手紙


 夢か現か幻か。

 一眠りのあとの馴染みの天井と昨日まではそこにあった体温が今朝にはなく、燦々と照る陽の光が何食わぬ顔で居座っている。
 彼の買ったものがそのまま花瓶に。短い日々の痕跡を残し乾いた花びらが一枚二枚と剥がれ落ちていく。

 新しい港に着いて、また花を買いに行く。
 彼の花を棄てて、成り代わり、消えていく。花の匂いさえも消えていく。
 

 



 
 お元気ですか。

 まさかお返事がくるとは思いませんでした。
 こちらの手紙はホンファを伝って、いただいた返事の返事が届いたと思います。

 いまスロヴァキアにいます。絵葉書を同封しておきます。
 奥に見えるのはブラチスラヴァ城です。
 自然豊かなところでしょう。紅葉の時期だったので散策が楽しめました。
 こうしてあちこち巡っていると、街ごとにすこし風のにおいが違うように思います。


 お忙しいでしょうから
 思い出したらまたお便りください。

 王吟



 ――どこか、誰も知らない場所で、私だけの名前があって、隣に愛する人がいて。






  ◆ ◆ ◆



 彼女のことを思い出すとすべからく、その思い出に行き着く。

 「無人島になにか持っていくなら、どうする……」

 愛を欲しがる女を抱いたあと。
 冷めやらぬ余韻に彼女のぽつりぽつりと、とりとめのない話が宙に放り出され、男はこめかみに縫いつけるような口づけを落とした。意味のなさない戯れと余興の問いだと、真島は思った。彼女は話にエスプリを求める気質があるし、本当に訊きたいことの主語、もとい本質を詳らかにする役割は真島にない。
 ただ、過去に同様の問いを用いられた記憶が不意に蘇ってきたのだ。

 「その質問、前に王はんにもされたのう」
 「……あの人が? なんて答えたの」
 「いや、話のネタは国が違うても同じなんかーっちゅうた気がする」
 「答えになってないじゃない」
 「ひひひ……!」

 もっともなツッコミにこそばゆさを露見しつつ、彼女の『正解』を問うた。
 
 「おまえは。……何持ってくんや。人に聞く前に自分の教えんかい」
 「……秘密」
 「秘密て、徹底した秘密主義やの」
 「そういうことじゃない……」
 「エエ、エエ。お前がそういう奴なんは百も承知やわ」

 あの時、吟は秘密にしたわけではない。
 『秘密をそこへ持っていく』といった意味がどうやら真島には伝わらなかった。
 示唆を含めた啓示をその時にわからなかっただけだ。

 ―――もし、誰もいない場所があるなら、そこで全てを打ち明けることができる。

 吟はそう言いたかったはずだ。
 その秘密を聞いてほしい相手とは、無論、真島のことで無人島の話から婉曲して不時着してしまった。
 最後まで真島は彼女の真意を汲み取ることができず、それが数十年の年月を経て思い至ったのである。

 彼女の最後の手紙。
 秘密裏に遺された手紙は、その夜の話で、王吟は無人島にいることが示唆された。



 銃砲と硝煙と熱気が暗闇を貫く。
 エリカの毛髪は焼け切れ間一髪免れたものを狙い撃った者は二度目のトリガーを引かんとした時だった。

 「がぁあっ」

 エリカは闇の中で男の悲鳴をきき、それが真島でないことを祈った。
 そして身をわずかに屈め、数発の銃声に悲鳴をあげた。

 「似ているな」
 「ひっ……!」

 その声は真島のものではなく、咄嗟に死を悟った。
 リラが庇い立った。

 「エリカさん、下がって!」
 「リラ、だめよ!」

 エリカが再び叫んだ。それ以上死者を増やしたくなかった。
 闇の中顔貌すらも判別付かない長身の男はやはりエリカの記憶にない。そこへ、機会を狙って一撃を振るう正義の男がいた。

