Peony


 1990年 3月


 『福音の家』はマザー・グレイシーが仲間たちと共同で引き継いだ身寄りがなく自活能力の乏しい者、孤児などを保護し教育や医療を提供する目的の救貧施設である。彼女は元々医療人のひとりで孤児院を運営する系列の病院に勤務していた。貧困のためのチャリティーで執筆したエッセイ本がベストセラーとなり勢いづいたところに王吟へ手紙を贈ったそうだ。同じ社会的に活動的な女性。マザー・グレイシーは将来的に多額の出資を。吟は表向きの人道支援活動でのイメージ向上を狙っていた。互いの利害は一致し、その手前に一つ極秘の計画があっただけのこと。


 一九八九年十二月。
 メイ・ピオニーの偽名をもちいて吟は『福音の家』に入所した。
 マザーの施しさえあれば一軒家の借家で悠々自適な暮らしも容易だったに違いないが、吟はそれを選ばなかった。
 
 「よろしかったの。あなたが住まう家くらい用意したのに」
 「ええ。こんな経験はなかなかできないことですよマザー。施設の利用者目線での生活を半年も続けるんです。私たちはいつも施し側のつもりでいます。この低い目線から見える世界が、あなたと……私の、今後のためにもなりますよ」
 
 メイ・ピオニーは足が悪く、車椅子を使う黄色人種の妊婦。
 『福音の家』には様々な属性を持つ自活能力の乏しい人々が身を寄せ合って暮らしている。社会の福祉にありつけていない人々を思えば辛うじて幸せな人たち。彼らも同じ人間なら弱者を欲しがるだろう。

 強者に虐げられる弱者は慎ましいなんてものは理想の産物だ。
 いつだって、少しだけ背伸びをして勝てる相手に勝とうとする。近くにいる親類に自己の穢れを投影する。

 『福音の家』で最初にメイに嘲笑をくべたのは子供たちだった。
 良識を身につけるまえの野放図。車椅子と机、自らの腹との距離に食事がままならない女をせせら笑った。他の大人たちは黙々と食事を続けているが実は食器の影で含み笑いしている陰湿な態度だった。

 そんなメイに声をかけた少年がいる。ジョージ・マルコー。彼はメイが来るまで新入りだった。すなわち彼の代わりの新しい生贄といったところか、それを気にかけて根掘り葉掘りメイにかかわることを尋ねた。入居者たちも外から来た女に興味があった。エスケープゴートの悪口をあとで共有して盛り上がるために、様々な話をした。

 そんななかジョージ・マルコーはいたくメイを気にかけた。
 誰も頼んでいないのに率先して世話を焼いてくれた。彼はいつか施設を出て外でも十分生きていけるだろう。
 

 あてがわれている一人部屋には電話があった。
 ホンファへの定期報告は月に数度。彼女はアメリカで静養中と偽っている吟の偽装を手伝いながら、自分の業務もこなしている。かたや吟のほうは車椅子設定で移動が制限されているとはいえお気楽だ。決まった時間に食事、外出、読書、誰かとの世間話。止まり木に身を寄せ合う小鳥たちの演奏会を楽しむ慎ましい日々。
 
 「名前は決まっているんですか」
 「名前?」

 何度目かの定期報告の電話。
 いつの間にか季節は冬から春へ移り変わっていた。赤、白、黄の花が窓辺から下の芝に雑じっている。ホンファは今アメリカ西部にいた。話題は子供の名付けだった。それまでぼんやりと考えていながら避けていたことだった。ホンファの声は午後一番の陽射しのように明るい。

 「予定日はいつでしたっけ」
 「五月」
 「いい季節じゃないですか。……あ。だから偽名もそうしたんですか?」
 「……生まれ変わるの。母親になることは、変わることでしょう。この子が生まれた時、私も変わる。……だからよ」

 ホンファは良い方の意味に捉えたようで曖昧に「ふぅん」といった。

 嘘をついた。
 母親らしさ、妻、女。
 どんな役割も持ち合わせていなければならない感覚が吟にはなく、 次第に膨らんでいく腹と胎動にも正しい愛おしみを持てず、異常である意識が燻っていてもどうするほかなかった。

