memento mori




 日記の文字は歪で、ぐにゃぐにゃと子供のような規則性を無視したミミズの這ったものだった。大学ノートは二冊目に差し掛かっていた。山もなく平に続くその時々に思い出す吟だった頃の記憶。海潮音が心拍の鼓動をなぞって往来する。外は熟れた火の玉が地球の端へと落ちていくところだった。
 ランタンに灯火し海辺の宵の口を見守る。
 今夜は星々のショーが賑々しい。その感慨深さは一九九九年七月の船上と結びついていた。




 彼と再会したのは偶然を装ったホンファの策略だった。
 一九九九年、七月。



 吟は遊学終わりの二ヶ月のサマーバケーションに身を投じていた。
 大学ではプロジェクトに必要な人脈づくりの良い機会となり、概ね進捗は順調で気分が良かった。
 一等客室のバルコニーの籠椅子に掛けてレモン水を吸う。その上を優雅にカモメの番がすいすいと泳いでいる。一歩船を降りて巷に出れば一人ではいられなくなる。地球上でもっとも安全で孤独を満喫できる場所。その日までは怠惰な休日が続くと思っていた。


 真島吾朗との再会は船内のカフェテリアで、ちょうどランチからデザートに差し掛かる頃だった。
 不意にその声は頭上から降ってきて脊髄反射で見上げた。その時の心境は筆舌に尽くしがたく、表情はさぞかし間抜けなものだったろう。彼はトレードマークの短い髪と口元を囲む髭とやはり眼帯をして、意外なほどTPOに気を遣った服装でそこにいた。

 吟の体はまず思考よりも先に体が動いた。テーブルの上に所狭しと並んだデザートをよそに椅子を蹴り飛ばす勢いで離れ、彼から逃げた。後方からは「吟! おい、待てや!」と呼ぶ声が生々しく鮮明に反響した。船上では目立たないように生活しているのに真島が名を呼ぶことで好奇心を集め、周知してしまわないかと強烈な焦燥感がその歩調を強めた。


 「………ホンファの、差し金ね?」
 「まぁな。……俺は仕事や。ホンファに頼まれたんやが……この感じやとそれもなんか嘘くさいの」
 「何を頼まれたの」
 「シンガポールで、打ち合わせ現場のダミーっちゅうところか……まぁ、あいつには借りがあるさかい手伝ったってもエエ思たんや」
 「ゲッヘントマン・ケルヒャーとの契約ね?」
 「ああ。それ向こうの表の名前やろ?」
 「契約自体は本当よ。……だから予定通り出席して。勘づかれると面倒なの」
 
 ホンファはさぞかし妙案だと思ったろう。
 馬鹿げた名前の取引相手ですでに失笑ものだが、本物の仕事を依頼して治外法権の船上で彼と引き合わせたのだ。

 「わかった。……ほんで、なんで船におんの」
 「……私? あなた……。なんでもないわ。ちょっとした休暇よ」
 「……休暇、のう。それがカフェで大食いしとったのに繋がるわけかい」
 「…………蒸し返すならあなたとは喋らない」

 実際のところ吟は動揺していた。
 もう何年も会っていないのにも拘わらず、目の前の長身の男は昨日もその一昨日も会っていたように空白の存在を無視してそこにいる。妙に馴れ馴れしく、犬のようなじゃれつき具合で距離を置きたいところを踏み越えて詰め寄ってくるのだ。
 
 真島は何かと理由をつけて吟の傍らに居たいようだった。
 そんなことは食事の同伴を乞い願う姿から見通せた。明言なくとも吟に対しての好意を悟るのも時間はかからなかった。とっくに少女の頃を過ぎた女にはいささか眩すぎる恋慕の眼差しであり、それゆえ困惑した。
 
 月光のふもと。夜風を浴びながらそれまでの十年についての話になり、意外な真実に触れることとなった。
 
 「……あなたは、結婚したって聞いたわ」
 「あぁ、せやな。いうて、だいぶ前の話や」
 「別れたの?」
 「聞いとらへんの、ホンファから」
 「……そうね」
 「まぁ、せやな。短いで、ホンマ。一年持ったか、持たんかったかっちゅうとこやな」
 
 懐かしむ様子もなく、あっけらかんと語るのにまず驚いた。
 その情報をホンファから伝え聞いていなかったこと、彼の幸せの期間が余りに短いこと。
 とうに過ぎたこととして真島は今日までの日々をそれなりに上手くやってきたのだろう。吟はそれになぜか傷ついていることを自覚した。

 彼女は密かに、顔も知らない女性に託していたのだ。自分の代わりに真島と幸せに暮らせる特別で恵まれた人に。いわば勝手な期待というのだが、吟は常々真島について心がけする時に幸せな女性を想像したのである。互いが愛する人であり、満たし合うことができて幸福であるなら、天邪鬼な女の心さえも慰撫される。現実はずっとはやく吟を裏切っていた。――そのことに、かすかな苛立ちを憶えた。