 「……ぐっ」

 長身の男は呻きながらよろめいた。
 応戦しようと体勢をとり、いよいよ死闘が始まるかと思った矢先、男は気づいたようだった。

 「お前か? エリカをずっと尾けとった輩は」
 「……真島? おやおや、とんだ再会だな」
 「真島さん!」
 
 何を悠長に、エリカはすっかり力の抜けた足でよろよろと地下の階段から地上へと抜け出た。
 

 「お前……王汀州か。この子は……この子を殺す気か?」
 「……だ、だれ?」
 「フン。話は面倒だ。じきこの地区担当のポリスが来る。真島、お前はこの娘を連れて俺と来い」
 「あぁ?」
 「二言はない。そこの耄碌どもは構わん。早くしろ。俺は気が短いんだ」

 王汀州というらしい男は仲間に連絡を取ると、ゴツゴツと重いブーツの靴音を響かせて表へ出ていった。
 遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。じきこの家に到着するが、エリカは保護されることなく真島とともにその男の用を果たさなくてはならないらしい。混乱渦巻く頭で、着々と状況を飲み込んでいく。

 「……まじ、真島さん……」
 「エリカちゃん、離れたらあかんで」
 「は、はい」

 真島はスマホをエリカの服のポケットから出し、ライトをつけた。床は朱く辺に飛び散っており、品のいい調度品や壁紙のあちこちをべっとりと濡らしている。見知らぬ男の死体を目に入れぬよう真島はエリカを身の影に隠すように抱え歩いた。

 「マザー・グレイシー。……リラ、……ごめんなさい、……わ、わたしのせいで……わたしがここに来なければ……」
 「落ち着いて、エリカ。私たちは大丈夫よ。警察もそのうち来るわ。大丈夫。安心なさって。私たちは警察が来るまで隠れていますから」
 「……ごめんなさい……」
 
 エリカの顔は蒼白で涙が雨だれのように垂れている。
 真島はそっとシェルターの入り口に顔を出すリラに目配せした。リラは目を恭しく閉じ、顔の前で十字を切った。

 家の前では大きな黒バンが停まっており、二人が近づくなり中にいた黒ずくめの男に押し込まれた。
 「大人しくしろ」と、誰かが英語で言った。二人が乗り込んだあと、黒バンはどこか目的をもって走り出した。車内は常備灯の光が怪しく照らし、外から中がわからないように目張りが十分なされている。
 唐突に葉巻の独特な香りが鼻孔を突き抜け、エリカが咳き込んだ。


 「王はん、ワケ話してもらおうやないか。俺らをどうするつもりや」
 「真島、再会を記念して一本どうだ」
 「……えっ」

 エリカは二人がごく自然な日本語でやりとりしていることに目を瞠った。
 真島は丁重に断ると、王汀州は喉を鳴らして笑った。

 「あいつらはこの娘を狙っているのさ」

 面妖な狐のようなアジア系の男は葉巻を味わいながら嘯く。
 ネイティブに近い日本語はエリカでも意味が少しわかる。この男は敵か味方かでいえば敵のはずだが、真島と旧知の間柄であるらしい気配と、車に引き込んで乱暴な扱いは今のところ起きていないことから極端な判断はしないことに落ち着いた。

 王汀州はボックス席から身を乗り出し、エリカをまじまじと覗き込んだ。
 
 「俺は別件だ。だが、そうだな。……取引しようじゃあないか。いいネタを掴んでいるだろう?」
 「吟のことか?」
 「話が早くて助かるよ」
 「王はん……それ知って、どないするつもりや」

 真島はエリカを守るように抱いたまま睨みを効かせ、不意に最後列の席にいた男が中国語で叫んだ。
 王汀州はシートの下に備えていたトランクを開け、つや消しの黒い武器を手際よく組み立てていく。唐突に発砲音が外からした。敵襲の気配に居ても立っても居られず急き立てる。

