番外編 1993年5月14日A


  ◆ ◆ ◆



 壁にかかった時計が午後九時を示している。

 賑やかな誕生日になったのではないだろうか。むさ苦しくも狂騒に満ちた熱い誕生日もあれば、一人で過ごすときもあった。
 なによりも、愛する人から祝われる経験は、どんな贈り物よりも特別な感動を与えてくれる。

 夕飯を終えて、居間のテーブルの上では涼が勉強に精を出している。退屈ながらも満たされている時間。こういうものが『家族』のなんでもない日常の風景なのだろうか。常に楽しいわけではないが、居心地のいい空間。得ようと思っても得難いものだろう。

 畳に寝転びながら満喫していると、新聞を読んでいた祖母から声がかかる。

 「そうだわ。真島さん、今晩は泊まっていくでしょ?」
 「決まっとるんかい」
 「あら、ご用事でもあるの?」
 「なんもないで。……というより、ええんか? 涼ちゃんももう一人で歩けるし……」

 勉強に集中する涼には聞こえないように、祖母の近くでひそひそと交わす。
 老眼鏡をかけた祖母は新聞から視線を外さない。一人で歩けるようになれば入浴の介助はいらないだろう。

 「理由がなきゃ、一緒にいちゃいけないなんてことないでしょ」
 「………」
 「それに。お誕生日の翌朝がひとりぼっちだなんて、寂しいじゃない?」

 そう言われて寂しいのは、真島だけではないことを感じ取る。
 十数年の空白はあまりにも大きい。気丈に振る舞っているだけで、ほんとうは誰よりもその孤独を知っているひとの言葉は重い。
 だからこそ真島は、二人の血の繋がった祖母と孫の時間を大切にしたいと思っているが、祖母はその輪に自分も入っているという。遠回しではあるものの、祖母も『家族』として認めてくれているのだとしたら、これ以上の幸いはない。


 「わかった。泊まってくわ」
 「ふふ。そうこなくっちゃ……」

 祖母は老眼鏡を外して、新聞と一緒にテーブルの上へ置くと立ち上がった。
 
 「涼ちゃん、お先にお風呂いただくわね」
 「ん? ああ、そうね。……吾朗さん泊まっていくの?」
 「ええ」

 祖母が居間から消えると、涼とふたりきりになる。
 夕食後、デザートのゼリーを食べる時、かつてないほどの強烈な視線を浴びたがあれは一体何だったのか。好物だったのだろうか。
 そんなことを彼女の華奢な背中を眺めながら思う。

 欠伸を噛み殺し、テレビのリモコンを手繰り寄せると電源を点ける。
 ブラウン管の画面の向こうには、なにやら映画が映っている。半裸の若者が迫りくる大勢の人間をなぎ倒し、吠えている。その若者の背中には真島と同様に刺青が彫られていることから、任侠映画ということが容易にわかる。

 「あ、これ……おじいちゃんの出てるやつ」
 「あ?」

 映画をBGMにうたた寝に陥ろうとする意識が、涼の呟き声によって連れ戻される。
 気怠げに起き上がって、テーブルに凭れる。最盛期である六十年代から七十年代のヒットしたシリーズのなかの一つが放送されていた。
 組同士の抗争、血で血を洗う任侠者たち、アングラな夢が繰り広げられる。映画の世界の享楽。

 画面には大物の階段を登りつつある、中堅時代の荒川権太の姿が映し出される。若者たちの暴力的な反発を、そのまま昇華していくにふさわしい破天荒ぶりを演じている。祖母の以前言っていたように、なかなか左手が映らない。画面の端に見切れていたりするうえ殴り合いのシーンですら上手く隠れている。

 しばらく映画に見入っていると、突然チャンネルが切り替わる。公共放送の天気予報が映った。

 「……今からええとこやのに、なんで変えるん」
 「明日の天気が……気になって」
 「一日晴れやで。降水確率は十パーや」

 涼が握っているリモコンを取ろうとするも、ひょいと後ろに隠すのである。
 急な怪しい仕草に真島は首を傾げる。

 「涼ちゃん、天気予報終わったで」
 「……う、まだ、まだあるから……」
 「勉強しいや、手ぇ止まっとるやんけ」

 にじり寄れば寄っただけ退く。柱に追い詰められた涼の顔は赤らんでいて、背徳的な気持ちにさせる。
 ふと、ある予感が降りてきて、まさかとは思うがそれ以外に差し当たらないので問い詰めてみることにした。

