会話とは




「はあ。何だか変なことを口走ってしまいました」
 名前は龍水から手渡された紙とペンを見てため息をついた。幸いなことに周りには誰もおらず聞かれることもなかったが、もし聞かれていたのなら先程の失態を再び話さなければならなかっただろう。
「けど、やはり……。いえ、そんなことを思う暇があるのなら、この紙を埋め尽くすのが先ですね」
 名前は周囲を見て周り、誰もが忙しなく働いているのを見て、自分が何もせずうろついていることに一抹の不安を覚えた。無論、この行為が名前に課せられた任務のようなものであったが、ものづくりをすることで先へ進もうとしている村人や、これからの季節に備え身支度を整える村人の手足にならなくて良いのかと考え込むのも無理はないことだった。
「クロムくん……は、千空のところでしょうか。ええと、ならば……」
 村民の名前を覚えきれずにいた名前は一人になってようやく心細さを感じるようになった。それは郷愁の念とも異なるもので、自分の無力さを一身に浴びるようなものだ。名前は一瞬たたらを踏んだ。しかし、後ずさった自分の足を見て頭を振る。突然の状況にまだ自分の心が揺さぶられているのだ、そう自覚することで不安を振り払う。
「あの、すみません」
「私たち?」
 名前は村を軽く見渡し、岩陰で休んでいた女性たちに声をかける。彼女たちは昨日、目を覚ました名前に対してさほど興味を示さず、それよりも知り合いの男性について聞いてきた人間だった。名前はその質問に大層困り果てたものだったが、彼女たちの生きる様には興味がある。彼女たちの現状の目的はいい伴侶を見つけ、それに頼って生きようという家父長制に則ったもので、科学の発展により一人の男に頼って生きずともよくなる可能性を見出したら考えはどのように変わるのか、または変わらないのか。名前にとって人生観の変容には目敏くいたかったのだ。
「今、お時間はありますか? ええと、確か……宝石の名前をした。……え、エメラルド、さん。と、ルビーさん……それから、ああと……アメシスト……さん?」
「ルビィしか合ってないじゃん! はは、そりゃ一気に覚えろったって無茶よねー」
「もう! 私はサファイア!」
「アタシはガーネットだよ」
 憤るようなポーズで笑う三姉妹に名前は肩をすくめて頭を下げる。人の名前を覚えるのが得意でなく、いつも学会の前には名刺を確認している名前にとって、その怒るようで茶化している対応は救いだ。
「ごめんなさい、まだ覚えきれていなくて。でも御三方の名前は覚えました!」
「うん。それで、何か話があって来たの?」
 ガーネットは三姉妹の長女だ。長いまつ毛や血色のいい唇は普段の生活習慣の賜物だろう。彼女は半ば呆れた様子で名前に話を促した。名前はその言葉で思い出したように紙の上にペンを滑らせ、三人の名前を書き記す。文字を知らない三人は描かれた線に首を傾げたが、名前は構わず紙から視線を上げた。
「ここのところ……千空が目覚めてからというもの。この世界の常識は日々刷新……新しくなっていってると思うんですが、そのことについて、御三方はどのように感じましたか?」
 名前の問いかけに村のキラキラ三姉妹は少し考える風のポーズをとって、数秒後には彼女の質問の真意を探ろうと瞳を覗き込んだ。名前の瞳は三人の顔をじっと見つめて、手に握ったペンは硬く握りしめられている。三人の視線に気がついた名前はどう話したものか、と呟いた。
「難しい受け答えである必要はありません。なんでもいいんです。例えば……美味しいご飯が食べられて嬉しいとか、生活が少し楽になったとか、お仕事が増えて面倒だとか」
 握りしめていたペンを指先で器用に回し、名前は薄く笑った。そういうことね、とルビィが小さく頷きまた少しの間顎に手を添えて考え込む。一瞬の沈黙は夏の気候の変化を名前に気が付かせた。自分が生きていた頃よりも格段に過ごしやすくなっているのだ。それは人間が生命活動を休止しているからだということは想像に難くない。
「まあ、色々思うところはあるけど……やっぱりご飯は大きいわね。食べたことのないものが、食べたことのない味で出てくるんだもの」
「そうね。それに、食べ物が獲ってくるだけじゃなくなったのも! 今までは食べ物を獲るのが上手な人が好きだったけど、もし今作っている小麦畑がうまくいくなら、食料調達が今よりも簡単になるわけでしょ? じゃあ、狩りが得意な人より、ただただ働き者の男が狙い目なのかも」
「やっぱりそこはイケメンっていう基準が揺るがないわね。まあでも、そうね、食べ物がもしも簡単に作れるようになるのなら、子供を持つのに周りを気にせず済むようになるかもしれないのは希望かな」
 三人は口々に言う。今までの価値基準が自分をいかに養える男を捕まえられるかだったことは今も揺らがないようだったが、それでも特に畑への期待は高い。名前はペンを走らせながら頷いた。ストーブも導入され、厳しい冬にも耐えられるようになった。食料を適切に保つ方法も教えてもらった。冷蔵庫なるものも、そのうちに導入されることとなるだろう。そうするとより、食料に関する問題は無くなっていくと聞いた。他の発明は正直よくわからないけれど、生活が豊かになっていっているのは肌に感じる。三人は千空たちの目的には興味は無いものの、科学それそのものの有用さは理解しているようだった。
「最初は妖術使いだなんて、クロムの気持ち悪いお遊びだって思ってたけど……ああやって生活に生かせるなら、妖術……いいえ、科学も気持ち悪いなんて言葉で片付けちゃいけなかったって少し反省しているの」