 「……アイツらは何モンや!」

 王汀州は再び身を乗り出し、真島に銃のグリップを差し向けた。

 「取引は?」

 怜悧な声音だった。エリカは恐ろしさを堪え、息を潜めた。
 真島は数度瞬きを繰り返し、その銃を手に取った。
 
 「我々の同胞……だった輩さ」
 「また内輪揉めかいな」
 「おい、しっかり被せとけ、弾食らうぞ」

 防弾性に優れた厚い布を放り投げ、真島はエリカを頭から足の爪先まですっぽり隠れるように包み込んだ。

 「エリカちゃん。ワケはあとで話す。ええな?」
 「は、はい」
 
 後方から競りだすように数台の車が並走し壮絶な銃撃戦が始まった。
 エリカは布の内側で、これが産みの母親が恐れていた事なのだと肌で感じていた。エリカが望まなくとも、誰かの思惑がエリカを不幸にする。彼女は真島の話の中で常に独りぼっちのように思えた。何を考えているのか見通せない不気味さもあるし、人心掌握術で人を殺すことも、殺させることも出来た。そうなるに至る要因や全ての元凶を、今自分を守護する男は知っているはずだが、エリカが知っていいことではない……とも思った。

 銃撃戦は力では圧倒的にこちらが有利だったが、うじゃうじゃと次から次へと敵が湧いて出てくる。真島は銃のリロードをしながら王汀州に投げかけた。

 「お前も……この娘を尾けとったな」
 「テストだ。この小娘が本物の後継者たる証があるかどうか調べていたが………こりゃダメだ。ただの平和な世界に必要な人類の一欠片さ」
 「………」
 「私は期待したさ。お前と拵えた子供だというから、……それはそれは両親を凌駕する出来栄えかと思ったんだよ。アテが外れた」
 「吟はそれ見越しとったで。寝首をかかれたっちゅうわけや」

 敵側から激しい銃撃が車両を襲う。
 バケツの中に顔を突っ込んで外から叩きつけられているような五月蝿さにエリカは耳を覆った。

 「ひっ――」
 「打ち損じだ。耳を塞げ。聞こえなくなるぞ。……余計な邪魔を始末する手間を取ったが……まあいい。あいつらを殲滅後しっかりリカバリする。おっと……」
 「あなたが、あなたが殺したの!? パパを! ママを!!」
 「エリカ!」

 急に立ち上がろうとするエリカを真島は引き捕らえた。
 
 「お誂え向けの家族計画を講じたのは俺じゃあない。吟だ。協力者はお前がママと呼ぶ女、私の部下でもあった。喜べ。福音だよ。生きているぞ。チャン・ホンファは――!」
 「ほんとうーーなの」

 車両前方で機関銃を放つ女が叫んだ。
 エリカはホンファが生きているということだけで、胸の空く思いで一気に体中の力が抜けた。

 「おい、エリカ……大丈夫か……! しっかりしろや」
 「大哥! しっかり狙ってください。民間人を殺すと不味いです」
 「わかってる」

追跡者達を屠りしばらく走った後、それまでの五月蝿さは一気に静寂に移ろいで。真島に抱えられながら、エリカは点々と輝く星空を呆然と眺めていた。王はお気に入りの葉巻をじっくりとふかして、チャン・ホンファの情報を明かした。

 「チャン・ホンファは高い塀の向こうにいる。……間諜で疑いをかけられ、見事ハメられたんだ。刑期は十年。もうすぐ出られるが、俺達もずっと捜していた。……というより近づけなかった。組織でのゴタゴタが長引いた……あいつの後始末は時限爆弾だったよ。……俺に対する……意趣返しだろうな」

 王汀州はにやりと笑い、真島を見つめた。

 「吟の計画の詳細を知るのは、ホンファと……わたしの部下一名のみ。……ある日、私のデスクに近づいてきて奴はこう言った。私の人生を前借りすると言われたからあなたの元を離れます――とな。忌々しい話だ」
 「エン・ジーハオが?」
 