 「そっちでの生活はどうです。慣れました?」
 「退屈よ。感謝してるわ。あなたに」
 「どうも。今度会いに行きますよ。あ、それまでに名前考えといてください。色々やることがありますから」

 短い会話を終えて読みかけの本の続きをめくる。
 静養に持参した本の中に花の写真集がある。昨夏、日本で買ったものだ。一瞬、遠くなった彼を思い出しかけて、急いでそれを掻き消した。

 「悲劇ね」

 この女を母として誕生する生命へ呼びかけた。
 生命倫理に従い産むか殺すか。もし、ひとりでに流産を選んでいたらもう少し変わったのだろうか。吟は人をとっくに殺しているし、境界線を超えてしまっている。その対象が我が子になるだけだ。自分の子供だから特別扱いにするのは不平等だ。

 腹をなでながら思考を巡らせる。
 この子が平穏で幸福と思える人生を歩むなら。大多数の人間のように平凡な悩みに苦しむ人生のほうが辛うじて良いはずだ。たとえば、国籍、肌の色、人種、思想、宗教。それらの差別は世界にありふれた悩みだ。そして味方が大勢いる。しかし悪人の子供は誰一人として忌避する。寄ってくるのは同類だけだ。

 闇に取り込まれる人生を吟はよく知っている。

 なぜ一人生き残ったのか。なぜ死ぬのは優秀な兄のほうで、生き残ったのは私だったのか。なぜ数多の残虐行為に耐えて生き延びているのか。なぜ悪に抗い続けないのか、迎合したのか。そこまでして生きて、その生命に価値があるのか。多くの弱き人々を虐げる側の人間になって幸福だったか。
 『なぜ』ばかりの人生だった。

 子供の人生を何度も何度も想像した。
 悪人のもとに生まれてしまった無垢な魂の行き着く場所を。善良などまやかしか、性善説の心根ある人々への理想と願望であるのを子供ながら知ることになるのはあまりに酷だ。母親の立場を鑑みて、多くの者が優しくするし意見を聞くだろう。欲しい物や願いがあれば叶えられるだろう。気に入らない者がいれば遠ざけられるだろう。多くの挫折や折衝を親の構築した保守的な環境のなかで庇護される。

 そしていつしか母親である吟を恨むようになる。 
 だが、それは構わない。問題は常に均一だ。私生児であることを知られれば、命そのものが危ぶまれる。弄ばれる。政治的な手段に利用される。そうなってしまっては、吟は護りきれない。裏社会の政治の取引材料になることだって可能性は十分で、生まれてきたことを恨むだろう。

 「本当に産むの……?」

 自問自答、あるいは胎児へ向けての問いかけ。
 ホンファに養母になってくれないかと願うより先に、彼女の方から申し出があった。まったく見知らぬどこかの他人に貰われるのだって構わないだろうが、吟は提案を受け入れた。

 子供を産み捨てるくせに、近くに置いておくことをするなんて。自分自身を嘲った。吟の予感は、これも不幸を招くだろうといっている。
 ホンファは完璧だが、抱える秘密を増やしてパンクさせるのは得策ではない。かといって、彼女のことだ。全く赤の他人に譲ったとして、秘密裏にマークさせるだろう。組織のネットワークは世界を網羅している。マークした先でなにかの拍子に漏れるのもリスキーだ。

 ホンファはいつでも心の底から期待を募らせている。
 電話越しでも、定期検診のときも。『やっぱり、この子は私が育てるわ』といって吟の気が変わるのを。
 
 イリスは予定日より数日早く生まれた。
 
 分娩台の上はゴルゴダの丘への道、ヴィア・ドロローサを登るイエスのようだった。
 マザー・グレイシーのはからいにより、特殊な秘密を知る数人の医師、看護師、助産師それから麻酔科医の助けを借りながら麻酔分娩での出産は大きなトラブルなく終えた。二九〇二グラムの女の子。赤ん坊の字の如く、赤い皮膚の悟性を持たぬ、先祖がえりをしたようにむき出しの生命。

