最終回――You call my name



 島の西側に面した浜近く。
 そこに切り拓いた土地があり、彼らはそこを裏庭と呼んでいた。
 石造りの納屋を改装した小屋の中には暖炉とテーブルと椅子、ベッドだけの慎み深い営みをするには十分な設えだ。ずっとあの無機質な部屋で暮らしているよりはいいだろうとペトルシュカが提案して、仲間たちを集めて車椅子のまま生活ができるように取り計らってくれた。

 「ねえ、冷たくない?」
 「大丈夫よ。……南の方だから春が早いわね」
 「あとであったかいスープを作るよ。マザー。ほうれん草のスープ! 大好きでしょう?」
 「ええ」

 島での生活の月日は穏やかで、名前のない女は子供たちから「マザー」と呼び慕われていた。
 衣食住の指導をはじめ、教育を施し、成年を超えると島から出して戻って来る者もいれば、居残る者もいる。

 浅瀬で拾える貝を探して、水面に映る女はそばかすが浮かぶ顔をみて微かに笑った。
 若い方がずっと綺麗でハリのある肌をしていたし、美しい方を人は好むけれど、たしかに老いがこの身にあるからこそ自分が生きている実感があった。

 ペトルシュカは呆れた声で、「また自分の顔みてにやにやしてる」と指摘した。
 それさえもお構いなしに、女は自分の遺伝を半分継ぐ少年の将来を尋ねる。

 「ペトルシュカは島を出ていくのかしら」
 「島を……? ううん。僕はここに残るよ。……だって、必要でしょう? マザーは足が悪いんだし……」
 「興味はあるでしょう。外の世界に」
 「……ないわけは、ない……けど。だからって、気に病まないで欲しいんだ。僕は、僕の意思でここにいたいと思っているんだから」
 「……そう」
 「それにね、マザーは一人じゃない。……島を出ていったやつも、いざとなったらすっとんで帰ってきてくれる。……みんなのお母さんだから」

ペトルシュカがくいと首を浜辺の方に振って、つられてみると、そこには他の子供たちが手を振っている。
  
 「……ね?」



 名前のない女にとって、子供たちの存在はもはやこの島にいる理由の大半を占めていた。
 研究機関との取引の項目に、絶対に蘇生を成功させるため献体として差し出したうえで、その細胞を使用した禁忌といえる実験を譲歩していた。ところが機関は秘密裏に実験を早期に開始し、中断が間に合わなかった。

 ――ジーハオは女の蘇生を見届けてから、すべての実験を中断した。
 プロジェクトのリーダーを葬り、当初研究員は数十人体制であったが、今はジーハオが個別で契約していた数人に限られ、最後の子供たちを育て上げるまでを任期とすることを決定した。

 島の建造物は白い建物がある本棟と、別棟の管理小屋。浜辺に近い小屋の三つで、女の住処は小屋のほうだった。どうしても本棟には住みたくないという願いから、子供たちが建ててくれたそこでは日夜誰かが訪れては女の話し相手になっていた。
  
 「今日は一緒に眠っていい?」
 「だめだよ、昨日寝たじゃん」
 「今日は私の番!」
 「みんな〜まだまだお子様だなぁ〜」
 
 石と木で編まれた小屋は狭く、ベッドと小さな机しかない。子供たちは熱心に「マザー」を取り合い、今夜は誰と一緒に眠るかを詰め寄っている様子をペトルシュカはケタケタと笑って茶化した。
 
 「なによペトルシュカ! マザーのいないとこで、マザーの話ばっかりするくせに!」
 「ちょっ……ばらすなよ!」
 「みんな仲良くしましょう。……全員今晩いらっしゃい」

 「やったー!」と子供たちの口から喜びの声が上がる。
 今この島には十二人の子供がいる。言葉を教え、知恵をつけさせ、生活をさせて人の暮らしを十分教えている。そして、いつの日か外の世界へ出してやる。
 