 エン・クゥシンは目出し帽を脱ぎ去り、後部座席に身を乗り出して一本の水の入ったペットボトルを真島に手渡した。

 「そうだ。私にさえ、ジーハオは言わず、彼は大姐についた。それから消息不明です」
 「で、だ。………俺たちはホンファに会いに来た。……今の俺とお前は同じ迷える羊だぞ。そうしたらどうだ、製薬会社が組織に乗り込んできやがった」
 「製薬会社?」
 「一番でかい看板はそうだ。やり手のグループだ、研究機関をいくつも抱えているような。……きな臭いだろう? 俺は密かに練ってあった計画が漏洩したんじゃないかと慌てた。私設機関に連絡したところ、勘があたった。……吟がプランAをとっくに開始していた」
 「………」
 「わかるか。昔言ったな。俺は国を作ると。出資者がいて、提供者がいて、俺は実行者だと。そう、それがプロジェクトの最初のAプランだ」



 ――女は、あの島にいる。



 「………俺とあいつが、出会った島だ。俺たち兄弟はあそこで、人間を栽培していた。ゆくゆくは武器となる獣を」
 「実験で発現した獣をもとに、クローンをつくる。これをプランAと呼ぶ。……私がホンファに会うのは確認だ。吟がどこまで計画を実行する算段だったか。……製薬会社は吟の持つ企業に買収手続きが取られていた。計画の一部を知る研究員は金でも握らされたんだろう、輩共は俺を裏切り……挙げ句、この娘を狙ったというのが筋書きだろう」

 エリカはおそるおそる、王を見た。
 もっと恐ろしいのは、エリカを結局巻き込んだ主犯格が吟だったという点だろうか。
 
 「憎いか」
 「………」
 「お前を産み落とした獣を殺したくて殺したくて堪らんだろうよ」
 「……私にとっての母親は、そいつじゃない……ですから」

 王汀州は小刻みに身を震わせて笑った。

 「はははは……そう、そうさ。悪魔さ。……俺は悪魔を喚んだ。だが、その悪魔を肥え太らせたのはお前だ。真島」
 「……なんで」
 「お前が悪魔に愛を喰わせた」

 王汀州はさらに笑みを深めた。
 憎いことに、反論はまったく浮かばなかった。――事実だといえばそうだろうし、愛を感じた原因が遠い昔――穴倉にあったと言われれば、彼女をあんなどん底の場所で働かせていた王達に原因がある。――しかしそれも、王の言葉をそのまま借りるなら『悪魔を召喚しただけ』なのだろう。

 「――は。傑作だな」




 乾いた冷たい風が埃とともに吹く。

 「四五分だ。行けよ。感動の再会だろう。……クゥシン、よろしく頼む」

 深夜の刑務所近くの廃屋で、王と真島は残った。
 エリカはクゥシンを伴い、深夜三時に一時脱獄予定のチャン・ホンファと再会する猶予を与えられた。もうすぐ出所を迎える模範囚ゆえに、今夜の行動を気取られてはいけないため二人に行かせることにした。

 いくら屋内とはいえ、殆ど隙間風に晒されていて底冷えする。
 真島は身を軽く擦りながら、白い息を吐いた。唐突に王は真島に話を振った。

 「……どんな気分だ。急に大きな娘ができた感想は。……あの顔はおまえじゃなく、女の方に似ているから、やましい気を起こしたりするのか?」
 「しばくぞ。……あの子は……ワシの娘ちゃう」
 「なんだと? お前以外の男の、子だっていうのか。はん……だったら尚更じゃないか」
 「ちゃうちゃう。……今更やろ。いきなり親子や言われて納得できるもんやない。エリカかて同じや……あの娘にとっての親父も母親もしっかり決まっとる」