 全身を覆う疲労と倦怠感。腹の中にずっといたものが実在し、また『異形』のものでなかったことへの安堵感。
 傍らに寄せられた新生児は生命の主張を雄叫びにかえている。そのときになってそれまで得ることのなかった、甘やかな優しい繋がりを感じた。ずっと埋まらなかった場所にカチッとはまるパズルのピース。連鎖する生命の答え合わせ。生きていて良かったと過る永遠にすがり続けたい多幸感。
 人間的な幸福。繁殖の願望が、俗物的な生物として正しい行為を行った万能感があった。

 「おめでとうございます。女の子ですよ」

 眩む周囲の景色のなかで誰かが英語で言った。
 それから、また誰だかわからない者に脂汗を拭われ、視界から外れた赤子を探した。

 ―――よう頑張ったなぁ。

 酸素マスクを隔てた向こうに彼がいる。
 右手を握り少し大袈裟に鼻をすすっている彼が。
 看護師に勧められるがまま、小さな命をおっかなびっくり太い腕で掬うように抱き上げて。

 家族のいない他人同士を繋ぐ。このちっぽけな赤子がかすがいとなる。そんな幸せな世界を夢みる。
 つかの間の幻想はおぼろげな泡沫に消え、吹きさらしの生々しい現実へと覚醒する。
 彼はいない。そこにいない。いない世界を創り上げてきたからだ。己が手で。彼のいない世界が地平線の彼方まで広がっている。

 「………さび、しい……」

 ぽろりと溢れた音は感情の発露だというのか。この体の内側でまだ人間らしい情が残留していた驚愕。一度認めれば煮だった鍋のようにぐらついた。
 耳元で赤子が泣いている。母を求めて泣いている。

 『福音の家』に戻っても彼の幻は消えなかった。
 頬に涙が滲むたびに彼を思い出す。あったかもしれない景色がそこに見えてくる。後悔と罪悪感がボロボロの肉体を追い詰める。哀れなメイ・ピオニーが本物になってしまう。

 奥底からじわじわと湧いてくる本当の感情。蓋をするには間に合わずこんこんと湧き上がってきた。吹き出し口の穴の輪郭を知りたくない。そこが傷口だからだ。もうしばし堪えて、それがカサブタになって固まるのを待てば元通りになる。彼の幻影は四六時中、死神のように吟をみつめていた。



 ホンファは電話口で新たな生命を祝福した。
 剥がれたままの穴は塞がっていない。お産や産褥期の不調よりも、底の空いた心境のほうが虚しく苦しかった。吟は視界の端にいないはずの彼の影をよくみた。亡霊のようなそれは当然彼女にしかみえない幻影だ。

 「大姐? きいてます?」
 「えっ………あ、あぁ聞いてる」
 「もう切りましょうか。お疲れでしょう」
 「大丈夫。続けて。……名前を……決めたわ。……ねえホンファ……この子があなたのところへいったら、名前をつけてあげてほしい」
 「私が? 別の名前を、ってことです?」

 幻影の脚はぴったりと吟にぴったりと沿うよう傍らに立っていた。黒いスラックス、履き慣れたシルバーの鋭い靴。ふと曖昧に記憶をこじ開けてくる香り。いまも電話が終わるのを大人しく見守っている。赤子が泣けばつられてそちらに向いてあやしている。これがまやかしであり、服薬禁止期間が長引いた症状であることを理性が現実を思い出すように訴えかける。

 吟の呼吸は次第に掠れ、呼吸音が隙間風のようにひゅうひゅうと鳴った。

 「大姐……やっぱり休んでください。明後日そちらに着く予定ですから。話はその時に……大姐、……大丈夫ですか。呼吸が……」
 「……やっぱり、だめ。私……おかしくなる……。この子が股から出てきて、へその緒を切ったとき……自信も切れたの。ほんのすこしだけあった……希望的観測がぜんぶ」
 「落ち着いて。……すぐに行きますから」
 「わたし……母親になれない。どうしよう。致命的なくらい。………早く、きて……このままじゃ……殺してしまう。……ふふ、人道支援活動をしようとしている女が……自分の子供を殺していただなんてスキャンダルでしょ?」