 なるほど。名前は再び小さく頷いた。今や立派に千空の右腕を任されているクロムも、かつては原初の科学で人を驚かせる奇妙な存在だった。そのせいで村の敷地から追いやられ、橋の先へ居を構えていたのだ。倉庫はクロムの家をそのまま使っているらしい。
 知らないということは恐怖へと直結している。関わらずに生きてこれたのならば、変に関わるよりも現状維持を選ぶのは人間の性だ。そして、自分に利益があると分かるや否や懐へと招く。名前はそういった人間のどうしようもないところが嫌いではない。そうやってお互いが……時には片方だけが歩み寄った結果、良いものはきちんと広がりゆくものなのだ。少なくとも現在は。
「それに、今は……腕の立つ人しか行けないんだろうけど……大きな船ができたら、海の向こうまで行くことができるんでしょ? どんなものがあるんだろう。今まで小さな船でそこらへ行くことはあったけど……あんまり遠いと転覆したり、大潮に揉まれたりして死んじゃった人も見てきたから、想像もつかないな。もしかしたら島の向こうにイケメンや、美味しいご飯や、キラキラしたものがあるのかもって思うと、ワクワクする」
 ルビィが海を眺め、まだ見えぬ大きな大地を見ようと目を細めた。名前達のような、フェリーや飛行機が当然のように通っていた時代ならいざ知らず、今の状況では隣国である韓国や中国ですらも遠い。そもそも石神村は太平洋に面していて、隣の大地である北アメリカ大陸は姿すらも見えたことがないはずだ。
「いずれもっと人が増えて、資源も確保出来るようになったなら、様々な地を見ることが出来るでしょう。楽しみですね」
 いつになるのか、自分たちが生きている間に達成されるのかも分からない未来を口にし、名前は手にした紙から視線を上げた。何を考えているのか、三姉妹の顔は複雑そうだ。
「それに、きっと医療もこれから発展していくでしょうから……。人の寿命は今より長くなるでしょう。小さな怪我で破傷風……病気にかかることは少なくなりますし、妊娠や出産の際の死亡率も低くなるはずです。今は慎重にしなければならないことが当たり前に出来るようになる…………と、断言はできませんが、高い確率でそうなります。御三方は──」
 言って、名前は言葉を区切る。半端に放たれた言葉に三人は怪訝そうな顔を隠しもせず、少し開いたままかたまる名前の唇を見ている。名前の視線は何かを考えるようにぐるりと一周し、しばし閉じたのちにゆっくりと開かれた。長いまつげに縁取られた瞳はその奥の顔を少しも覗かせない。
「いえ、あーと……。お話を聞かせてくださりありがとうございます。今日のところはこれで」
 未だ置いてきぼりになっている三姉妹を横目に名前は踵を返す。行くあては特に無いのに足の進みだけは強い意志を持っていて、三姉妹は何か用事を思い出したのだろうと顔を見合わせて笑っている。名前はその声を聞きながら下唇を軽く噛み、内心己を叱責していた。自分は一体三人にどのような言葉をかけようとしていたのか。知っているのは名前本人だけだ。
 ──御三方は、それでも結婚したいと思いますか?
 それは名前の思想の一つであり、哲学の一つでもあった。成熟した社会で孤独に生きること、そしてその意味。しかし未だに助け合いと繁栄を願う段階の現状ではそのような言葉は不必要に混乱を招きかねない。ただでさえ、名前が歩んできた時間でも激しい口論になりかねない議題あるのに。知識人としての立場で、しかもまだ学問や哲学に明るくない、万が一にも自分の言葉を鵜呑みにされかないような信頼関係で、まるで結婚や番うことが悪であるかとすら聞こえる言葉は使えない。
 名前は掛橋を渡り、森と村の境目で腰掛けた。大きな木がこれまた大きな影を作り、冷えた風が頬を撫ぜる。
「やり方をきちんと定めなければ、何だか要らないことばかり言ってしまいそう……」
 嘆息を漏らし、木の葉を掠めてなお強く光る空を見上げる。小麦を発見してからというもの、司帝国にいる大樹と他数名が土を耕しているという。名前が目覚めると同時期に進められたその計画はしばらくするとその芽が出るまで発展し、安定すれば余った小麦を使って料理をしてみる算段らしい。太陽はそれに欠かせない要素のひとつだ。
 人間の繁栄に憂いを帯びる名前とは正反対の生命力溢れる未来に、名前はまた深く嘆息した。全ての思想は環境に少なからず影響を受ける。数千年前と現在の環境の違いを名前は理解していながら、まだ自分ごととして捉えられていない部分があることを自覚した。
「私ばっかりが質問をするようじゃダメですね。やっぱり、まずは円滑なコミュニケーションから!」
 名前は意気込んで手に持った紙を見下ろす。話の途中で書き留めるのを辞めた紙面には、先ほどの三姉妹の名前と、よれた線の似顔絵が書かれているだけだ。名前は会話を逐一書き留められる居心地の悪さは何度も指摘されてきた。その度、自分は学者としては異例の才能があったのかもしれないが、ことコミュニケーションにおいては周囲の同年代と比較しても見劣りするのだと確認させられた。
 特にこの石の世界においてコミュニケーションは重要なツールだ。名前は気合を入れ直すように千空お手製の鉛筆を握り直し、照りつける太陽にそれを掲げて、ついでに大きく伸びをした。



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