 管理小屋はサンルームと繋がっており、そこは主にジーハオが使っていた。
 夕食をとるには小屋が手狭なため、毎日食事時は管理小屋に赴いて、時々、子供たちが混じって他愛もない話をしている。

 今日子供たちは皆、本棟のほうで食事をとっている。
 先日一人を見送ったついでに買い込んできた調味料でカレーを食べるので何日か前からそわそわして待ちかねていたのだ。

 大人組二人は慎ましく薄い野菜と貝の入ったスープとかぼちゃを団子だ。
 窓からヤシの葉が揺れているのを眺めてスープの汁を一口飲んだところで、ジーハオの真剣な声がいやに響いた。
 
 「……今いる子たちが皆成人したら、あなたはどうなさるんですか?」

 成人とはこの島から出ていくことを意味する。
 そしてここでの成人年齢は概ね十五歳相当であり、島の外に出ても「人間」としてやっていける子供を指す。……ジーハオが権限を握る前は、違法ブローカーに引き渡されるか、研究機関のグループ施設へ連れて行かれて別の実験の被検体になっていた。

 王吟の覚醒が遅れた原因は、前所長が意図的な行為によるもので、ジーハオがその本当の話をするまでに長い時間を要した。少しでも指示と異なる行動をとれば、ジーハオは研究から外されるおそれがあった。
 目覚めてしまっては、契約違反が知れてしまうからだ。

 長い沈黙の末、女はずいぶん軽やかに動くようになった表情筋を誇るように微笑んだ。足以外の筋力、思考力は以前より落ちたとはいえ生活に殆ど支障がないほど回復した。
  
 「平穏に暮らすわ。ここで……」
 「私もですか」
 「……あの子たちが出ていったら、あなた達も同じよ。……付き合わせてしまって申し訳ないと思っているわ」

 無精髭を伸ばしたままのジーハオが肩をすくめた。
 
 「いまさら……よしてください。そういうのは」
 「……そうね、私らしくない物言いね」
 「一人で生活されるんですか?」
 「……昔よりは、十分やっていけるわ。……それに……死ぬということに恐ろしさはない」
 「ペトルシュカは……一緒にいたがると思いますよ」
 「今朝、彼も言ってたわ。でも……外の世界を知らないだけよ。この島は小さくて狭くて、考えることが少ない。……その証拠に……すでに外に出ていった子供たちで帰ってきた子はいないもの」
 「ええ……そうですね」
 
 実に寂しそうにジーハオが俯く。深いスープ皿に残る汁を見つめて。
 
 「みんな次第に忘れる。……そのように仕組んであるはずでしょう?」
 「…………はい。この場所を知られることは、避けたい。……本来ここは有人離島ではありませんし……管理していた組織自体が空中分解した今、歴史の中で自然消滅する最中にあるかと思います」

 誰にもこの島はわからない。
 もし、訪ねてくる人あれば……組織の人間か、研究機関の中でも探り当てられた人間か、運悪く漂着してしまった人間だけだ。
 
 「お願いがあるの、ジーハオ」
 「……はい」
 「ペトルシュカが成人したら、島の外に連れて行ってあげられないかしら」
 「あ――」

 ペトルシュカはきっと最後まで残る子供だというなら、それは研究員やジーハオにとっても最後の子供ということになる。そのつもりで、彼にお願いを聞いてもらいたかった。
 しかし、それが本当に間の悪い。ジーハオがぽっかりと間抜けにも口を開いたまま入口の方をみつめている。
 