 王はまた不躾にも腹を抱えて笑った。

 「島には行くんだろう」
 「ああ」
 「心当たりはあるのか」
 「いいや……洗いざらい探らなあかんな」

 吟のいる島はどこにあるのか、真島はまったく知らない。
 その話を聞かされた事はおろか……思い当たる節もないからだ。そんな真島を哀れに感じたのか、王は親切を申し出た。

 「一度帰国しろ。後始末が終わったら送ってやるよ」
 「王はん。吟をどないするつもりや。……生かすも殺すもアンタ次第や」
 「報復を望むのか? 王吟は死んだ。……あの女にもはや野心はないだろうよ。ビジネスは失敗した、終わりだ。それよりも香港が不味いことになった。もし、吟があのまま玉座に鎮座していたら諸共食い潰されていた。多少は応戦することも出来ただろうが、癒着と賄賂が暴かれて国外追放されただろう」
 
 王は鼻で笑い、だから結果としてはタイミングが良かったとでも言いたげな様子で、吟の始末をつける意志はなさそうだ。

 「俺は今、カナダで上手くやってる。今回は優秀な諜報員の出所と後始末のためさ。妙なやつが嗅ぎ回っていると思えば、残党が吟の死体を弄るために奔走していた、というあたりだ。――生かすも殺すも――は、お前の権利だよ、真島」
 「ジブンなに言うてるかわかっとんのか?」
 「あの女に、俺が人生の補償をしろと?」
 「…………」
 「金か? 権力か? 名誉か? 俺が持つもの与えるものであいつが満足したことはただの一度もない。時間は戻らない。ずっと、ずっと――行きっぱなしさ。……どうする? あの女の正体を掴めているなら、居場所を用意してやるのもよし、墓を作ってやるのもよし、お前次第だ」
 「……生きとるんか?」
 「さぁな。俺ができるのは推測だけだ。………うらめしそうに見るな。それを確かめに行くのが、お前の役割だろう」

 やはり真島は、ただの一度も吟の正体を知らない。
 日本のどこで生まれ育ち、本当の名前さえも知らない。

 「星が奇麗な夜だ」

 屋根のない廃屋の空は星が瞬いている。
 なぜだか不思議なことに、彼女もこの空を見ているような気がした。





 真っ暗闇でもその細長いシルエットが切り絵のようにそこにあって少しずつ近づいてくるのがわかった。エリカは草むらの中を音を立てないように慎重に進んでいたが、最後には堪えきれず走り出していた。ホンファの方も、エリカだとわかった途端駆け出していた。

 ついぞホンファの胸に飛び込む頃には涙の塩気が鼻腔を埋め尽くし、どっと堰き止められなくなった感情が洪水のように溢れ出した。

 「エリカ――!」
 「……あ、……ま、っまま……!」

 母も声が上擦って、悲鳴のように娘の名前を呼んだ。

 「ごめんね……ごめんね……」

 ホンファがなにに謝っているのか、そんな事はどうでもいいくらいエリカは昔よりも小さくなった母親の体をきつく抱きしめた。官製服の無機質でゴワゴワとした肌触りや、染み付いた汗や、日々の刑務作業の時の空気の味や、そのぬくもりすべてが大袈裟にエリカを包み込む。

 「……あちらに大哥がいらっしゃっています」
 「……ありがとう、クゥシン」
 「いえ……」

 ホンファはエリカの肩を抱いて廃屋に入ってきた。
 久しぶりに見たホンファは随分と痩せており、十分始末をつけたようだった。
 真島がいる事に特段驚いたりすることもなく、むしろ計画が上手く行って良かったと胸を撫で下ろした様子に、真島もこれが正しかったのだとため息をついた。

 「終わったか」
 「お互いに。………真島さん。………なにから話せばいいか」
 「いや……」
 「騙していたことを……侘びます。ずっとあなたに嘘をついていた。こうなると知っていれば……あの人を止めたと思います。知恵を貸して、本当の望みを叶えようとしたはずです」

