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althaea0rosea

「ああ、コックさん。せっかく並べてもろたのに悪いんやけど、うちの席はそこやのうて、なまえの正面にして。……ん、そこでええよ。おおきに」
「?」
「この子は今日の厨房担当やねん。なまえもあとで挨拶しとき。人間に会うの久々やって楽しみにしとったみたいや」

一晩明け、新たな一日が始まりました。私はここに来てから丸二日眠っていたそうなので、体感だけで言うと今日は私が迎える初めての朝。それにしても、追われている身だということをつい忘れそうになるくらい、この洋館は静かで穏やかです。
とはいえ恐怖心や不安感は未だに強く残っていて、さっきも意心地の悪い夢を見て目が覚めたくらいだから、心の平穏は訪れそうにもありません。昨日温かいスープを食べてぐっすり寝たことで、体の調子はよくなったけれど……。

「ほら、なまえの席はここな。チリちゃんはあっち」
このお方はまるで住み慣れた屋敷のように案内してくれているけれど、ここに来たのはつい三日前。チリさまは適応能力が高くて、私も見習わなければと思いました。
綺麗に掃除され、テーブルクロスまで敷かれた長方形のテーブルには、既にふたり分の食事が並べられていました。何故かチリさまは角の席から私の向かいに食器を移動させていたけど、何か意味があったのでしょうか。よくわかりません。
それより、昨日チリさまが教えてくれた家政婦たちは、思っていたよりも小さく、実体のない姿をしており驚いてしまいました。先程「コックさん」と呼ばれていた彼女は、身長に比べても随分と大きなトレーを片手で軽々と持ち、ぷかぷかと宙に浮いています。とりあえず、ご挨拶とお礼をする私。
「……はじめ、まして。お料理、ありがとうございます……」
すると、楽しそうにくるりんと一回転してお辞儀をしてくれました。本家の屋敷から避難を強いられているのに、とてもこの状況を嫌がっているようには思えない様子でニコニコと笑っています。昨日チリさまが言っていた通りです。おかげで気まずい気持ちにならず、少し心が安らぎました。
その家政婦は配膳を済ませたあと、チリさまの周りを一周してからどこかへ行ってしまいました。今のが普段の挨拶なのでしょうか。主従関係でありながら、仲が良さそうな感じ……なんというか、見ていてとても微笑ましいものでした。

「なまえは好きな食べ物とかあるん?」
「……。さあ……」
「さあってなんやねん」
「そんなこと、考えたことがありません」
「へえ?なら前はよく何食ってたん?」
「ほとんど毎日、同じものですが……」
「どんなやつや?」
「ええっと……正しい名前は分かりませんが、担当の先生は『効率的に栄養が取れる完璧な機能食』とおっしゃっていました」
「あーーーね。有事の時に支給されとったあのゲロマズイ物体のことやね。あれ毎日食わされとったん……?そら、大変やったねぇ……」
「……?大変、だったのでしょうか……」
今、心底可哀想な目で見られたような。
「でも、ここでいただく食事はどれも美味しいです。昨日のスープも……」
「せやろ?おかわり自由やで」

チリさまは食事中も絶え間なく話しかけてきました。もちろん、私が食べているのを気にかけながら。こんなふうに誰かとお話をしながら食事をしたことがなかったので、少し大変です。全然嫌な気持ちにはならないのだけど……。
「スープは何が美味かった?肉?汁?ちなみにチリちゃんはどっちも好きや」
「……?」
さっきからチリさまが何を聞き出したいのか分からず、少し考え込んでしまいました。咀嚼しながら考えて、結局聞き返しました。
「……なんのお話ですか?」
「うん?スープの話やで?」
「……どうしてそのような話を?」
「えー?チリちゃん食いもんの話するん結構好きやもん」
「……」やもん?
「食べ物以外にもなまえの好きなもん色々知りたいし。てゆか歩み寄ってるつもりなんやけど……人間って、普段こんな話せんの?」
「さあ……分かりません」
「んん?なーんか噛み合わんなぁ……」
私の煮え切らない返事に、腑に落ちないという顔をするチリさま。独りでいるのと一方的に話しかけられるのは慣れているけれど、自分のことについて質問をされると何を答えればいいのか分からなくなってしまう……。
「私は……生きている中で、私以外の人間を見たことがありません」
「そうなん?初耳や。まあ確かにずっと閉じ込められとったんやから、そんなん当たり前か」
……このお方は国の鬼なのに、私のことをよく知らないようです。それもそうだ、たとえ国で働いていても、保護下の人間に関わらない鬼はたくさん存在しているはず。
だから今、こうして興味津々に色々聞いてくださっているのでしょうか。出来ることならば全てお答えしたいけれど、やはり慣れないことをするのは大変です。