 「ペトルシュカ……聞いていたの……」
 「嘘だ……」

 ペトルシュカはごちそうのカレーを分けるために管理小屋まで来てくれたのだろう。
 手には大きめのカップがあり、食欲をかきたてる美味しそうな香りが漂ってくる。
 
 「嘘だ……! 嫌だ! 僕絶対……島の外になんか……行くもんか……!」
 「あ……、待ちなさい、ペトルシュカ……!」

 ほとんど話を聞いていた様子のペトルシュカは声を張り上げて、管理小屋の扉を強く閉めた。
 両脚が動けば追いつくことも容易だろうが、そればかりはもう不可能だ。
  
 「ははは。……難しい年頃です。ほとぼりが冷めたら戻ってきますよ。……ペトルシュカには聞かれてしまいましたし……そのうち他の子供たちの耳にも入るかもしれませんね」
 「笑い事じゃないわ。はあ……、子供たちと話し合う機会を作るわ」
 「そうした方がいいでしょう」

 残りのスープを飲み干して、彼は「あぁ……美味そうでしたねえ」と悔しがった。




 
 「お月さまが一年中上る世界には幸せな人々が住んでいました。……ここは子供たちが暮らすやさしくて温かい国。寝ても覚めても夢の世界。悪いことはなにも起きません。……でも、ある日、この国に暮らすノッポルは……一人遅れて眠りにつきました。夢の世界ではみんながそろって同じ夢をみていなくてはいけません。ですから……ノッポルが参加していないと……」
 「参加していないと……?」

 狭い寝台の上で、子供三人に囲まれて絵本を朗読する。
 ジーハオがかつて日記を書くよう指示した課題で余ったノートを子供たち用の絵本を作ったものだ。

 「かわりに誰かが入ってくるのです……」
 「誰か……?」
 「ノッポルの代わりに入ってきたのは……それはそれは恐ろしい、怪物だったのです……」
 
 子供たちは悲鳴をあげて、マザーに抱きつく。
 同時に雷鳴が島のどこかに激しく落ちた音が響き渡った。チカチカと電球が明滅し、激しい恐怖に揺さぶられた子供たちを慰めていると、扉を強く叩く音が聞こえてくる。
 服にしがみついた子供の一人が「行かないでえ……」と叫んだ。

 天候は次第に崩れ、外は大雨が振っている。
 音は雨風に遮られてほとんど聞こえないなか、どんどんと扉を強く叩く音で子供たちはさらに震え上がった。
 
 「……誰?」
 「……私です。ジーハオです。……その、ペトルシュカはこちらに来ていませんか?」
 「来ていないわ」
 「そうですか……。困ったな……とにかく捜しに行ってみます」
「待って」
 
 女は寝台から子供たちの助けを借りながら車椅子に乗る。
 すぐそこの扉を開けると、ずぶ濡れのジーハオが立っている。
 
 「待って……。……外は嵐よ……さっきの雷鳴が聞こえたでしょう、あなたは建物に戻って……」
 「しかし……」
 「ペトルシュカだって分別はつく」
 「……ペトルシュカになにかあっては、後悔しますよ」

 ジーハオは目を細めて女の動かない両脚を一瞥した。
 
 「あなたの方こそここで子供たちと一緒にいてください。私が捜しに行きます」

 ジーハオは扉を閉めると、強風吹き荒れる雨の中を行ってしまった。どこかで雷が鳴っている。
 子供たちが四方を囲みぐずぐずと泣いているのを哀れに思い、背中を撫でてやる。

 「ごめんなさいね……もっと楽しい話を読み聞かせしましょうか」



 


 ペトルシュカは島の秘密の場所を知っていた。
 おそらく島中で一番高い場所で、晴れている日などには周囲の海やその向こうにかすかに漂う他の島を見渡せる絶景地点で、その日彼の落ち込んだ心を慰めるにあたり、夕日のもっとも美しい瞬間を見ようと不安定な岩場をよじ登って、夕食の時刻までそこに居ようと考えていた。

 ところがうたた寝のつもりが、ぐっすり眠ってしまった。はっと目を覚ますと周囲はびゅうびゅう強い風が吹き流れている。南にある島とはいえ、春がまだ訪れたばかりの夜は雪山のように寒い。

