急成長とは(前)
長く息苦しい夜はいつの間にか明け、名前が少し怠さの残る体を起こす頃には小屋の中に人はまばらにしかいなかった。寝過ごしたか、と衣服を整え形ばかりのドアを開いた時、丁度同じタイミングでドアを開けようとしたらしい羽京が驚いたような表情で立っていた。
「わ。ちょうど起こしに行こうと思ってたところなんだ。おはよう、名前ちゃん」
朗らかに笑う羽京に、名前はぬかるみにハマっていたような思考をようやくハッキリとさせた。この数千年眠り続けていたことも、それから覚めたことも、この世界は元の世界とは大きく違うことも全てが現実だと認めざるを得なかった。
「……おはようございます、羽京さん。すみません、沢山寝てしまって」
「全然。昨日の今日で大変だろうし。よく眠れた?」
「ええ、まあ」
名前は指先で毛先をいじる。髪の癖を直しているようにも見えるし、緊張の現れのようでもあるその仕草に羽京は一瞬目を向けたが、すぐに視線を外し小さな梯子を丁寧に降りる。小屋から少し先の場所では既に人の活気ある会話が聞こえ、生活が始まっていることが聞いて取れた。
「今日は、とりあえずゆっくり朝ごはんを食べて、後のことはそれから説明するよ。朝ごはんくらいは何も考えず食べたいでしょ」
昨夜の名前の状態を察して羽京の言葉に、名前は申し訳ないような、ありがたいような、如何ともし難い感情に襲われた。昨夜の会話は名前にとって心を落ち着かせることに加えて新たな知見を得られる大層有意義なものだったし、その話について後悔するという感情は持ち合わせていなかったが、心配させてしまったことだけは察しがついていた。
「ありがとうございます」
二人は意図せず同時に抜けるような青空を見上げる。真っ白い雲が高くたちのぼり、高い彩度が目を焼いた。まだ朝だというのに、昼に向けて太陽がウォーミングアップしているようだった。
「とはいえ、ある程度予想はついているだろうけどね」
「まあ、昨日少しだけお話は聞かせていただいたので」
名前は言って、風がないせいか動きが緩慢な雲から視線を外し、遠くで遊ぶ小さな子供達を眺めた。昨日、この世界での法律について話を聞いた時点で、法律に詳しい学者を目覚めさせなかったことは疑問だった。落ち着かない体を抱えて雑魚寝小屋でぼんやりとそのことを考えていた名前は、法整備までを求められていなかったことに気がついた。法を作るのは大衆であってほしいということなのだろう。つまり、その前に教育が必要だという話だったのだ。
大学教授だった過去を持つ名前は年端のいかない子供に教えるということに恐れを抱いていた。無垢な少年たちにものを教えるということは、価値観のハンドルを握ることに等しい。もちろん年齢を重ねるたびに、思い悩み考えを巡らせるたびにその価値観は変容していくものだが、それでも基盤を担う責任は大きい。
「とにかく、お腹減ったでしょ? 朝ご飯にしようよ」
それに頷いた名前と羽京が朝食の場へ辿り着いた時には既に用意はこなされており、人々が適宜食事をとっていた。この世界の食事は昨晩と合わせて二度目の名前は焚き火を囲うように刺された魚を見て、この世界でようやく出来つつあるという小麦畑へ思いを馳せた。穀物が無いわけではないだろうこの世界でも、それらの安定かつ大量供給には科学の力とマンパワーが圧倒的に不足していた。ソユーズに乗り込んでいた人たちが紡いできた作物の育て方も、時の流れや地形の変質が重なるにつれてその形は大きく歪んでしまったのだと千空は推測していたようだ。名前は農業に明るくは無かったが、それでも畑を作りやすい土とそうでない土があることは知っていたが、このストーンワールドを生き抜いてきた彼らにはその知識の基盤が無かった。そのため、痩せ細った村の土で無理に育ちにくい野菜を育てようとした跡もあったようだ。