 
 人を動かすことは簡単だ。
 人を傷つけることも。無意識に感じ取れる相手の欲求に都合よく合わせたり、逆らったりするだけでいい。
 対象は真島も含まれていた。吟は十年の空白を超えて再び好意を向けてくる男にどうすればいいかわからなかったし、自分自身の感情もよくわからなかった。

 シンガポールに着いて、朝食会場で真島は吟に仕事終わりにデートをしないかと誘った。
 意地の悪い性根が顔を出して、わざと皮肉を飛ばした。

 「ていの良い通訳ガイドが欲しいだけじゃなくって?」
 「ひひ。一理あるが普通に観光したいだけや」

 彼は怒るでも挑発の仕返しをするでもなく、正直に笑ってロールパンを齧った。
 困った女を演じて彼に世話を焼かせるのは妙な感覚に囚われた。愛を試すような危険な火遊びであることは知っていた。
 吟は矛先を策略者に向けた。シンガポール・クルーズセンターの待合室の公衆電話から彼女の日程を思い出し、本部に繋いだ。ワンコールで電話番の男が出て取り次ぐやいなや彼女は上機嫌であった。

 「どういうことなの」
 「いやはや。ご好評いただけてなによりです!」

 吟はそれだけで粗方察しがつき呆れ返った。
 夏季休暇を取ることを勧めたのも発端はホンファだったからだ。ここ何年かは欧米での人脈づくりに奔走し、ときにPRのための”課外活動”に明け暮れ、国際機関のロビー活動も熱心に行い働き詰めだった。無論本業の貿易運輸会社の仕事もあれば組織の管理院の決裁や三合会全体会合もある。厳密には仕事の量より質であり、方々への移動を効率よく行うにはあと二人くらい自分が必要だった。

 ホンファは吟のスケジュールを把握している。ちょうど休暇前のカンボジア訪問がキリがよいと、ある朝長期滞在していた家に手紙が届いた。船のチケットとその日の各公共交通機関の時刻表がまとめられており、手紙には『夏休みはいかがですか?』と記されていた。律儀な吟は一度本部に戻ることを考えた。出先の現地に寄港する船でそのままクルーズなど、進行中のその他の仕事の調整が気になって休めたものではないからだ。

 アポを取った時、すっかりお見通しだったのかホンファに付いている事務係の女が伝言を読み上げた。

 『すべての予定をリスケジュールしました。次回の仕事始めは九月。八月にまた追加のチケットを送付します。細かいスケジュールはまた後日お知らせします。何かあれば本部か滞在先にご連絡を。――チャン・ホンファ。P.S.よい休暇を!』

 その時も呆気にとられ、結局彼女の手配通りの予定に従った。
 なんとなしに何かを企んでいると勘づいたが真島との再会で明確になった。ホンファは二人の復縁の場を提供したのである。かつて、イリス……エリカと引き合わせたように。
 
 ホンファは長い年月を経ていても関係修復ないし改善が可能であると思っているし、真島吾朗に対してもうまくいくと思っているのだ。

 「日頃の感謝を込めてちょっとしたサプライズですよ、大姐」
 「なにが目的」
 「目的ですか? そんなものはないです。あなたと違って向こう見ずなので」

 いけしゃあしゃあと。
 日頃の仕返しもあってかイタズラっ子の如く、くすぐったそうに笑いを堪えられない様子である。

 「それより早く待ち合わせに行ったほうがいいと思いますよ。商談は略式で……ああ、そろそろ終わるみたいですから」
 「……それは問題ないわ。もうセンターにいるもの」
 「あ。そうですよね、ふふ。知ってますよ、今のはカマをかけたんです。慌てふためくところを見たかっただけです」

 ホンファは吟の予定を把握しているならこの待合室のどこかで監視していてもおかしくない。
 そして今、『慌てふためくところを見たかった』と言った。吟は待合室の空間の四隅をぐるりと一瞥しある一角に手を振ってみせた。

 「あら。バレちゃった。まいっか。……日頃の感謝ですよ大姐。私なりの。裏があるとか疑わないでください」
 「監視カメラ経由で言われても説得力がないわ」
 「らしくないですよ落ち着いて。……こうでもしないと、いつも逃げるでしょ」

 その言葉は嫌に耳にこびりついた。
 真島とは十年前にちゃんと決別できたと思っている。ただ私生児を身籠っていたことから、ホンファは二人の間を取り持とうとしている。お節介の果てに「逃げている」と言われて封じていたはずの扉の鍵がかチャリと音をたてて回った。

 ホンファの期待に満ち溌剌とした声音をそれ以上聞いていられなくて受話器を置いた。
 彼女は善行のつもりだろうが、平穏な夏季休暇を蔑ろにされていた。吟の不安はアクシデントに心身ともにかき乱されること。本当は今すぐにでも自室に戻って優雅なティータイムにしたい。しかし、それはそれとして真島の観光を助けてやるくらいの優しさは持ち合わせがある。
 