 「ひ――ぅ――」

 ペトルシュカは体中を擦りながら来た道を引き返そうと考えた。
 しかし、すでに日没し、手元のランプ一つの灯りでは心もとなく、またうっかり手を滑らせてしまうと落としてしまうだろう。なによりも、岩場を登ってきているのでとてもではないが降りられる状況にはない。

 「う……うぅ……」

 こんなことなら来なければ良かった。
 泣き言を言う余裕もないペトルシュカは、せめて少しでも風除けになりそうな岩の後ろに隠れて嵐の夜が開けるのを待つほかなかった。

しばらく身を縮こまらせていると、どれほどの時間が過ぎただろうか。風が少しずつ止んでいき、厚い雲が解れその隙間から星の絨毯が見え隠れする。ああ、嵐が去ったのか……。ペトルシュカは岩場からそろりと体を出して、海を見渡した。波は高く暗く大きい穴がゆらゆら揺らめいて不気味さを醸している。

 その時、ペトルシュカの目の端できらりと何かの光りを捕捉した。
 ほんの一瞬のことで、よくよく目を凝らさないとわからない何かが海の向こうにちらついた、そんな気がした。

 「なんだろう……」

 ちらちらとするその光が何なのか。

 「あ―――」

 確かめようと岩の頂上に立ったときふわりと軽い身が風に煽られて、ペトルシュカは真っ逆さまに滑り落ちた。悲鳴は闇夜に吸い込まれて、誰に届くわけでもなく――ペトルシュカは死ぬのだと思った。しかし、幸いなことに崖下に生えるいくつかの大木の枝の何かに服が引っかかり、バネのように体が弾んだかと思えばゆっくりと繊維を突き破り、ずるずると下へ速度を緩めて落ちていった。

 「はあ……はあ……」

 なんとか地面に着地したペトルシュカは、ボロボロになった服を脱ぎ去ってそのまま浜辺まで進んだ。歩く度に湿り気を帯びた砂が足に纏わりついて嫌な気持ちになる。それもこれもすべて自業自得といえばそれまでなのだが、とにかく一刻も早く家と呼んでいる建物に帰りたかった。

 「え……」

 浜辺を歩いていると、何か不可解な光景だった。
 はじめは流れ着いた流木かなにかが砂に埋れているのだろうと、通り過ぎようとしたのだが……それがわずかに身じろいだような気配がした。ペトルシュカはゆっくりと、それが何なのか近づいていった。

 「……人だ……」
 
 暗くて、男であることしかわからない。
 ランプさえあれば、顔が判別つくだろうが、命と引換えに先程の滑落の際に割ってしまった。
 
 「だ……え……どうしよう……。う……うわ……っ」

 ペトルシュカはすっかり恐ろしくなって尻餅をついた。
 海の波はまだ高い。ペトルシュカは先程のちらちらと見えた光が、もしかすると……この漂流者が乗っていた船が難破したのではないか――と考えた。

 「ペトルシュカ――ッ! いたら返事をしなさい――!」
 「ジーハオ……ッ……ジーハオ……! 大変! こっち! 早く来て!」

 ペトルシュカは浜辺を駆け、ジーハオのところに向かう。
 
 「ペトルシュカ! なんて格好だ! 今すぐ――」
 「違うんだ! そんなことより、大変なんだ!」
 「何言ってるんだ、早く戻ってシャワーを浴びなさい! 風邪をひく! それからマザーのところへ行って顔を見せに……ちょっ、引っ張るな……!」
 「早く! 死んじゃうよ! 人が、漂着したんだ……!」
 「漂着……!?」

 ジーハオを引きずってペトルシュカが浜辺の漂着者のもとに案内すると、彼はペトルシュカに小さな声で囁いた。

 「ペトルシュカ……家に行って……応援を呼んできてくれ。……それと、私が戻るまでマザーを小屋から出さないように頼むよ」
 「えっ――?」
 「いいかい。ペトルシュカは怪我をしているなら手当てをしてもらいなさい」
 「……ん、うん……」