焼いた魚に気持ちばかりにふられた塩の結晶を見ながら、せめて大豆が実れば、と考えていた頃、既に食事を終えたらしい千空が名前の名を呼んだ。名前が魚を咀嚼しながら振り向けば、千空は一言「食い終わったらラボに来い」とだけ言ってその場を去った。
「羽京さん」
「うん?」
隣で話を聞いていた羽京は、未だ千空の後ろ姿を視線で追っている名前の問いかけに不思議そうに頷く。
「あれは、早く食い終われっていうプレッシャーですか?」
「ち、違うと思うよ……?」
その後、ゆっくりと朝食を終えた名前は千空に言われた通りにラボへ顔を出した。しかしそこに千空の姿は無く、先に食卓を後にしていた羽京と龍水が難しい顔をしながら膝を突き合わせ何かを相談しているようだった。千空は開発に忙しく、新入りの名前に指示出しが出来ないことが気にかかり顔を見せただけだったが、名前はそれに気が付かず、呼んだ当人が居ない室内に、入室をわずかにためらった。
「名前、そんなところで突っ立っていたら始まるものも始まらないぜ」
「あ、ああ……はい、そうですよね。お邪魔します」
招かれるままラボへ入室した名前は促されるままに龍水の隣へと腰をおろす。外は晴天だが、ラボの中は少し薄暗い。いつも開けられている窓の簾が半分ほど下されているせいだと名前が気が付くと同時に羽京が口を開いた。
「名前さんには、まずは村の人たちへ向けての教育に一枚噛んでほしい。一応、僕が基本的な教育を担当する予定なんだけど、流石に一人じゃ回らないから分担をして……あとはいわゆる『総合の時間』をやってほしくて」
名前がぼんやり窓を眺めていたことに気がついた羽京は話しながら簾を軽くあげる。するとラボの中に点在するガラスの実験器具が太陽光を強く反射し、名前達の視界を不自由にした。明け方から昼にかけては特に強い日差しは全身で夏を主張していた。羽京は燦々と降り注ぐ日光に目を細め、上げた簾を元の通りに戻す。
「とはいっても、僕も名前さんも、あとは時々理科を教える予定の千空も、社会を教える予定の龍水もプロじゃない。なんなら千空や龍水は現役の学生だったわけだし」
龍水は羽京の言葉に割って入ることはせず、静かに言葉に耳を傾けている。時折肯定をするように小さく頷き、机に広がる手作りの紙に何かを書き加えた。名前もそれに倣うように話を聞きつつ、隣に置かれた紙を盗み見る。そこには豪快な性格に似合わず整った文字で「新・指導要領」と書かれていた。
「どうしても僕らは手探りで人を育てなきゃいけない。だからこうやってミーティングを重ねて準備を進めるつもりなんだ。一応、開校予定は来年の春」
「ええ、大体了解しました。昨夜から、何となくそういう気がしてきたんです。なぜ社会学者でなく私が目覚めさせられたのか。まず、どうやって人と話せば建設的な議論が可能なのかを体験してもらうことが重要、そういうことなのでしょう」
名前は言いながら大きく頷く。大学に明確な指導要領は無いが、授業を進める上ではある種のテンプレートのようなものが個々人に存在する。特に議論を必要とする哲学においては初期段階の授業は今後の授業をまともに行うための核となるため、名前は短い教授人生で試行錯誤したものだった。
「フゥン、話が早いな。で、だ。しばらく俺や羽京、千空はもっぱら地図作りに専念する必要がある。それからも、誰かの予定が付かないなどという事態は容易に予測ができる。教育に関しては羽京と貴様が二本柱だからな。なるべく二人のスケジュールは調整するが……それでも名前、貴様の負担は大きい。羽京は大型機帆船の通信部の重要人物だからな」
教育──特に初等教育は準備が肝だ。それは名前も承知のことだった。自らが受けた義務教育を思い返し、大きな模造紙に手書きされたものや、短冊状に切られた単語という小道具が頻出していたことからも想像は難くない。だが、この世界には圧倒的に現代の知識を持つ人間が少ない。それが人へ教え、授けられる人間となればなおさらだ。
