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althaea0rosea

「なまえ、いくつ?」
「……なにがですか?」
「歳や、歳」
「?……分かりません」
「そんなもんなん?へぇ〜お誕生日くらい盛大に祝われとるもんやと思っとったわ」

この屋敷に身を隠し始めてから、早くも一週間が経ちました。その間起こったことといえば、特に何も思い当たらず……私たちはひたすら言葉を交わしていました。それが一番の暇つぶしでもあり、親睦を深める行為でもあったから。

「よく分かりませんが、あの建物にいた年月は、たぶん……両手と両足の指で足りるくらいだと……思います」
「ならま、チリちゃんの百個くらい歳下やな」
「……」
鬼の寿命が長いのは有名なことなので、特に驚きませんでした。なおさら吸血鬼には不死の一族も多いらしく、年齢が千を超える者もあちこちにいるのだそう。
「なまえはまだ幼いのに、えらい丁寧な言葉遣いをするんやな」
「……あの方が、そうしなさいと。他にも教養から何まで、色々なことを教えてくださいました」
「オモダカさんか」
私がこの世に産み落とされてからつい数日前まで、私のお世話と管理をしていたあの方。美しく高潔で……私のことを“食べ物として”可愛がってくださった。
とはいえ、本来食糧に過ぎない人間が、あんなにも恵まれた環境で過ごすことが出来たのは、彼女が私の血肉に食糧以上の価値を見出したから。……それが今は、脱走してこんなことになってしまったけれど。


「なまえ、おいで」
炎を出すのが得意なバクーダが温めてくれた、石風呂の湯で体を清めたあとは、いつもチリさまが髪を梳かしてくださいます。そんな彼女の髪を梳かすのは家政婦の仕事のようだけど……彼らはいつもやることを終えるとすぐにどこかへ行ってしまうから、神出鬼没な仕事人のイメージが定着しつつあります。
そうしてチリさまと部屋でふたりきりになったところで、今日は少し踏み込んだ質問を投げかけられました。
「なまえはさ、なんであそこから逃げたん?」
「……それは」
「あん時のオモダカさんの狼狽えよう、半端なかったで。せやからチリちゃん近寄らんとこと思て、外回り行くフリして……あの森でなまえのこと見つけたんや」
ずっと気になっていたのでしょうか。チリさまは一旦ブラシを動かす手を止めて、後ろから顔を覗き込んできました。しかし私が少し言い淀むと、何かを汲み取ってすぐに言葉を続けました。
「まあでもオモダカさんってちょい束縛気質なとこありそうやもんなあ。会う度会う度なまえのこと話すから、ヤバ〜思っとったわ」
「……」
「けど、それだけお気に入りやったってことやで。愛されとったんやろ。なまえのことは自分の子供みたいに大切にしてた」
「……」
私も母親のように慕っていました。
「てかまあパルデア産の人間それ自体、パルデアの宝や〜って親バカみたいな呼び方しとったけどなあのひと……それでもなまえは自由を選んだんや。すごいなぁ。ほんま、どこまでも特別な子やね」
「……」特別?

今の時代、人間は数がとても少なく、貴重な存在だということは知っています。でも、私は自分がそんなにも価値のある存在だとは思っていませんでした。話を耳で聞くだけでは、外の世界の実態がどんなものなのか、知る由もなかったから。
それに、あの独房はむしろ危険物を扱っているかのような様相をしていました。私は自分の何が他の人間と違っているのか全然分からなかったから、特別だ、なんて言われても、実感が湧きません。
「……私は、特別なのですか」
「ま〜〜、骨まで平らげたチリちゃんに言わせると、特別以外のなんでもないな」
「……どの辺りが特別なのですか」
「味と、栄養の含有量と、発情の強さと、可愛い身体しとるのと、あとは味かな」
「それを聞いても、よくわかりません」
「チリちゃんがどんな様子でなまえのこと襲ったか、ちゃんと覚えとるって言っとったやないの」
「それはそうですけど……」
発情期がきたとき、以前は機械で処理をされていたから、発情の香りに理性を崩された鬼がどうなるのかは襲われて初めて目にすることになりました。だから、これが普通なのだと襲われながら思った記憶があるのだけど……あれが本当は特別だと言うのなら、何が普通なのでしょう。ますます分からなくなってしまいました。
「ともかく、特別扱いされとったおかげでなまえは今日まで生きて来れたんやし、言葉も知識も鬼並に身についとるんや。それって結構えらいことなんやで」
「……はい」
「普通やったら生まれてすぐに飼育施設に回されて、子供作らされるか工場行きや。そんで最終的には良い具合に加工されて、高級食材として鬼の食卓に並ぶ……。運良く美味い血に恵まれたとしてもや、眷属になれるのもかなりの少数。このことは、習わんかった?」
「……習いました」
「てことはつまり、なまえはそのどれにも当てはまらない、かなり珍しいタイプってことや。どや、特別やろ?」
「……」
特別、なのでしょう。私が置かれた状況を考えたら。
「まあ……特別ウマいせいでなまえはチリちゃんにあんな目に遭わされてしもたんやから、それについては、うーんと、ゴメン……」
「ち、チリさま……」
彼女は定期的に落ち込む時があります。一日に一回は、私を襲ったことについて思い出したように謝ってくれます。正直もう十分なのに、本当にお優しい方です。
「あ〜やめやめ!変な空気になりおった。堪忍堪忍、もうこの話やめ!」
チリさまはお話をする間丁寧に丁寧に梳かしてくれた私の髪に、頭から突っ込みました。後ろから抱きしめるように、大切に腕をまわして。
「ごちゃごちゃ言うてしもたけど、なまえはなまえやもんな」
「私は、私……?」
「おん。ちなみにチリちゃんにとってはなまえはもう特別な存在やで。味がどうとか関係なく、なまえはもう、チリちゃんの眷属やもん」
「……」やもん……。
それを言うなら、私の方こそ、あなたを特別に思います。