 ペトルシュカは真剣な顔で指示を出すジーハオが急に怖くなったように感じた。
 大人は時々、本当の大人の顔をする。ペトルシュカはジーハオに背中を押されて、また浜辺を走り出す。走りながら後ろを振り向くと、ジーハオがその漂着者の傍らに身を屈めて声を掛けている様子だった。

 言いつけどおりペトルシュカは建物へ戻って、複数いる残りの大人を浜辺に向かわせた。




 ◆ ◆ ◆ 

 

 嵐が明けて雲の天蓋が開くと真島はそこが、どこかの島にたどり着いたのだと思った。
 狭い視界には複数人の影と、自分に話しかける男の低い声。薄暗い中、男の持つランプの灯りが遠い記憶の中で見知った顔だとわかったとき、叫びたくなった。
 
 「聞こえますか。……起きたようだ……そのまま搬送を頼む」
 「……あ……っ……!」
 「大きな声を出さなくても大丈夫ですよ。……わかっています。……落ち着いてください……真島さん」




 
白い建物の中は研究所と、あとは生活棟として居住区に割り当てた構成で、研究所に関しては数年前に完全に封鎖した。ジーハオの主人である王吟こと今はマザーと名乗る女がそう指示したからである。

 担架に乗せられて運ばれた漂流者は、見知った男であり、女主人が密かに切望する相手であることは承知していた。どういうわけか、十年のときを経て、彼は――真島吾朗はこの彼女が隠遁生活を送る島にやって来た。船に乗ってきたそうだが、嵐の中で転覆し投げ出された、と真島は語る。

 「軽い切り傷と、打撲で済みましたね。よかったです。他に気になるところはありませんか?」
 「……いや……」

 真島はきょろきょろと建物内のあちこちを見渡している。
 先ほどから好奇心旺盛な子供たちが、見ず知らずの来訪者に怯えたりその好奇心から理由もないのに部屋の前を行ったり来たりしているのが落ち着かないようだ。

 「ここは……なんや」
 「……驚かれるのも無理はありません。……真島さん。……ここは……その……子供たちのための施設です……とはいっても……その……秘密裏のものです……あまりこの話は子供たちにしないでほしいのですが」
 「……ああ」
 「みんな、部屋に戻りなさい。もう眠る時間だよ」
 
 ジーハオはやはり落ち着かないと思い、部屋の外にいる子供に声を掛けて扉を閉めた。

 「……痛み止めを飲んだ後ですから、お出しできるのが水か、木苺をすりつぶしたジュースもどきになってしまうんですが……構いませんか?」
 「ああ」
 「……話せるところまで、話しましょうか」
 「なあ、……ここに吟はおるんか」

 実に単刀直入な質問にジーハオは面食らうとともに破顔した。
 
 「ふふ……すみません、気が利かなくて。私も、まさか……いや……気がかなり動転していて……お捜しの女性は生きていますよ」
 「……そうか」
 「今夜はもう遅いですし、眠ってしまったかもしれませんね」
 
 真島は盛大にため息混じりの安堵を漏らした。
 顔を床に向けて手で覆ったまま、長い息を吐き、次第にそれが涙ぐむようなものに移ろいでいく。
 緩慢な動きで防水ジャケットの内側に潜めていたビニール袋に入った白い封筒を取り出して、ジーハオに見せた。
 
 「すまん……感極まってしもて……、ああ……そや……」
 「……これは?」
 「皺くちゃになって悪い、その中は……クゥシンからのものが入っとる」
 「え――」

 ジーハオはカッと一瞬頭が真っ白になった。貰った封筒を持つ指が震えてなかなか開けられないジーハオに代わり、真島が代わりに封を切ると、その中にある言伝が書き記された紙を彼に渡した。