「一、十、百……。ハァ?エグ、なんやこの数。スゴ……自首したら億万長者やんけ」
「……チリさま。今日は、何をするのですか?」
「や!ちゃうねん!自首なんかせえへんよ!今のは冗談で言うただけやからな!本気にしたらアカンで!」
「チリさま……?」

食事を終えた私たちは、そのまま食堂でそれそぞれ時を過ごしていました。指名手配中なのに、優雅にティーカップを持って新聞を眺めるチリさま。ご自身の手配書を眺めてあーだこーだ言っているところを、おそるおそる話しかけると、彼女はなにやら不満そうな顔をして新聞をおろしました。
「うーん、なんや堅いよなぁ。ずっと気になっとったんやけど、それ……もっと馴れ馴れしくチリちゃんって呼んでええよ」
「……?いいえ。鬼さまのことを、そのようにお呼びすることはできません」
「そう?まあ、好きに呼んだらええけど……。チリちゃんは、なまえのことなまえって呼んでもええ?今更?」
「……私には、選択する権利などありません。なので、わざわざそんな質問は……」
そう言うとチリさまは困ったように眉を寄せて飲みかけのお茶をテーブルの上に置きました。そして、立ち上がりました。
……何か変なことを言ってしまったかな。少し不安になる私。彼女はこちらまでやってくると、すぐ隣の席に腰をおろしました。
「なまえ、ちょっと頭貸して」
「……?わかりました。でも、どうやってお貸しすれば?」
「少し、触るよ」
はい、と頷く私。するとチリさまは私の頭を手で挟み込むように触れ、なにやら自身の額を近づけています。何かを探っている様子。
「うーん、あの人も用心深いやっちゃなあ。チリちゃんになんとかできるかなぁ……」
「……?」
何の話?首を傾げる私に構わず、彼女はしばらくの間黙って何かを思考していました。その後、なにやら呪文のようなおまじないのような……例の鬼の言葉で小さく囁きました。
𝕽𝕰𝕾𝕮𝕴𝕾𝕾𝕴𝕺𝕹 無効化 
その途端、頭の中がふわりと反転するような感覚になり、思わず前方に倒れ込みそうになりました。
「あ……、……?」
同時に視界がちかちかする。そうなることを分かっていたかのように、咄嗟に上半身を支えてくれたチリさま。抱きとめられたまま目の前の肩に頭を押し付け、数秒間じっとしていたら、頭のなかでだんだんと、絡まった糸がするする解けるように、もやもやが晴れていくような感じがして……顔を上げました。
それは軽微なもやもやだったけれど、確かに今ので完全に取り払われてしまった。なんなのでしょう、今のは。
「ほな、もう洗脳解けたやろ。昔のことなんか忘れて、なまえはなまえの好きに生きたらええんやで」
洗脳?そんなものをされた覚えはありませんでしたが、この、頭の中がすっきりした感じは、まさに洗脳が外れたかのよう。
「……チリ、さま」
「もう一回な。なまえのこと、なまえって呼んでもええかな」
同じ質問なのに、まったく違う言葉を投げかけられたかのように錯覚しました。どうしてさっきはあんなにも自暴自棄なことを言ったのでしょう。洗脳だなんて、いったいどういうことなのか……それより今は彼女から投げかけられた質問の答えを、自分の頭で精一杯考え、答えました。
「……は、はい……。なまえのことは……なまえとお呼びください」
「ん。わかった」
私の答えに、彼女は満足したように優しげに微笑みました。その笑顔を見たら、今度は心が解けていくような。さっきから、感じたことの無い感情が心の中を埋めつくしているようです。


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