 なんとなしに広告紙の一枚を手に適当な椅子にかけて、ものの数分もしないうちに真島がやってきた。

 長い年月の末に再会した彼は青臭さが消え脂の乗る年頃で。気づいていないのか当たり前のことと流しているのか、人目を引く。たとえそれが船内や異国の地であろうとも強烈な個性と自信からくる熟れた色気が衆目を集める。目立つのを一に嫌っている吟は常に早く船へ帰りたい願望に囚われていたが、シンガポール観光を楽しんでいる男を前に自己都合で損ねるのは躊躇われた。

 肩の荷が下りて楽になった。彼の雰囲気はさながら大きなプロジェクトを完遂したあとの開放感で、隣に並んで歩いているだけでよく伝わってきた。 
 定番のマーライオン、屋台ストリート、スタンディングバー。

 それらの健全な大人の夜遊びは窮屈な船旅をやり過ごしてきた真島には良い捌け口となったのか、人混みのなかで人気者の地位を獲得する雄姿を他人事のように眺めた。バーは楽器演奏とダンスステージの場を提供しており、薄暗く猥雑なムードで妖しい色彩のピンクや紫の照明がくるくると巡っている。お手洗い帰りにはすっかり店内は仕上がっていて、それが彼の活躍が成した人々の狂騒の一幕であることは察しがついた。
 真島は人混みの中を避けようと壁際にいて、そんな彼を誘う女たちに囲まれていた。

 この手のバーは狩りの場である。
 なにせ近場には風俗エリアのゲイランがあり、出会いのための社交場として酒場やクラブはうってつけというわけだ。つまり、遠巻きにみて真島はその営業を受けている最中にある。吟は彼がどうするのかを見守った。その気があるなら自分はバーから船に戻ろうと思った。ごく一部とはいえ平均的な男にとって観光プランに風俗があるのは珍しくなく、また吟にそれを制限する権利はない。

 吟は一人になりたかった。
 ホンファの望みは叶えられそうにない。早々に結論づけたが、それでは徒労に終わってしまうことが気がかりだった。
 大掛かりな仕掛けを用意して望まぬ結末に達すればホンファの士気を挫くかもしれない。それで計画に支障をきたすことを恐れたからだ。そして、真島と向き合うことも。店内は軽快なポップスのダンスミュージックがかかり熱気が高まっていくのを通路の壁に凭れて聞いていた。

 ホンファは二人が一次元的な男女の関係性だと思っているが、奥底に眠る葛藤を知らない。
 知らないのは真島もその一人で、打ち明けようとも思えない。彼の立場になれば『取るに足りない出来事』であり、死人の過去をひけらかしたところで救われるものもない。すべてを打ち明けて、本当に彼にとって瑣末事であったとき。本物の真実を認めてしまうことが怖かった。

 文字通りすべてが崩壊する。
 なぜなら。――――『彼女』を知っているのは、もう真島しかいないのだ。


 深入りしすぎた意識を現実に引き戻して、吟はそっと表へ戻った。
 
 「ドリンク頼んだの」
 「まだや」
 「ダンスはもう踊ったの?」
 「ちょうど入れ違いやった」

 彼の身に起きたことを何も知らない風を装って、流れるような素早さでタイガービールを頼んだ。
 二人の前に提供されたジョッキは小麦色に輝いている。小気味よい音をたて。「乾杯」の音頭を切って一気に流し込んだ。
 良い飲みっぷりだが急性アルコール中毒を心配した。

 「……あなた、お酒強いわね。あれだけ踊ったあとで、それは……どうかと思うわ」
 「なんや見とったんかい」
 「まあね」
 「踊るか?」
 「まさか。……柄じゃない。楽しみたければどうぞ。私はここで見てる。……なに、心配そうな顔して。勝手に帰ったりなんかしないわ」

 ダンスは得意とはいえない。もたもたとぎこちなく観賞に耐え得ぬ拙い動きを大勢の人間に見られるのが嫌だった。とくに人々の注目を集めやすい男の隣などは恥をかきにやってるようなものだ。ダンスの腕前が一人前なら自信を持てたが、その場にいるだけで注目を浴びる男の相手としては力不足だ。

 バー内の空気がまた変わった。
 ムーディなスローテンポのBGM。パープルの照明が回りだし、客の何人かが真島の方を期待して笑いかけた。

 「スターね。……一番、輝いてたわ。みんながあなたに注目してた」
 「ひひひ」
 「……ふ、みんながスターの帰りを、おかわりを待ってるわよ」

 おだてると彼も満更でもない様子ではにかんだ。
 ここで乗らないのは無粋だ。吟はスツールの上から茶化しながらそっと真島の肩を押しだした。彼はそのまま人の波をかき分けてステージの中央へと導かれていった。雑多に踊るのが趣向らしく、テイストはさまざまで思い思いの踊りを繰り出したかと思うと、入れ代わり立ち代わり、男女が手を取り合うフォークダンスが始まった。カウンターにまで人波が押し寄せてきて邪魔になると悟った吟はジョッキを返却して出入り口近くで待避した。

