく謙遜をするのだな」
後ろで控えていた龍水が、二人の間に流れる微妙な空気を遮った。空気を読まない明朗な声に金狼も名前もお互いが頭を下げあっていたのを忘れて龍水の怪訝そうな顔を眺めていた。
「貴様のベストセラー書籍。その後書きでは自信家なイメージだった。あれは文面だけか」
どこか落胆したような声だった。名前はそれに少しだけ眉根を寄せ
「初の書籍でしたから。多少、編集者に踊らされてしまったことは否めません。ただ、私が大した人物ではないのは事実ですし、私は私に自信がありますよ」と言った。
「ならいい。俺が認めたものを卑下されるのにいい気分はしないからな。たとえ当事者であったとしても」
芯を食わないその言葉に名前が返す言葉を探している最中、痺れを切らした千空が橋を渡るように促した。この何千年の間で起きた地震などの天災によって生み出された断崖絶壁は落ちれば海へ真っ逆さまだ。潮風が下から吹き荒び、重いはずの橋を揺らす。自らが生きていた時代では考えられないほど脆弱に見えるその橋に名前は思わず生唾を飲んだ。
「そう簡単に壊れないよ。大丈夫、足を踏み外さないように、しっかりと手すりを持って」
羽京は子供をあやすように名前にそう言ってから橋へと足を踏み出す。既に千空はその橋を渡り始めていて、龍水もそれに続くようだった。最後尾を行こうとしているゲンも羽京に倣うようにして名前を励ましていた。
意を決して橋の板を踏み込めば、存外手応えのある軋みに名前は少しだけ胸を撫で下ろした。風で髪が乱れるのを感じながら一歩一歩確実に踏み込めば、何て事のない道のようにすら思えてきた。その様子に安心した羽京とゲンは声をかけ続けるのをやめ、慣れた様子で歩を進め始めた。名前もその様子に安心し、そういえば先程の七海龍水とかいう男は自分の著作を読んだと言っていたなと気がついた。
風が強く吹き付けるたびに心臓が飛び出るような思いをし、永遠かのように思えた橋も気がついたら終わっていた。橋に揺られていたのはほんの数十秒のことなのに、固い地面へと足をつけた途端に陸酔いにも似た感覚が名前を襲った。ただでさえ数千年の眠りからさめたばかりの名前にはその酔いは辛く、ついには地面へ尻もちをついた。
「大丈夫?」
名前のすぐ後ろを歩いていたゲンが膝を折り、その背中に声をかける。荒い息を繰り返すばかりの名前を見、ゲンは自分が水袋を持っていないことに気がついた。その様子に気がついた羽京はすぐに踵を返してゲンへ水筒を手渡した。
「急激なストレスと相まった下船病かな。名前さん、この症状に経験は?」
羽京にそう尋ねられ、名前は急激な吐き気に混乱する頭で震える唇を開く。
「少し……覚えがあります」
言って、苦しげに息を詰まらせる。ややあって強く閉じていた目を開き、上下する喉にほっそりとした指を沿わせ、小さく爪を立てた。ゲンはその様子を観察するように眺め、首に作られる薄赤い傷に目を細める。
「研究発表がコテンパンにやられた帰り、船でしこたまお酒を飲んで気絶した朝……船を降りると、今みたいに」
その言葉に羽京とゲンは静かに顔を見合わせ、深く息を吐き水袋に口をつける名前を見やった。外見は可憐な少女に見える彼女は数千年前、大学教授をしていた。最年少大学教授であった彼女は就任した直後から話題を呼び、その後すぐに発行した書籍は大ヒットを記録。それがより取材に拍車をかけたその時、彼女は行方を晦ませた。数々のメディアが彼女の足取りを追ったが見つかる事はなく、数ヶ月後ひょっこりと戻ってきたと言う。きっとメディアに私生活を奪われることに心を病んでしまったのだろうと巷ではもっぱらの噂だった。その噂を知っていたからこそ、羽京とゲンは彼女が酒に振り回される人間だとは思っていなかったのだ。
「ええと、その時はすぐに治った?」
「ええ、まあ……多分。陸酔いの方は」
言って、名前は息を細く長く吐く。羽京とゲンは言外に含まれる「二日酔いの方」に思い至り、苦く笑った。
「今回も似たような感じなら、少し休めば多分大丈夫だと思うけど……数日続くようなら問題だな……」
下船病の多くは一過性だが、稀に数日から数ヶ月症状が持続する場合がある。それらの原因は三千年前でもっても解明されておらず、多くはストレスに原因があるのだろうと推測されていた。治療法は多岐に渡るが、抗不安薬の処方や生活習慣の指導がなされる場合が多い。投薬治療が現実的ではないこの世界においてはストレスを取り除くことが第一の治療法になる。しかし村は最近になって活気に溢れ、仕事が山のように舞い込む状況だ。新入りとはいえあまり長く休養出来るか分かったものではない。職業柄これらの病には敏感な羽京は考え込むように眉間を揉んだ。未だ少し虚ろな名前の瞳が羽京のその仕草をうっすらと捉え、すぐ地面へ戻された。
「多分、そこまで深刻なものではありませんよ。ストレスも、きっと久しぶりに生き返ったものですから、体が驚いているんだと思います。その証拠に、吐き気も強いめまいも段々と収まってきました」
そう言って、名前はずっと地面についていた手をゆっくりと離し、平伏するような姿勢から割座へと変えた。丸めていた背は少し伸びたようだ。心配げに顔を覗き込む羽京とゲンを順番に見やり、その先で歩を止め名前を窺う千空と龍水に力なく笑ってみせた。喉についていた薄赤い跡も幾分か薄くなり、首の影に隠れて目立たなくなっていた。
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