 「あ……あ……、あぁ…………あぁ……っ……!」

 もはやそんな日が訪れることはないと考えていた。
 悪魔に魂を売った日から、妻を裏切ったのも同然だと思い続けてきたからだ。そんな自分が再び相まみえる権利などがあるだろうか。
 ジーハオの瞳孔は大きく開かれ、奥歯がカチカチと鳴り、増えた皮膚の皺のひとつひとつが濃くなっていく。全身を言葉にならない電流のように歓喜が巡った。
 
 随喜が涙の一筋となり、打ちっぱなしのコンクリートに滲みをつくる。
 腿の筋力が力を失い脱力しきり、膝をガクンと床につく。目を擦り、何度も凝らして見る。情けなくなるほど、本当かと真島に縋るように確認する。小さく頷き、掠れた声で正しいと肯定した。

 「ああ。……夢やない……」
 「うぅぅぅ……う、うぅぅ……っ」

 クゥシンは終の棲家として家を買った。
 戻って来るまでそこで住み続ける――。
 彼女らしく簡素な伝言である。それだけだというのに胸は満たされていく。

 床に頭をつくと彼は女の代わりに謝った。





 ◇ ◇ ◇

 
 嵐が止んだというのに俄に島内は騒がしかった。
 三人の子供たちが狭い寝台をぎゅうぎゅうに押しくら饅頭で眠ってる。
 ベッドの一番端でうとうとと船を漕いでいると、夜更けに誰かが砂浜を歩いている音がした。その足音は次第に小屋へ向かって、扉の前で立ち止まった。

 「……誰……」
 子供たちが起きてしまわないよう、そっとベッドの脇にある水陸両用車椅子へ移り座る。
 サイドチェストの上のランプを膝の上に載せ、女は扉に近寄った。もう一度、小さな声で外にいる何者かに声をかける。
 「誰……?」
 「…………マザー。僕だよ……ペトルシュカ……」

 はっとして、扉の内鍵を外す。扉を押し開けると、擦り傷があちこちにできたペトルシュカが立っている。手を伸ばし身を引き寄せると大人しく抱きしめられる。
 
 「……心配、したのよ……!」
 「……ごめんなさい」
 「他に……どこか痛い所は……?」
 「……ううん」
 「よかった……」

 着替えてきたのかペトルシュカの服は新しいのに、肌からは雨の匂いがした。
 
 「……僕達は……大人になったら忘れてしまうのって……ほんとう?」

 ペトルシュカの瞳は泣いていた。
 
 「……覚えていないほうが、いいことだってあるの」
 「どうして」
 「覚えているほうが、辛いことがたくさんあるから」
 「納得できないよ、そんなの。僕は忘れたくないよ……今夜、僕のために泣いてくれた人を」

 女はその時、彼が大人になったと感じた。

 「……散歩しましょうか」
 「え……でも……」
 「嵐は、終わったでしょう。……鍵を締めていくわ」
 「あ……え、えっと……外に出るな……って」
 「……どういうこと? ……ジーハオは?」

 ペトルシュカはバツの悪そうな顔をして口ごもった。
 奇妙な言動から推察するにそれは嫌な予感だった。島に誰か流れ着いたのではないか。そんな予感だ。
 この島に漂着する人間は今のところなく、嵐の夜にわざわざ海に出ている必要がある者といえば、密漁者くらいのものである。
 
 ならず者が島に来た――、ジーハオが無事である保証はない。もし、もしも――ジーハオになにかあれば、子供たちはどうなるだろう。残りの大人が万が一、死んでしまったら……?
   