「やれるだけやってみます。もしも無理があれば、その時は改めて助けを求めることにはなると思いますが」
「構わん。その時はその時、寄り集まり解決策を探ろう」
「そうですね。それより──」
名前はラボを見回す。ここで作業をしているのは基本的に千空だという話だが、こうやって集会にも使われているせいかものが雑然と並んでいた。最近は専ら作図をしているせいで、どこもかしこも細やかな作図用具で溢れかえっている。名前はその様子に自分のゼミ室を思い出し、自分のゼミ生を想いわずかの間瞳を伏せた。
「代わりといってはなんですが、私個人の小屋を作ってもらうことは出来ませんか? 勿論、色々な雑用も手伝います。どうしても、自分の空間が無いと落ち着かなくて。……あまりにも勝手すぎるでしょうか」
名前が勤めていた大学ではゼミごとに小さな部屋が割り振られていた。哲学科は特にゼミの活動に力を入れており、理系分野と遜色ないほどゼミ室の存在は重要視された。そのためゼミ室には参考になる本や論文、はたまた小道具や制作物が所狭しと並んでおり、大変窮屈な有り様だったと名前は光景を脳裏に浮かべながら思う。しかしその空間ではなぜか筆が乗り、学生たちも伸び伸びと雑談──もとい議論を進めていた。名前は忙しなく世界を飛び回っていたが、やはり戻る場所といえばそこだった。そのような場所を再び作りたいと願う彼女の言葉は切実だ。
「なるほど、やってやれないことはない。……が、今は別拠点に主な人員を割いていて、この村には力のない老人が中心だ。すぐに、とはいかないだろう」
現場のスケジュールを脳内で追っているのか、名前から視線を外しながら龍水がゆっくりと告げる。龍水の小さな仕草も見逃すまいとそれを注視していた名前は分かりやすく肩を落とした。羽京も口は出さないものの、見解は龍水と同様なのだろう。名前の残念がる姿に申し訳なさそうに眉を下げていた。
「気を長くして待てば手に入らない訳ではないのだからそう気を落とすな」
「あ、ですよね。はは……すみません」
フォローする龍水に答える名前は取り繕ってはいるがまだ口惜しい気持ちが顔にあらわれていた。龍水はその様子にしばし思考を巡らせ、「そういえば」と声をあげた。
「カセキが出ている間、少なくともひと棟は空き家が出来ている計算になるな」
龍水は羽京に視線を投げると羽京も何か思い当たる節があったようだが、見るからに渋い顔をしているのは誰が見てもわかった。
「流石に人の家に勝手に……」
「無論話は通す。いつ、どんな時代であろうと人のいない家というのは寂れるものだ。……あまり期待したいことではないが、カセキに頼らずともどこかに空き家がある可能性もある」
ラボに沈黙が降りる。龍水が言葉に出さずとも、ひと家族全員が感染病で隔離され、そのまま死に至る……などという話は想像に難くない。
「ああ、でも、どうかな。一度この村は……その、僕が言うのもなんだけど、一度大火事に見舞われたものだから」
羽京は元は司帝国で弓をつがえていた側の人間だ。龍水も名前もその争いには全く触れていない分、羽京のその後ろめたさには理解を示さなかったが、羽京本人はいまだ、自分の所属していた陣営がこの村に引き起こしたことを心のどこかで気に病んでいた。
「なに、どちらにせよ一度あちらに連絡を取ればいいだけの話だ」
そんな羽京の考えを知ってか知らずか、あっけらかんと言う龍水の言葉に名前は首を傾げた。
「連絡ですか?」
名前は司帝国が元・東京周辺に存在し、今この場所は静岡の海沿いだということは聞いていた。だからこそ、徒歩で安易に行き来することは叶わないだろうし、先に聞いていた気球で行き来するにはあまりにも効率が悪すぎる。
「ああ。見て驚くといい」
「もしもし、俺だ」
龍水が鉄の漏斗のようなものに声をかける。鉄がほんの少し振動して、声は通常よりも響いて聞こえた。