「そーいえば!いっちゃん気になってたのが、そもそもどうやって逃げてきたん?とてもなまえにそないな所業、できるようには思えんのやけど」
寝る支度を整えたので、さっそくベッドに入ったところでチリさまが言いました。彼女はベッド端に座って、小さな使い魔のウパーを膝に抱えてぷにぷにと体をいじくり回しています。ウパーは毒を持っていると聞いたけど、そうやって普通に触っても大丈夫なのでしょうか……。心配になる私の胸中など露知らず、チリさまは平気そうに喋っています。
「なまえがいた保護観察所は、国が持っとる施設や。見張りとかぎょうさんおったやろ?サボってたチリちゃんが言うのもアレやけど、相当レベルの高い警備が揃ってたはずやのに」
「力を貸してくださった方がいて……」
「なんや、その親切なんは。ほんまにぃ?んな人間に手を貸すようなやつなんか、チリちゃん以外に思い当たらんで?どこのどいつや」
「その、どちらかと言えば、見逃してくれた、という方が正しいかもしれませんが」
当時のことを思い出しながら、特に隠す必要もないだろうと思い口を開きました。

「オーリム博士という鬼です」

「あー…………、はい、はい。あのひとか」
名前を聞いた途端、妙に納得したような反応をするチリさま。
「……知っているんですか?」
「話したことはあるけど、よう分からん。でも確かに、あの博士はいつも誰の味方でもないみたいな、一匹狼みたいな面してたっけ。ああ、旦那さんはちゃんとおるけどな。あと、息子さんも」
「へえ……」
「貴族には珍しく、鬼同士のおしどり夫婦やねん。ていうか、夫婦揃って有名な博士やで。知らんやつなんておらん」
担当の先生も生物に詳しかったけれど、博士も人間と鬼について研究していたそう。私は人体実験などでお世話になっていたこともあり、中央の研究室に“テレポート装置”というものが置かれていることをかなり前から知っていました。

『この機械の上に立つと別の場所へ飛ばされてしまうから気をつけるんだ。なに、外出する時などに便利なのだよ。建物の外に繋がっているからね』

まるでここから逃げろと言わんばかりに、博士はその装置のことを教えてくれました。騙されているのかもと思いつつ、一か八か脱走の際に私がそこに逃げ込もうとした時、彼女は通報するでもなく、親しげに手を振って見送ってくれたのを覚えています。見逃してくれたのだ、と思いました。
さらにそれから私がチリさまに見つかってしまうまで、少なくとも一週間以上は追っ手が来なかったことも考慮すると……上に報告をしなかったどころか、テレポート装置を使用した形跡すら消してくれたのだと推測できます。
「テレポート……はあ〜〜!なるほどなぁ、そら思いつかんかったわ!せやったら、うちの敷地内におったんは……」
「気づいたらあの森の中でした。飛ばされたあと、少し歩いたらちょうど小屋を見つけたので、その中でしばらく身を隠していました」
「は〜〜。チリちゃんの屋敷って中央からかなり遠いやん、てっきり自力で歩いて来たんかと思て、人間がどんな体力してんねんって思っとったけど、は〜〜なるほどなぁ……今ので全部腑に落ちたわ。って、なんで博士がそないなこと……」
「さあ……それが、分からなくて……」
「こわぁ。科学者ってほんま何考えとるのか分からんわ……」
あの時、博士が何を思って私を逃がしたのか、私には分かりません。面白いと思ったのか、それともどうでもよかったのか。……テレポート先が追っ手に気づかれにくい森の奥深くだったことも、彼女の思惑通りだったのでしょうか。不思議は残ります。


こんな話をしたあとだから、急に今後のことが不安になり、ベッドに横になってから尋ねました。
「チリさま。私たちはこれから、どうなるのでしょうか」
「そんなん、うちらふたりで幸せになるしかないやん。堕ちるとこまで堕ちたんやから」
「幸せに……」
「せや」
なんだかものすごく漠然としている答え……。
「大丈夫やで、これからどんなことが起こっても……なまえのことはチリちゃんが守ったるさかい」
「……はい」
「これでもトップの認めた四騎士?みたいなんの一人なんやから。まあ“元”やけど。戦闘なら誰にも負けへん」
「……はい」
「あっ。アオキさんは別やで!?アオキさんだけはな、チリちゃん物理的に敵わんのや。アレは無視してな、考えたらあかん。なっ」

何があっても守る。決して、私の血肉を独り占めしたいが為に言っているようには思えませんでした。この数日間一緒にいただけで、それが上辺だけの言葉ではないことは明確に感じ取れました。私の中には既に、彼女に対する信頼と忠誠心が芽生えているから。

「このチリと《つがい》になったこと、絶対に後悔させんから……絶対に見捨てたりせえへんから。なまえのこと、大切にさせてほしい」

チリさまの温かい手が私の頭を撫でました。たったそれだけのことで私はとびきりの安心感を得て、あっという間に眠りについてしまいました。


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