食事とは


「おー、これは小麦ですねえ」
 黄金色の粒を前に、名前は至極当然のことを呟いた。
 名前の目が覚めてから一週間ほど経ったある日。名前も、そして村の人々も遠慮がちにではあるが積極的にコミュニケーションを取るようになり、遠目で見守っていた羽京や龍水はひっそりと胸を撫で下ろしていた。如何せん哲学者には変人が多いというのが通説で、実際問題その通りだったからだ。その点、名前は比較的思慮深かったと言えるだろう。
 そんな拙いコミュニケーションの中、彼女は周りと協力して野生の小麦の脱穀や精選に尽力していた。原始的な脱穀と、数度の精選、そして乾燥の時間を経て彼女達の前に現れた小麦の実はツヤツヤと輝いていた。ぼんやりと呟かれた名前の言葉には、少なからず感動の意が込められていたのだ。
「挽くのは……コハクちゃんに任せるとして」
 羽京の言葉にコハクは瞳を猫のように光らせ、手に持つハンマーを軽く上下させる。龍水はその様子を見て大きく頷いた。一番食に対して執着しているのは龍水だろう。名前は周りを見渡して龍水のように大きく頷き、そして思う。次に食に執着しているのは自分だろうと。
「『ふすま』はどうされるんですか? 全て選るのは難しいでしょうけど」
 名前はコハクの手で粉々に粉砕されていく小麦を見て呟いた。ふすまとは小麦の実を覆う殻のような部分で、粉の中に混ざることで出来上がった食べ物のなめらかな食感は失われる。その代わり栄養素は豊富で、石化以前の世界でも全粒粉として健康志向な人を中心に愛されてきた。
「今日はテストだからな、そこまで細かくやる必要はねぇだろ。ビタミン不足のこの村にとっちゃ、それも栄養だ」
「そうだな。量に余裕があるようなら選別しよう。俺はフカフカのパンも食いたいんでな」
 千空と龍水が意見をまとめ、出来上がった粉を適宜水や油、塩、重曹と混ぜ合わせる。特に料理に興味のない面々が揃っているせいか、手つきは全てが大きく、悪く言えば大雑把だ。それは名前も例外ではない。各国を旅した影響で多少の知識はあったようだが、発酵させるつもりのない周囲に一瞬考え込み、そういうレシピなのだろうと合点した。
 実際にソーダブレッドのレシピによく似たものであったため、焼く前の生地は綺麗にまとまり、重曹のおかげか表面にもハリが出ているようだった。
 生地をオーブンに入れ、小麦粉のいい香りを体に纏わせた面々は大仕事をした後のようにスッキリとした顔で焼き上がりを待った。共同作業の後だからか妙な一体感が生まれ、体や窯から立ちのぼる香ばしい香りに気分が弛緩する。野生的な食事が多かった数日から数年を過ごしたせいで、嗅覚も鋭敏になっているようだった。
「小麦粉があれば、色んなものが作れそうですね」
 名前は隣で窯を穴が開くほど見つめている龍水に話しかけた。龍水と名前は復活にさして時差がなかったためか、それとも龍水の持つリーダーシップからか言葉を交わす機会も多く、比較的打ち解けている様子だ。
 名前も成人女性であるため打ち解けていない相手にも普通にコミュニケーションを取ることが出来るのだが、距離感を間違えないように懐を探っているような状況な人間がいることも確かだった。龍水は初日のインパクトからか、多少距離が近かろうが遠かろうが気にしないような人間であることは名前も気がついていた。
「フゥン、そうだな。パスタ、うどん、パンケーキやナン……こうして見ると小麦粉はありとあらゆる食文化で重宝されている」
 今後作られるそれらに想いを馳せた龍水は至極浮かれた様子で料理名を列挙する。そこに国籍はなく、本当にありとあらゆる食文化に小麦粉が存在するのだとわかる。名前はその様子を見て、以前研究の一環で絶食をしたことを思い出していた。
「飢えを覚えているうちマフィンなんか食べてしまったら、きっと幸せでどうにかなってしまうんでしょうね」
「菓子には小麦粉が欠かせないからな。現に、この石世界を生きた奴らがわたあめを初めて食べた時のリアクションは見ものだったと聞いている」
 龍水は弾む声で言う。名前はそれを聞いて、やはり早くに復活することが出来たならと歯噛みした。
「そういえば、著書にもあったな。食の話が」
 名前の著書は様々な事柄を簡潔に触れている。食の哲学もその中の一項目であり、対して仔細を話さなかったものであった。しかし、そもそもその議題事態が物珍しかったのもあり龍水は何度もその文字を撫でたのだった。
「よく覚えていますね。嬉しいです」
 著者である名前は自分の書籍がどのように売れ、どのように読まれたのか触れる機会は少ない。かつてあったソーシャルネットワークサービスで生の声も聞くことが出来ただろうが、名前はそれをしなかった。それは機会の損失でもあったが、名前はそれ以上に人と直接話すことに意義を感じていた。だからこそ大学教授になったのだ。
「俺は色々な事柄が好きだが……こと食事という面で見ればそれなりの経験があると言えるだろう。しかし確かに、『極上の食事には記憶が不可欠だ』という一文には首肯せざるを得なかったな」
 龍水が引用した一文は名前の書籍に載っていた言葉だ。一言一句同じではないが、意味は同じものだった。名前はその言葉に目を細め、嬉しそうに口角を持ち上げる。慈しみの表情は龍水にも強く伝わったようで、龍水は一瞬驚いたように片眉を上げ、不敵に笑う。