その日の昼下がり、質素な昼食ののちに千空を交えてラボへ戻ると、棚の中から無骨な機械が引っ張り出された。名前はそれを見て薬売りの背負い箱を思い浮かべたが、伸びるアンテナやラッパのような形をした鉄の板を見て、ようやくそれが電話機だと理解した。そもそもこの世界に製鉄品があること自体が名前の考えを裏切るものだったが、通信技術まで出来ているとは思いもしなかった。
『杠だよ。龍水くんだね?』
「わ、本当に繋がった……」
スピーカーから聞こえる音はスマホから聞くような音声より何段階も劣るものだったが、向こうからの言葉が正しく伝達される程度には精度があった。
『あ! その声、もしかして例の哲学者さん? わあ、はじめまして』
杠は名前の服を作るためにあらかじめ名前の大まかな年齢や背丈の情報を知っていたが、実際に会ったことも、ましては喋ったこともない。男性の比重が高かった旧・司帝国の地で奮闘している杠にとって、名前は注目の人材だ。
「はじめまして、杠さん。名前です。お洋服を作ってくださった方ですよね? とっても重宝しています。ありがとうございます」
『本当? ふふ、嬉しいな。今度ちゃんと会ったら、きちんと採寸させてほしいですなあ』
「ああ、それはもう、ぜひ」
名前は同じ時代を生きた女性と話すことにどこか懐かしさを感じていた。村にいる若い女性とはまだ親交も深くなく、少し遠巻きにされている部分もあったためか、距離はありつつも気やすい杠の口調は名前にとって救いにも似ていた。
「談笑しているところ悪いが、カセキに話がある。そこにいるか」
頬を薄く紅潮させて会話の喜びを噛み締めている名前のすぐ隣で龍水がいつもと比べて少し控えめに声をかける。そちらを振り向いた名前はようやく本題を思い出し、申し訳なさそうに笑って龍水へ場所を譲る。
『カセキ先生? ちょっと待っててね、呼んだら来れると思うから』
杠はそう言って離席したのか、少しの衣ずれの音の後に無音が続く。名前は未だに大きな電話機を物珍しく眺めていて、アンテナから箱の部分まで忙しなく視線を上下させていた。
「どうだ、この原始的かつ先進的な電話機は」
「なんでテメーがドヤ顔なんだよ」
龍水が名前に声をかけると、名前が返す間もなく千空がツッコミを入れる。千空の作ったものを龍水がまるで自分のもののように紹介し、千空はそれを強く咎めるわけでもない。名前はそれだけで二人の間にある奇妙な信頼関係を感じ取る。前日は龍水がリーダーのように思い納得していた名前だったが、そうではないらしいと認識を改めた。
「とても驚きました。まだ農耕も発達していないこの世界で、既に電話が出来ているなんて。なんだかちぐはぐで面白いですね」
「最初に起きたのが俺じゃなくて農家だったら、先に小麦畑が出来上がってたろ。おあいにくだが、俺が先に目覚めちまったもんでな」
「やだ、変な謙遜をしないでください。我々が歩んできた歴史とは一線を画した、今を生きる人々はどんなことを考え、どんな風にこれからを生きるのでしょう。私はそれが楽しみなんです」
名前は千空の手を取ろうとしたが、千空はそれを自然に回避した。行き場を失った名前の手は一瞬ところなさげにうろついたが、すぐに何かに祈るように組まれ、名前の胸元へと戻る。やりにくい奴、と千空は嫌そうに呟き名前の組まれた手から、楽しそうに煌めく視線へと目をやり、すぐにどこでもない場所へと逸らされた。
「あ゛ー、……龍水、あとは適当にやれ。俺はやらなきゃいけねえことがまだ山ほどあんだ」
投げやりな千空の言葉に龍水はどうしようもなさそうに薄く笑う。そこには嘲笑の意味は無く、ただ千空のやりにくそうな顔が物珍しいと言いたげだ。名前はそれに首を傾げ、何が千空の琴線に触れたのか理解ができていないといった風だ。
「いいだろう」
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