 あの獣の真意を悟ることなく、生き永らえさせてしまった責任が私にある、と――ホンファは言った。

 「すべて終わったあとで……卑怯ですね」
 「いや。……そんときはそうする他なかったはずや」
 「そうでしょうか。……私が一番、便宜を図るには自由に立ち回れたはずです。……あの人が私を傍に置いてくださったのは利用価値があったから。……その時の私は浮かれていて、慢心しすぎていたんでしょうね。だからこうして十年も豚小屋行きってワケです」

 真島には何も返す言葉がなかった。
 ホンファも、吟に振り回された被害者だ。

 「ホンファ。これからどうする」
 「……しばらく監視は続くでしょう。大哥は私のポジションを用意してくれているみたいですが……時期尚早でしょうね。出所後は暫く大人しく暮らします。身元引受人はエリカにお願いするつもりです。……落ち着いたらまた手紙を送ります。今度はゆっくりお茶でも飲みながら」
 「ああ」

 ホンファは細い手を差し出した。真島はそれに応じて握手を交わした。
 王のもとにホンファが近寄ったのを見計らって、その後ろに待機していたクゥシンが真島の側に寄った。

 「真島さん、話がある」
 「……なんや」
 「……私は……今は、藍華蓮の組織の人間ではありません。私兵として今回参加している。……よって組織の守秘義務も当然ない、時効ということで。……亡き王吟の生前の住所をお教えできるかと」
 「……なんやて? 知っとるんか」
 「……昔……日本を発つ際に、立ち寄られたので。……その代わり。……エン・ジーハオに取り次いでください。あの女が生きているなら彼を解放すること。この紙に私の今の住所と、……女の昔の住所がある。……ジーハオに伝えて」

 クゥシンが真島の手に握らせた白い封筒の中には何枚かの資料が入っている。
 夫を返すように伝えてくれ、と懇願されて断る動機はない。真島は了承し、その封筒を上着の内胸ポケットに仕舞った。







 エリカの短くも濃密な旅は、無事、母親との再会で締めくくられた。


 オーランド国際空港。
 フードコートで搭乗まで時間を潰していると、探し回っていたエリカが小走りで真島の座るテーブルにやってきた。

 「す、すみません……! 遅れてしまって……」
 「お、落ち着けや……まだフライトまで時間がぎょうさんある。エリカちゃんこそ、まだこっちでやることあるやろ。エエんか? 見送りなんて」 
 「……あ、あはは……色々お世話になっておいて見送りなしなんて、とんだ薄情者じゃないですか! ……えーと……、何時の便でしたっけ……」
 「十八時四五分のや。……なんか飲むか?」
 「えー……どうしよう……走ったから喉乾いちゃった……あはは」

 散々探し回ったのだろう。
 整えたはずの髪は乱れ、メイクの上には汗が滲んで頬はわかりやすく紅潮し、息が上がっている。そんな苦労を労うべく真島はエリカを椅子に座らせて、フードコート内の店のドリンクを買いに行った。

 テーブルに戻ってきた真島の手には熱いアメリカーノと包み紙に包まれたクリームと一緒に三度されたフルーツサンドイッチがあり、エリカはまた椅子から立ち上がって大きなハンドバッグの中にある、普段は滅多に使わない財布をがさごそと探り出した。

 「ありがとうございます……! あ……」
 「ええ、ええて……。払わんでええ。年下の娘に奢らせる男がどこにおんねん」
 「えー……でも、ここの高いでしょ……なんか、サンドイッチまでついてるし……」
 「オマケや。……ひひ」
 「じゃあ……ありがたく」

 渋々と諦めたエリカは受け取ったアメリカーノを早速それを口に含んで息をついた。
 温くなったコーヒーを一口。真島は照れ臭そうにサンドイッチを頬張るエリカをテーブル越しに見つめた。一九八九年、七月。吟が日本を発つ直前、ショートケーキを頬張る姿が懐かしくも鮮やかさを取り戻し、舌の上の苦味がまろやかに感じられた。