 人の熱気とアルコールの酔いが回り思考が坂道を下る感覚に自然と足は外へ向いていた。
 生ぬるい風が肩を抱き、四肢の末端がビリビリと痺れて掌は玉の雫が浮き上がり汗ばんでいる。

  「吟!」

 店先の街路樹の根本に屈む吟に声が降ってくる。
 真島はふらりと物言わず外に出た吟に焦っている様子で、小さなことだが罪悪感を覚えた。
 
 「驚かすなや」
 「外の風にあたりたくなったの」

 次第に調子が傾くのを感じていた。ここ数年はほとんど起きなかった発作の波の気配と、こんな日に限って薬の持ち合わせがないことを思い出してさらに憂鬱になった。真島は気を利かしてそっと声をかけた。彼の瞳には退屈そうな女が無言の抵抗を続けている様子に映るだろう。それほどまでに気を遣わせている自分に軽く失望しながら、苦し紛れを口にする。
 
 「……別んとこ行くか?」
 「どうして。楽しいでしょう?」
 「俺はエエねん。お前が楽しめとらんやろ」
 「私なりに楽しんでるわよ」

 鬱屈とした気分が募る。どうしていいかわからず、振りほどくように足がひとりでに動いて、困惑と悲しみとやりきれなさと後ろめたさが追いかけてくる。楽しい観光地の夜に水を差し気分で相手を振り回す。そんなことで彼の関心を惹く自分と、『逃げている』真実。どこまで騙せば気は済むのだろう。

 「……なあ」
 「一周しちゃったわね」
 「あ? おう……」

 いつの間にか、もとの場所に戻ってきていた。賑やかなミュージックが相変わらず店の外まで漏れている。
 吟は真島の腕をひくと、扉をあけた。熱気の充満した世界と人の雪崩の中へ送り込んでどうにか一人きりになりたかった。そして、運良く夜の予定を見つけてきて一人で帰る口実を得たかった。

 目論見通り真島は二人の女性から声を掛けられナンパされていた。
 暇を潰すために頼んだトロピカルカクテルを吸い、獲物となった男の様子を見守っているとついに彼が吟の視線に気がついたようだった。唇の動きで軽く毒づいたのが判り思わず笑った。そのまま一直線に吟のもとへやってきておどけた調子で責めた。

 「おうネエちゃん、楽しそうやないかぁ」
 「こんばんは、ナンパ師さん。もうショーはお開きだそうよ。残念ね。じき静かになるわ」
 「ショーはもうどうでもエエねん。何飲んでるん」
 「トロピカルカクテル」

 グラスの縁にはパインの切身と熟れたチェリー。中のアルコールは、瑞々しい濃いグレープフルーツのような色合いをしている。
 アルコール度数は高くないはずだが、ジュースのように口当たり良く飲みやすさが手伝ってじんわりと体全体が熱くなってきた。余所見せずじっと目を凝らすので彼に飲まないかと勧めたが断られた。それどころか諌めた。

 「ん、なァ……ちと飲み過ぎちゃうか」

 心配そうに窺う表情は子犬のような愛らしさを彷彿とさせた。
 途端に自分が情けなく思えて、気分がまたぐらぐらと不安定に深海に落ち込んでいく感覚がした。早く船に帰りたいし薬を飲みたい。薬の前にアルコールを飲んでしまうほどすでに正常ではない。

 吟は離れたところで真島を待つ二人を視界の端に捉えていた。
 二人は吟に気づくとウィンクを寄越した。

 「……彼女たちと約束したの?」
 「あぁ?」

 騒々しいフィナーレの音楽にかき消され、真島は声を捻りあげた。
 酔狂な大衆の熱気とともに店の照明がチカチカと黄、赤、青と明滅して彼の表情は定かではない。照明から外れた店内の端で先程の狩人がまだかと真島を待っているのが見えた。

 「……さっきの聞こえへんかったわ。なんやってん」
 「あなたを見てるわ」
 「は?」

 断ったつもりだったのだろうが、彼女らからすれば吟との関係性を見定めているようで、それ次第で粘る用意があるのだろう。
 女性たちは手を振りその合図をした。


 「行ってあげたら」
 「……いや、知らんし。つか、意味わかって言ってんのかい」
 「そのつもりよ」

 真島は怪訝そうに顔を顰め疑いを口にした。
 それから言い合いが始まり、ただ単に『私は帰るけど、あなたは遠慮せず遊んできて』を伝えられないせいで次第に険悪な雰囲気に陥っていった。
 
 「お前……酔ってるやろ。……もう飲まさへんで」
 「やだ。手を放して」
 「アカン。飲み過ぎじゃ」

 痺れを切らした真島からアルコールのグラスを奪い取られ、取り返そうとした拍子に彼によって抗議を封じられた。
 周囲は男女のもつれ合いを楽しんでいるが当事者としては具合の悪いものだった。