 受話器を叩きつけるように切り、傾れ込むように床上に跪いた。
 その衝撃音に眠りかけていた赤子が再び声をあげる。

 「ごめんなさい、イリス」 

 ごめんなさい。
 傲慢で、狡猾で、ひどく弱くて。

 
 熱い涙がぽたぽたと新生児のなめらかな肌を湿らせ、彼女は曖昧で不可解な眠りの刺激にぐずった。
 このか弱い生命を潰してはならない。目を逸し床に顔を押し付けた。
 
 彼の手が右肩に触れていた。
 



 1995年 5月



 吟は春の庭先に佇んでいた。
 ひらひらと優雅に翅を広げる蝶。どこからともなく飛来したミドリツバメの鮮麗なサファイアブルーが露を光らせ、微動だにしない女の近くを細かくぴょんぴょんと飛び跳ねている。

 眩い陽光の麓をぼんやり陽炎のような女は、まるで真冬の極寒の地から切り取られたみたいに異質な存在だった。
 吟がその場所にいるのは長い仕事が終わって、たまたま米国にいたからだ。昨年の春先から精力的に仕事を続けて丸一年。復帰後は息つく間もなく働き詰めだった。世界中を巡り、途中ユーゴスラビア内戦に係わって支援活動に赴いていた。
 
 「行ってあげてください」
 「……無責任だわ」

 吟の背後にホンファが立っていた。ほんのりと甘い匂いを漂わせて。来客を歓迎するための菓子づくりの準備をしている――そんなことを悟り、やはりというべきか来ない方が良かったのではないかと天邪鬼が顔を出す。うだつの上がらない吟の様子に耐えかねて、ホンファの両手が肩に添えられる。

 「いいですか。あなたは私の友達。あの子にとってはマザーのフレンド。これでいいですね?」
 「………そうね」
 「エリカを呼んできて。一緒にお茶をしましょ。今日のあなたは王吟じゃありません。さ……いって」

 仲直りのために素直になれないでいる子供を諭すようだ。吟は己の幼稚さを突きつけられたようだった。紛れもなくホンファのほうが母親であり、十分な大人である。未だに躊躇うのは恐ろしかったからだ。子供のまま子供を産んだ書類上の母親がのこのこ顔を出すことは羞恥心の塊で、みっともなく居た堪れない。ではどうしてこの場所に訪れたのかは、ホンファが何度も頼み込んだからに決まっている。

 ホンファはどうしても、二人が関係を構築することを願っていた。
 吟はそれが彼女らしい優しさであるのをわかっていた。―――口や態度では拒むけれど、本当は娘を愛しているはずだ。それが母親として自然であるし、家族のいない女にできた唯一の肉親なら尚更の話。
 このような思惑を抱いていることは想像に難くない。

 躍起になるホンファの厚い期待に焦げそうだ。
 吟は奥の庭でミニカーに乗る小さな少女に近寄った。

 「エリカちゃん、あそぼうよ」

 第一声は硬くぎこちなかった。
 少女は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐに人見知りのしない笑顔の花を咲かせた。
 各地の訪問先にて、多くの子供と接するときのように膝を地について屈んだ。馴染みの癖になったことを自覚して仄かに笑うと、エリカも真似て笑った。

 「ママのお友達? お名前なんていうの?」
 「……名前はね、……ひみつ」
 「お名前呼べなかったら、困っちゃう。……エリカの名前はしってるでしょ? そんなのズルいわ!」

 エリカは名前をせがんだ。名前を考えてくることをすっかり失念していた。少女の熱視線に困り果てた吟はある提案をした。

 「名前、つけてくれるかな」
 「名前?」
 「うん。好きに思いついたものでいいわ」
 「………Berry」
 「ベリー?」
 「ジャムを作ったの。ママが。とっておきのベリージャムをね。はりきってた! 私もお手伝いしたのよ。甘く出来てるといいわね。今日のおやつに食べられるはず!」
 
 順序立てて話すことが難しい年頃の突発的な物言いは、たった今エリカの頭のなかに思い浮かんだものこそが知っていることであり、それを名付けに使ったということだ。エリカは玩具のミニカーを乗り捨てて、ベリーと名付けられた女の手を引っ張った。

 「ママのお友達でしょ! 一緒にお茶会しましょ! ママ! ママぁ〜! おやつの時間〜!」
 「ハーイ? マイプリンセス。今日のお茶会のメンバーを紹介してくださる?」