「『一番美味しかった食事の思い出には必ずといっていいほど人や環境の記憶も付随する。』ですね。そもそもプラトンやアリストテレスの時代から、哲学は本能的なものではなく常に理性的なものだとして、特に本能に近く『下位』だという食について考えられることはありませんでした。近代哲学になってようやく少しずつ取り上げられてきたこの議題ですが、私が取り上げたのはやはり、食事そのものが好きだったからに他なりません」
「そのものというと?」
「ええ、そこが肝要です。私の愛する食事は、味わうことをメインとしますが、しかしそれだけを食事というには、食事という行為の意味が大きすぎますよね」
 熱のこもった演説を始める名前に、龍水以外の人間もほんの少し耳を傾け始めた。話をしていた千空とクロムは会話の内容を希釈し、羽京とコハクは「ふすま」を取り除く作業の手を休ませる。
「味を楽しむ、人と食卓を囲む。食事という行為にほど近いものとしてはこれら。そして、食は思想や信条、宗教にもその力を及ばせます。特に禁欲を美徳とする宗教においては、本能にほど近い食ほどその力は強い。食と人の営みは常に共にあり、それが興味深いのです」
 段々と頬を紅潮させ、落ち着きなくその場を歩き回る名前の様子を龍水は面白そうに眺めていた。話の内容もさることながら、溢れ出る好奇心が彼女の知らないうちに彼女の体を動かしているのだろうと思うとひどく愛らしく感じだのだ。龍水からすれば名前は一つ年上で学生と教授であるのだが、石世界においてそのような序列は無いに等しい。
「食事は突き詰めれば栄養補給ですが、理性ある我々人間は栄養補給だけでない意味を持たせますよね。快楽を得るためにより美味なものを求め、コミュニケーションの潤滑剤として人と食卓を囲む。食という純粋な行為に付与される意味は、必ず人の思想が繁栄されます。美味しいもの、という概念にもそれらはついて回ることでしょう。延命措置のためであれば胃瘻も辞さないという考えを否定する人もいます。食事とは一枚岩ではないのです」
「胃瘻も食事か?」
 龍水が挙手をして、特に許可が降りる前に発言する。その風景は名前からすれば授業やゼミのようで、自分のホームへ戻ってきたと錯覚させた。
「いいですね。胃瘻……すなわち、数千年前の医療における強制的な栄養補給。お腹に管を通して胃に直接栄養を与える延命措置ですが……。龍水さんは食事の核は栄養補給にないと考えますか?」
「その通りだ。俺は食い道楽だからな。味蕾でその味を楽しみ、歯で食感を楽しみ、鼻で芳しい香りを楽しむ。時にレストランの雰囲気や、前に座る尊敬できる人間との会話も共に楽しむことで完成する。それが食事だ」
 羽京は龍水の言葉にへらりと笑った。あまりにも自分と住む世界が違いすぎたからだ。羽京の場合、任務中もストレスのかからないように食事のバリエーションは豊富に用意されたものだったが、龍水のような楽しみ方を出来るほどに潜水艦は広くも、開放的でもない。
「ええ、ええ。そうですね。食事を楽しむためにはそれらの要素はあればあるだけ良いでしょう。翻って、特に食に無頓着な人でも、胃瘻による延命を拒否する方もいます。その場合『食事も自分で摂れなくなったのなら、それ以外のことも満足に行えていないのだろう。それならば生きている意味がない』からという意見が多いでしょう。食事とは最後の砦なのかもしれません」
 ──なぜなら、食事が摂れない生物は全て死んでしまうからです。
 名前の続けた言葉にコハクとクロムが押し黙る。娯楽として成立している食事は生命活動の要でもある。食料問題に悩まされ死者を出してきた歴史のある石神村では、そのことは身に染みて分かっているのだ。
「そうでなくても、まずい食事に耐えられなくて死ぬという例もあります。多分、羽京さんは聞かされたことがあるのでは」
 急に話を振られた羽京は少したじろいで、軽く咳払いをする。
「そうだね。自衛隊に入るための学校で、そんな事例を聞いたかな」
「ありがとうございます。話が広がりましたが……このように、食事に対する姿勢は千差万別で、しかし生きている以上直面し、知らぬ間に各々がそれらに対するスタンスを持っている。単純明快であるにも関わらず、人の思想によって複雑になっているこの行為は、哲学に親しみのない方でも話題に参加しやすいですし、その割に難解で愛おしいのです」
 名前がそうまとめた間にパンは焼けたようだ。若干講義のようになった雰囲気は千空の「窯ァ開けるぞ」の一言で霧散し、色めきだった雰囲気へと様変わりする。
 千空がもうもうと立ち込める煙を手で振り払い、熱い窯にピザスコップを差し込む。ゆっくりと取り上げられたパンは
 ────焦げてる。
 見事なまでに黒く焼き上がっていた。
 目を輝かせたのは石神村の面々で、真っ黒になったパンを手に取り美味しそうに齧る。目を見合わせた名前達もそれに倣ってパンに齧り付くが、案の定表面は岩のように硬く、焦げ目は言いようもないくらいに苦い。パンを楽しみにしていた名前、龍水、千空はこれ以上ないくらいにショックを受け、しばらく倒れこんだまま動かなくなっていた。羽京は先ほど自分で言った言葉を思い出し、このまま自分たちは死ぬのかもしれないと思った。



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