 「ん……」
 「行ったか……」

 女二人は見込みがなくなった客には用がない。あっさりと踵を返して夜の狩りに出ていった。その頃には店の中にいた男は目減りしていて、労力を無為に費やしたようだった。これから上客が見つかるかどうか保証はないしその責任は少なからずあった。今から追いかけて行ってチップを渡すなりでもすればいいが体が思うように動かない。

 「何するのよ。……行っちゃったじゃない……、どうして……かわいそうよ」
 「エエ加減にしろや。じき、その辺の奴捕まえるやろ」
 「彼女たちは………遊びにきてるんじゃないの。出稼ぎにきてるのよ。マレーシアやフィリピンから……家族の生活がかかってる」

 真島はため息と一緒に吐き捨てた。
 その様子に吟はある欲求に気づいた。このやり切れなさを解決する方法を。恐怖はなかった。
 遠回りしすぎた。こんな簡単なことを思いつかなかったのを自嘲気味に笑った。

 吟は椅子に力なく座って、届かない位置にあるグラスをぼんやり眺めた。
 
 「そら可哀想やけどな、俺にその気ないねん。こっちにも選ぶ権利あるんや。お前が可哀想思っとるのは自由やし否定はせぇへんけど……な」
 「…………」
 「なんやねん」
 「私が娼婦だとしても、拒むの?」

 それはそれは奇妙な台詞だろう。
 なにかの聞き間違いではないか。
 真島は狼狽え再度問うた。

 「……あ?」

 吟が健全な市井に住む女であれば話はそれまでだった。
 悲観的な病に冒された女には、それが傲慢な男の主張に思えた。彼は困惑し尋ね返した。

 「……そのままの意味よ。もし、私が娼婦なら、あなたは私を選ばないってことになるわ」
 「それとこれは、ちゃうやろが」
 「どう違うの」
 「どう、……どうって……言わなアカンか? 今したやろが。そういう意味やないか」
 「今のが? お笑い種ね。あんなの、挨拶にすぎないわ」

 口封じの接吻に巨大な価値を見出している様子に笑いを堪えられなかった。
 子供だましの拙い印だ。売り言葉を買った真島は睨みをきかせた。

 「あ? ほんなら言うたろうやないか。……俺は、お前が好きじゃ。……これでエエやろ」
 「言葉だけなんて、なんとでも言えるわ」

 彼の好意はとっくの昔から知っている。

 だからなんだというのか。好きというだけで、肉体関係を限定する男だと言いたいのか。そんなはずはない。そうでなければ、家庭を持つ男や恋人を複数人抱えていながら、別な愛人を作り風俗に足繁く通う男はいないはずだ。
 たった一度や二度の『好き』だけで救われるなら、なんておめでたいのだろう。それこそ吟を都合のいい女とたらしめている。
 とっくに浮ついた十代や二十代の娘を過ぎているのだから。

 そうして心の中で散々侮辱したあとに、また悲観的な荒波が襲いかかってくる。
 自分はそんな大層な人間ではなく、そもそも――こうなった原因も自分が悪い。選択を誤った罰なのだ。無意識に錯乱し、彼を強姦し勝手に身籠るような野卑たる猛獣の存在を思い出して、ただ虚しくなった。
 
 「……おい、吟。おい……言わんこっちゃないで。水貰うてくるわ。……あぁ? もうなんやねん、ったく。しゃーない奴やの」

 机に倒れて世話を焼こうとする彼の動きを阻んだ。
 バーの外まで連れ出されて街路樹の下にうずくまった。もはや体に力が入らなくなっていた。
 何度かの呼びかけの末、彼は限界を感じたのか吐き捨てた。そこで吟もそうだと思った。ホンファの望むような関係前進は不可能だと。周囲の期待に応えられず、自分が産み出した負の秘密や罪悪感に胸が詰まった。

 港に近くなった頃、彼にそっと打ち明けた。

 「もう眠りたいの」
 
 死の宣言だった。
 長大な自殺計画まで体が持たない。なにせ実行まであと十年は必要だからだ。組織ごと地獄へ道連れにするまで、あと何度こんな夜が訪れるのか。
 衝動的な思いつきが駆け巡る。
 
 ずっと大昔から望んでいたもの。死を真島によってもたらされるのであれば本望ではないか。また、その死によってあの怪物が目覚めても、真島ならどうにか出来そうだと思った。
 そう、今夜は護身銃が手元にあるのだから。

 売り言葉を買わせて、駄々をこねるみっともない女を演じ船に帰らず、安宿の一室へ連れ込ませた。
 『死に場所』にしてはいい選択だと心のなかで称賛した。街中の監視カメラでホンファが着けている。高級ホテルはセキュリティが固く、仮に『自殺』が成功したとしても真っ先に彼が粛清対象になるだろう。安宿であれば、すぐに異変に気がついてホンファの息のかかった者を通じて弁護が仲介に入る。そして身代わりを立てるか、死の隠蔽工作が始まる。