 「……ジーハオが、そう言ったのね?」

 女の声に子供の一人が目を覚ました。
 
「マザー……どこかに行っちゃうの……?」
「大丈夫よ。どこにもいかないわ。……ペトルシュカ、戻るまでこの子たちをお願いしていい?」
「ちょ、ちょっと……マザー……だめだよぉ……知られたら僕、ジーハオに……なんて言われるか……あ――」

 女は車椅子をハンドリムを回し、湿った砂の上を走り出した。
 ペトルシュカは困り果てた声を上げたが、それも遠のいていく。夜の浜辺をギイギイと軋む音が響き渡る。




 ◆ ◆ ◆




 「真島さんは二階の部屋をお使いください。……あ、子供たちが悪戯にしてきたら、すみませんがお付き合いください……これ、毛布です。ベッドには枕がついてますのでご自由に」
 「おう、おおきに」
 「……あとは、明日の朝食までには起こしに行きますから」

 
 割り当てられた二階の部屋には大きな窓が二つある。そのうちの一つを開け、換気をすると夜風に乗った潮が部屋を満たした。白い壁にコンクリートの床、ベッドが数台。錆びかけのクローゼット。ジーハオが言っていたように、枕はあった。毛布、水差し、濡れたジャケットをクローゼットの中にあったハンガーで吊るす。あらかじめ着込んでいた長袖のラッシュガードのジッパーを緩めて、真島はベッドに腰掛けた。

「……子供……か」

 島には大人よりも子供の方が多いらしい。
 ジーハオは言葉を濁したが、違法行為がここではまかり通っている。国を作るために始められた、計画に沿って彼女は加担していると考えていいだろう。

 波の音が近い。
 真島は眠りにつくため、開けていた窓を閉じようと窓辺に寄った。
 なだらかな海岸と白い白浜の上には等間隔にヤシの木が植わっている。ジャングルのように濃い森林が盛り上がっているせいで反対側の海岸は見えない。

 右の瞼を何度か瞬かせた。
 こんな夜更けにもかかわらず浜辺に人影がある。ヤシの木の影の合間を車椅子で走る女が。
 それが誰なのか、考える時間さえも惜しく。真島はほぼ本能に従い、衝動的に二階の窓の柵を容易に乗り越えて、一階の玄関前に着地した。
 
 「ちょっちょっ……ちょっと、真島さん! あなた今二階にいましたよね……!? あ……!」

 一階の診察室の窓を開けたジーハオがひっくり返った声で叫んでいる。そんな事もどこか遠くに、ゆっくりと、たしかに、次第に速くなっていく足取りと心拍数が時間を超えていく。

 車椅子のハンドリムを回すのに疲れた彼女は息を整えながら視線を海の水平線に向けた。
 嵐は完全に過ぎ去り、透き通る水にも大空が反射している。大きく精一杯息を吸い、吐いて、生きている。そこへ、ぶわりと風が吹き、長くなった髪が巻き上がり、それに押さえ倣うように彼女の目線が目の前に立つ男の方に移る。

 「あ――――」

 信じられない――。
 すべての言葉を失い、ひとつだけ残された音に集約された感情が崩れていく表情がすべてを物語っている。彼女の傍へ一歩、二歩進むとどうしていいか迷い真島は困ったように眉を下げた。そして、ほとんど風によって掠められていく言葉を余す所なく零さないために、真島は彼女の身を軽々と車椅子から抱えあげる。

 「……もっぺん聞かして」

 頬を擦りつけ、かたく抱きしめる。
 細い腕が離れがたく真島の背を撫で頭の後ろに回り込む。

 「――おかえり、なさい」

 真島は憎らしい女だ――と思った。
 勝手に離れていったのは女のほうだろうに。いつもそうだ。こんなに尻尾を振ってついていってやっているのだから、褒めてもらわなければ。
 ついでにその憎らしい報讐として、きつく愛情をしつけておいてやらなければいけない。

 額に、頬に、耳に、唇に。

 それこそ本当に犬を撫でくりまわすように、真島の髪をかき乱しながら彼女は愛を唇で受け取る。
 しだいに彼女の涙が頬を滑り落ちていく。真上の星のように一筋また降ってきて。綺麗だと感じた。

 
 「……名前を……、呼んで――――私の……」

 
 どこまでもわがままな女だ。
 それでもまた満たすように彼女の本当の名前を口にする。

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