 母親の顔をしたホンファが調子づいた掛け声で「ベリー」をお茶会に引き入れた。なにも知らないエリカは嬉々としてリングネームを声高に叫んだ。
 吟は引き返すことができず不承不承とホンファの読みどおりに付き合うことにした。

 お茶会の終わり。エリカが疲れて庭のブランコで甘やかなうたた寝をはじめたのを見計らって、ホンファは再三の説得を口にした。

 「友達ならいいでしょう? その関係なら……いつだってやり直しができる。信じているんです」
 「………」
 「閉ざさないでください。可能性を」

 口の中にはベリージャムの酸味と砂糖の甘さ芳醇な小麦の香が残り、それがまるで今のホンファのようにしつこく絡みついてくる。
 いまさら結論づいたことを覆すのは抵抗があった。ホンファのお節介は吟に「母親らしい」ことを常に望んでいた。その瞳は哀切が滲み、彼女も辛い苦労を人生に敷かれてきたからこその願望で、毒々しかった。折を見て、ホンファは「彼」の話をねじ込んできた。

 「彼の話をしていいですか」
 「彼って」
 「知らんぷりしない。……真島さんのことです。対面じゃないと、逃げるでしょ。今日くらい付き合ってください」
 「彼がどうしたの」
 「……教えてくれませんか。二人の間になにがあったのか」

 諦観とともに笑みがこぼれた。
 ホンファは「真島」のことを高く買っていた。じっさい、彼は何をやらせても上手くいく素質と能力がある。それを込みで吟の傍に置き、実務面での採用を考え直せとも言うだろう。そして、本音は二人が男女の仲であることを燻らせようとしている。

 「なにもないわ。……やりとりもしてないし、会ってもない。詮索してない……もう五年経ってる。ホンファの思うような関係じゃない」
 「私が言いたいのは……彼をどうして拒んだのかについて……、これを言うとあなたは『彼の安全を考慮した』って仰るんでしょうけど……」
 「そうね。よくわかってる。……それ以外の答えがほしいの?」
 「率直にいって彼のマークが解けたから……呼び戻さないかって話です」
 
 やはり、と吟は目を細めた。
 それに対して断固拒否を貫き「必要ない」と一蹴した。

 「……彼はあなたに必要です。これは私の業務量の相談でもあります。いざという時いつも助けに行けるわけじゃない。あなただって公務の量が増えているし……第一、幹部が護衛人なしなんてありえない……!」
 「ご心配なく。今のところ大きなトラブルはない。それにほら、……影が薄いのよ。自慢じゃないけれど」
 「いま大丈夫だからとかではなくてですね……ほんとありえない。……こんなに向こう見ずな人だって知りませんでした」

 呆れた。ため息を何度も大げさについて、ホンファは首を振った。
 
 「あなたは、ご自分の立場や影響力をわかってません。……客観的にみて、まだ適齢期なんです。若く聡明で……未婚で、表向きには子供がいなくて」
 「ステータスの話は嫌い」
 「そう。そういう……度外視なところを好む人間が虎視眈々とあなたにお近づきになりたいと狙ってる。私は褒めてるんじゃない。脇が甘いって言ってるんですよ。あなたは……嫌っている肩書き社会で丸腰だって言ってるんです」
 「安心して。……しばらく遊学の予定だから」
 「ゆ、遊学?! なんですかそれ知らないんですけど!」

 くどくどと説教が始まりそうな気配に水を差し、吟は勝負がついたことを喜んだ。

 「そりゃそうよ。いま初めて言ったんだもの。……お誘いを受けたの。コネ入学なんて風聞が悪いけど。テストは受けたわ。認めてくださったのをお断りするなんて、それこそ失礼でしょう?」
 「香港、ドイツ、アメリカ、英国……レターはたくさんありましたけど、てっきり大姐のことですから断るかと……。公務はどうなさるんです」
 「会食つきの仕事は削って」

 ホンファはポケットに入れていた小さな紙片の裏に鉛筆を走らせる。
 そしてある懸念をそっと口にした。

 「大姐、……またエリカが会いたいと言ったら、会ってくれます……?」

 庭先の茂みからひらひらと遊びにやってきた蝶が、テーブルクロスの角に止まった。




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