 そのためには、真島にはそうなっても仕方がないほど「怒り」に燃えてもらわねばならない。
 正当防衛で彼自身が助かるために。

 「部屋、ついたで。……おい。なんや。なぁ………、なんやねんコレ。吟、説明しろ」

 船に戻らずホテルの部屋をとって、部屋に入ったところで吟はわざとバッグを落とした。護身用の銃を握らせて、心臓のある位置に銃口を宛てがった。真島の声は恐ろしいほど低くなった。

 冥土の土産話に吟はそっと尋ねた。

 「もし」
 「なんやねん」
 「もし。今夜。……私が船に帰っていたら、どんなつもりで彼女たちを抱くつもりだったの」
 「………いい加減にしろ」

 真島は撥ねつけた。言葉にある忠実な訛りを捨てて元来の響きに戻っていた。
 唸るよりも低い声音と銃を下げなかったことで彼の「殺意」を確認し、吟は追撃を続けた。

 彼にそうさせるのは簡単だ。彼を否定するだけで構わない。言葉の限り逆上を誘うべく吟は鞭を振るった。効果は如実に表れていて、彼の表情は大きく引き攣り、歪み、苦悶に満ちていた。


 「彼女たちでなくてもいいわ。……そう、たとえば……昔の恋人、妻、風俗嬢でもかまわない。……彼女たちは、あなたのペニスをしゃぶって自信を与えたでしょうね。あなたの、男としての矜持を満たしたでしょう」

 不快そうに表情を顰めた。
 土足で遠慮なく踏み荒らし、良識皆無の野蛮な物言いで真島を否定した。

 「そして、気持ちがいいフリをして愛していると叫び、この関係を永遠のものと錯覚したでしょう」
 「うっさいわ」
 「愛なんてどこにもないわ」

 抑揚のない声で、吟の応酬はさらに続く。
 感情という色を失った、機械仕掛けのような味気なさ。荒涼とした世界に投げ出されるような諦観の御託。
 吟を愛しているまやかしの否定。嘘を信じさせられ、誘導に愚かに支配されている男への否定。

 「愛は、どこにもない。……アフリカにも、欧米にも、砂漠地帯にも、どこにも……このシンガポールだって、この部屋の私たちにもない」

 ぐっと迫り吟は真島の目と鼻の先に顔を近づけた。
 一つしかない瞳に彼女のぽっかりと空いた深淵のような黒い瞳が映り込んだ。

 「……戦場の兵士は僻地のお誂え向きの女とセックスをする。……そうしなければ獣のように民間人をレイプするからよ。そして、国へ帰ると彼には妻子が待っている。暖炉の前で温かい豆スープを飲む。肌触りのいい毛布に包まり、妻とセックスをする。一方、僻地にいたお誂え向きの女は兵士や国家の残した禍根によって飛んできた砲弾が住処を爆散させ、二本の手と足を失う。けれど、彼女はまだ生きていて……包帯と性病と生理的苦痛をごまかす麻薬を買うためにセックスをするの……」

 真島と決別して十年。
 吟の世界にもたらしたのは味気のない人間の暴力と野蛮性、有象無象の死だった。一番それを望んでいる自身よりも、生を希求する者がそこへ行き着く不公平感。性愛に享楽を求める者のささやく愛への疑心。

 「あなたはきっとたくさんの、名誉あるセックスをしてきたわ。それで? 一度たりとも、誰かを救えたの?」

 愛は軽薄で、女一人さえ救えない。
 そしてここに一つだけ愛を証明する方法がある。

 彼の顔は引き攣り怒りで震えていて、セーフティが初めから外された銃のトリガーに指がのっていた。もうあとひと押しまで来ている。心のなかの悪魔は笑いをこらえ、もう少しだと励ました。たった一度決心をつければこの女の望み通りに屠ることができる。そうにもかかわらず、まるで石に変えられてしまったように動かなかった。

 吟は手探りで感じ取った彼の脆い場所へ、そっと指をかけた。

 「あなたは、私がいない時でさえ……、……誰かを救えたことがあった?」

 破滅の一押しと終止符は、彼の名前を呼ぶことだった。

 ―――ねえ。真島。

 弾け飛んだ。重い鉄は胸、顎から頬を袈裟斬りのように抉りよろめいた体を力容赦なく寝台の上に叩きつけた。
 幸いなことに着地点が固い床ではなくスプリングのきいたベッドのために、有効な致命傷にも脳震盪にもならず即死も免れた。真島は理性を喪失し、おぞましい顔つきを暗闇に染めてほとんど抵抗をしない吟を見下ろしていた。体全身を使い重力をかけ一寸たりとも逃亡を許さぬように押さえつけている。吟はもう少しだと思った。
 ギロチンの刃を落とす綱を手放させるだけだ。

 「愛なんてどこにもないわ」
 「……やめろ、や」
 「必要なかったのよ。誰も、あなたを必要でなかった。彼女も、彼女らも……わたしも。だから今もあなたは一人ぼっちなの……」