 「もしかして、えっちなシーン苦手なん?」
 「………!」

 はくはくと、なにか言いたそうに口を開いては閉じを繰り返し、例によっては百面相をするのだから図星とみた。
 彼女の過ごしてきた背景を鑑みれば、男と女が致すことなどとは思えるが、それと身内のものは違うのかもしれない。自分の祖父が祖母以外の女を映画の中とはいえ『愛している』のだから、居心地の悪さはあるだろう。

 「あぁ……うん、ほなドキュメンタリーでも見とこ」

 公共放送は地球の動植物のドキュメンタリー番組が始まっていた。
 これなら健全であろう。と、思っていたのも束の間であった。


 アフリカの眩しい夜明け。
 遥か地平線までのびるナミビアの広大な草原。
 長い首をかしげながら草を食むキリン、土を巻き上げながら角を突き合わせるオリックス。様々な動物たちにまじって、その広原のど真ん中に居座るライオンのカップル。そして始まる、交尾シーン。

 「〈ライオンの交尾は一週間のうちに一〇〇〇回にものぼり、ほぼ毎日行われます。単純な計算では十五分に一度のペース、さすが百獣の王といったところでしょう〉」
 
 
 「………」
 「………」


 「〈ライオンの交尾はメスの主導権。できるかできないかはメスのコンディション次第です〉」

 淡々と男の声のナレーションが解説文をもって番組を進行していく。
 なんて間の悪いことか。普段であれば割り切れるものが、その事前の脈絡によって意味深長にみえてくる。
 
 (アカン、涼が固まっとる……!)

 隣りにいる涼はどう反応していいのか困っているのだろう。
 せめて、うんとかすんとか言ってくれればいいのに、ぎこちない沈黙を引きずってしまう。
 真島は痺れを切らして、もはや持っているだけだったリモコンを涼から奪うと適当にチャンネルを変える。

 画面全体に映る、肌色。

 「な、――涼、ピカドンや!」

 勢いに任せて涼の視界を覆うように押し倒すと、リモコンが弾けて畳の上へ転がっていく。
 テレビからは、管楽器の甘くムーディな音楽とともに女優の吐息混じりの喘ぎが流れている。どうにかその音すらも防がなくてはと両耳を塞ぐと、わずかに涼が「んっ」と呻いた。
 仰向けに見上げる不思議な緑がかった清浄の瞳。その瞳孔は開き、潤んでいる。顔全体が赤く、それが先程よりも背徳的な気持ちを際立たせるので、早く終わってくれと叫びたいほどだった。


 「あら、もう始まってるじゃない。もう中盤くらいじゃないの〜」

 そこへ、救世主かなにかもっと別のものか。入浴を済ませた祖母が戻ってきた。
 杞憂なほど祖母はあっけらかんとその濡れ場をみて楽しんでいる。そうして、孫とその男の状態をみても驚くことも厭うことも、なにもしないのである。
 にっこりと笑うのだ。「お盛んねぇ」といって。
 
 
 「ちゃう、ちゃう! ちゃうで、ばあちゃん。なんもしてへんで!?」
 「あら、いいのよ別に。健全な証拠だわ。聖書のお話じゃないんだから、交わらなきゃ赤ん坊はできませんものね」
 「それはせやけど……いや、そうやなしに」
 「ふふ。いいのよ。どっちかお風呂はいってらっしゃい。仲良く二人でいってきてもいいのよ」

 
 図らずしもという場面を誤解されたまま、そのまま居間に居続けることは二人のどちらもできなかった。
 進言通り脱衣所まで流れてくると、涼は軽く息をついた。

 「ごめんなさい」
 「なんで謝るん」
 「い、いろいろ……。誕生日の日が、こんな……」
 「一年に一度、しっかり自分の出生を考える日や。別に間違うてへん」

 なだめるように言うと彼女はすこし笑った。
 そして一拍を置いて、ぎこちなく口を開いた。

 「いっしょに……入る?」
 「……それは、早いんちゃうかのぅ」
 「いまさらじゃ、ない?」
 「………」

 一緒に入れば祖母の言った通りになるのが、やや癪に障るのである。
 そして、図らずしもである。図らずしもであるのだが、男としての境地が試されているのである。
 本日二度目の魔が差した。

 (……トイレいこ)


 祖母は気にしないだろうが、十数年に及んで離れ離れだった孫との団らんを、『家族』の空気を壊すことは無粋だと思う。
 彼女を長く待っていたのは、真島ではないのだから。真島が長く待ちわびているのは、盃を交わした兄弟だけである。

 せめて、彼女が覚悟を定める時までは、その『家族』を守る。そう決めている。
 


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