 ――ヒヒ、なんや。好きなモン最後に残しとくタイプなん?
 ――……からかわないで。
 ――バカにしてへん。いや、オモロいなぁ思たんや。バカにしてへんで、ホンマに。
 ――一番、好きだから。……残すの。
 
 「……端に寄ってるやつ、一番好きなもんやろ……?」
 「え……? あ……え、やだ恥ずかしい。汚い食べ方ですみません……。え? なんでわかったんですか」
 「……ひひ。いや、じっと見てすまんのぅ」

 エリカはしばし目を泳がせた。彼女によく似たその頭脳が理由を探り当てて、苦々しく微笑んだ。

 「……真島さんは、あの人のそういうところが好きだったんですね」
 「……すまん。……ちと嬉しくなってのぅ」
 「似ているんですか? やっぱり」
 「頭が賢くて美人や」
 「頭が良さそうなのは同意します……いえ、私はそんなにですけど。暗記とかは苦手ですし……。機転は利かないし……。でも……今回の一連の事件を知っていくと……あの人は相当賢い人ですよ。その気になれば……本当に……報復だって出来たと思います。王に……」
 「ああ……俺もそう思う」

 なにせ自殺の手伝いをさせる力を持っていた。
 王汀州は獣の仕業だと説くだろうが、真島はその点について納得いっていない。紛れもなく、吟の素の能力だ。

 「――父の……再婚相手、イヴ・スミスは数年前、別件で死んでいたそうです」
 「……さよか」
 「彼女はCIAで、母が父の勤める会社からデータを組織系列の企業に持ち出してたみたいで。……証拠を得るために父に近寄った。そこで足が着いて……母がお縄頂戴になったようです。……その辺は想定外だったんでしょう」

 エリカがスマホのガジェット設定にしている時計を見て「搭乗手続き、そろそろ行ったほうがいいんじゃないですか」と声を掛けた。真島は来た時と同じように少ない荷物を手に、カウンターまでの道のりをエリカと歩いた。

 「……エリカちゃんは、アメリカにおるんか」
 「しばらくアメリカで……住所は変えますけど、母と一緒に住もうかと。……落ち着いたら遊びに来てください。いつでも歓迎しますからね」
 「おおきにな」
 「………もし、もしも……」
 「ああ」

 エリカは真島を見上げて、悩み抜いた末の言葉を口に表す。

 「あの人が……生きていて、……もしも……私のことを口にしたら。………ベリージャムクッキーって伝えてください」
 「ベリー……?」
 「……昔、少しの間だけレター交換でクイズのやり取りをやってて……私は次第にそれに飽きて、忘れていって、……この間……実家を隈なく探して見つけたんです。……一番最後の問題。ずっと忘れていたんです。……たぶん、その頃の一番好物だったものだと思います。……彼女はそのクイズを私に答えさせて、……私の、誕生日にこっそり母に用意させてたみたいです」

 胸が軋むほどの、ささやかな贈り物。
 娘への誕生日プレゼント。途切れた親子関係。世話を焼くのが好きなホンファが気を利かして始めたことだったとしても、吟は意外と律儀な面もある。
 目頭と鼻を赤くするエリカは涙を誤魔化すように笑う。 

 「すべてを許すことは出来ないけれど。……これが、答えです。…………真島さんは、許せますか?」
 「……ひひ。……どうやろなぁ……」
 「あの人なら、許せなくてもいい……って言います。……それで、許したくなるように仕向けると思います」
 「――ヒッ……ヒヒヒ……!」
 「あはは…………うん。それじゃあ……また。お元気で」

 エリカは真島の手を強く握った。
 往来を移動する大勢の人々の中で時が緩やかになるのを感じた。彼女を背に少し歩いて、ふと――何かを告げたような気がした。

 ――おとうさん――。

 真島が振り返るとまだエリカは顔を赤くしていて、取り繕うように腕時計の時刻を指差した。


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