 彼は泣いているような気がした。
 そう思うのは、大きな両手がギリギリと首を締め上げる苦しさからだろう。意思に反して肉体は死への抵抗をみせた。ジタバタと手足がもがいて馬乗りになる男の体を蹴る。吟は運良く気を逝ってしまえば楽だが、脳血流停止までの時間が想像よりも長く、首の骨も折れず、死の条件が乏しいことを苦々しく思った。やがて思考が曖昧に、窓に浮かぶ月から海の上の姿を思い出し世界のすべてが白みはじめ、なにもかもが終焉に至ったような気がした。

 ”自殺”が失敗したとしったのは彼が傍らで嗚咽を漏らしていたからだ。
 瞬間的に幽体離脱かなにかで死を客観視しているのかとも思えたがそうではなく。吟の体はそこにあり、体の上にのしかかる重量と五感が少なからず生の意識を取り戻そうとしていたからだ。

 この男の手によって殺される。
 その事実に深い満足がある。初恋の男にもたらされる死。
 永遠に次がないことへの安楽と愛の絶対性の証明。それだけでこの苦痛に満ちた魂が報われる。

 だが時間切れだった。昇天への余韻をつき破ったのはおそらく覆面の監視員の通報だろう。

 「―――あ」

 ”自殺”は失敗した。
 運命は死の安寧を吟に与えてくれるつもりはないようだった。
 真島はもう、死を誘引するコマンドを受け容れないだろう。二度目は通用しない。これはたった一度の罠で賢い彼は同じ轍を踏まない。それが残念でならなかった。

 「…………も、……すこ……し、……の、に」
 「……正直に言ってくれ。……俺は、間違っとったんか?」
 「………」
 「…………日本から出て、お前の傍におったほうが良かったんか?」

 ―――そうかもね。

 内なる声が肯定する。
 吟はあやふやに存在する自己と本心が、この期に及んででしかわからないことに寂しさを憶えた。
 それから、彼女の人生が常に人々の殲滅の責任者と選択の連続であることが浮かんだ。いつも独断で、相談役などいなかったから、もっと別のなにか平和的な解決策があったかもしれないが、組織の政治や損得を考慮して弱者を虐げるような選択を選ばざるを得なかったことはままある。

 「たくさん、殺した」

 そしてそれは様々な利害関係のなかでもみ消され、責任を追求されず、善人の皮を被り今も称賛を得ている。

 「私が、指示したこと、で、……たくさん、の人間、が死んだ。……最善の方法、を尽くしても、今日も誰かが、悲しむの。今日で、なくっても、明日でも、明々後日で、も、一年後、十年後でも、私のしたことが、誰か、の不幸に、繋がって……る」

 真島は静かに頑なにその身を抱いた。
 血と汗と、彼の涙の塩味が唇に染みた。

 「井戸を掘って、井戸水がわいても、誰かがこっそり……毒を混ぜると、村一帯の人間が死んで……最初に……井戸を掘ろうと言った、人間……を糾弾するの。でも、最初に言い出した人間は、何食わぬ顔で、一番、……安全なところにいて、守られてるの……」

 もし、彼がいたら違っていたのだろうか。
 不安な夜を薬に頼らずとも乗り越えられただろうか。様々な決断に対して後悔に苛まれることもなかった?
 そんなものは、たらればの話だ。あったかもしれない世界を想像しても、吟の罪や後悔を消してくれるわけでもない。やはり、いつも同じ景色にたどり着く。

 死。
 死。
 死。

 死が救いなのだから。
 間違っていない。これが正しい。これしかあり得ない。これしかない。これでしか食い止められない。王吟の選択で様々な人間が不幸になる。
 吟はわかりきっていながら、コマンドを入力する。震えながら乞い願った。祈った。死を。

 「殺し、て」

 視界がぼやけ急速に意識が遠のいていく。
 
 「殺して、よ……」

 唐突に意識が途絶え、茫洋とした灰色の小さな部屋に彼女はいた。
 六つに区切られた縦窓の縁に同じ姿形の影が吟を見下ろしていた。そこが死後の世界と思って安堵のため息を漏らした。世界は無音で何の変哲もなく、まるで万物の速度が自分を置いていくような退行と虚無の最中にあった。

 ―――生きて、やり遂げて、死ぬんだ。

 影が喋った。
 彼こそが『吟』だと思った。すっかり忘れていたが、盾だった彼は自分の内側に残っていたのだと思った。そして瞬時に自分がまだ死んでいないことも。これが意識の交換のなか、あるいは狭間の世界での邂逅であることを理解した。吟は顔をくしゃくしゃにしてやりきれないように叫んだ。

 ―――耐えられない。
 ―――できるよ。もう少し頑張れば、本当の望みを叶えられるよ。
 ―――本当の望みなんてなにもない。
 ―――そんなはずはない。いつだって願っているじゃないか。終わりの向こうへいくんだ。

 俯いていた顔をあげると『吟』はどこにもいなかった。
 また独りになった。




 「……おはよーさん」

 傍らに眠っていた彼の声音と気配に敏く覚醒し、怠そうに顔をしかめた。
 灰色の部屋は失せ、狭い安宿の一室の寝台の上で夢は終わっていた。現実が粛々と引かれたレールのように横たわっている。昨晩の狂乱も鮮烈な悲観もフラットになだらかに、憑き物が落ちたかのように真新しい心地がした。

 汚れた服の洗濯を口実に真島を部屋から追い出した。一人になりたかった。
 部屋は暑かった。冷房を入れてまとわりつく湿度を払った。洗面台の鏡に映る女は生々しい赤黒いミミズ腫れと瘡蓋、赤紫の痣。ぐちゃぐちゃの髪、かさついた唇、浮腫んだ目元。あらゆるものが醜く最低だった。

 下着を手洗いする途中で、そっと鏡の中の女に呼びかけてやる。

 「本当の望みって、なに?」

 吟は様々な欠点を抱えているがその最たるものが、自分のことになると急に分からなくなることだった。
 死を超越する願望があれば気づいているはずだ。だから『吟』の言葉は嘘も方便。出任せの慰めだ。
  

 「おう。………買うてきたったで。ほれ。……俺もシャワー浴びるさかい。着替えるか飯食っとけや」

 真島が買ってきたのは幾何学模様の刺繍に彩られたバティック柄のワンピース。派手好みの彼だが吟に似合うように選んだことは明らかで、素直に嬉しくなった。浴室に消える背中に唐突にフラッシュバックが起こった。あの選択の夜だ。それをどうして今急にと戸惑いはなく、自然に足が浴室に向いた。
 真島に告げる必要がある。彼の優しさのお返しと、もしもの可能性の方の正解を知りたくなったからだ。

 彼は浴室に入ってきた吟に気づくと目を白黒させ、わたわたと狼狽えた。
 
 「あぁん? なんやねん。まだ用あるんかい……ちょ、ちょ……お前先入ったんやろが!」

 荒れた皮膚に勢いあるシャワーが突き刺さった。吟は苦痛をごまかすように唇を求めた。シャワーを止めようと彷徨う手を捕らえその手指を吟の体に触れさせた。真島は疑ったまま女の一挙一動を警戒した。
 
 「……あの夜も、こうすることを……考えた。………できなかった」

 神前の祈りのように密やかな懺悔を行った。
 彼の鼓動が自然と相槌を打った。頑強な鎧の下の皮膚をさらけ出し、罪の抱擁を与えてくれるようだった。

 「……臆病だった。……責任を持ちたくなかった。……足がすくんだ。……脅して、恐怖を思い出させて、嫌いにさせたかった。……すべてから、手を引かせるために。………幸せ、だったでしょう? そうだと言って。……ホンファがこんなこと……企てなければ……ずっと幸せのままでいられたでしょう?」

 蓋をした岩の下でまだ息をしていた蟲がいたとしたら、まさしくそれが己だ。
 蟲の望みは、大衆の嫌悪を最も憧れる存在からもたらされることで、そうすれば自分の浅はかな希望を打ち砕いてくれることを期待していた。
 『お前は醜い蟲なのだから、共食いで先に食われて死ぬ方がお似合いだ』と突き放される方がいい。

 「……決めつけんなや。…………俺を選ばんかったお前が、俺の幸せを信じられんかったお前が、なにまだ決めつけとんねん」

 真島は強い男であるのは知っているが、信じれなかった臆病な天邪鬼に対して正しい叱責だった。
 けれども女はそれを欲しがっていた。そこでようやく気づきを得た。ずっと彼に叱ってほしかったのだと。間違いは間違いであると弾劾し、反証し、危うい道へ行かぬように手を握っていてほしかった。

 深いところに眠っていた願望を掬い上げるように彼はふっと耳元で囁いた。

 「……”殺したくなかった”んやろ……?」
 「………え?」

 盲点を突かれたかのように吟は目を大きく見開いた。
 一九八九年七月七日の夜のことだ。不意に鎧の下を明かしてしまった後悔を伴う夜のこと。

 ―――なんで、……穴倉で、……あない、優しゅうしたん。
 ―――殺したくなかったから。

 どうして安易に告げてしまったのだろうと、何度も後悔した。
 今なら答えがわかる。抑えきれない叫びだったのだ。弱味を握られたと曲解したけれど、もう少し譲歩や妥協をしていればこうならなかったかもしれない。遅い気付きに目頭を熱く感じた。

 「俺だけがそれ知ってんねん。……バカ正直に俺だけに言っとけばよかってん。自己責任やってな。……甘えとけや」

 水気を含んで重く垂れた細い髪をすくう。
 彼は狭いこめかみに唇をおとし、その華奢な体の震えを受け止めた。
 
 「……はなさないで……」
 「………はじめっからそう言うとけ、アホ」

 縋りつけば真島は力強く抱擁で応えた。
 彼の体は太陽のような熱が胸の奥底まで伝わっていき、まもなく涙がこぼれた。



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