番外編 1993年5月14日@


 番外編『1993年5月14日』



 庭の植木鉢の中。ピンクに白、その薔薇たちが咲く頃の季節。
 広がった葉がこんもりと塊をなし、点々と星のように散らばっている花をよけて、根本に近くジョウロで雨を降らせる。

 燦々と光り輝く太陽が頭上に照る。
 芳しい花の香りと、陽光の熱。土と様々な世界の色を纏った風のどれもが新鮮で、退院してから暫く経っても心が弾む毎日に「生きている」という感覚を体すべての細胞も喜んでいるようだった。

 入院中に受けさせてもらえた中検の結果は、見事合格であった。
 真島から今後やりたいことはないか、と尋ねられて「大検を受ける」と答えた手前、なんとしてでも受かっていなくてはいけないものであった。
 そんなことから、この庭がのぞめる縁側、縁側の奥の居間とテーブルの上には勉強に必要な教科書類に筆記用具に、様々な書類が散乱している。

 足の火傷は今は包帯から、大判医療用ガーゼを宛てている。歩行機能の回復のため、こうして家の中くらいは歩こうと決めて、勉強が煮詰まると植物の観察をしばしば行っている。祖母は一時間前に訪問のお手伝いさんと一緒に買い物へ出かけていった。家にひとりになると、幼い日の夏休みの日々を思い出す。
 それでも、その頃には祖父が生きていたし、兄も実家が息が詰まると祖母の家で過ごした。
 今は、彼らはいない。この孤独と祖母はずっと過ごしていた。そう思うと、息が詰まりそうな瞬間がある。

 ピンポン、とインターホンが二度鳴る。
 二度鳴らすのは、彼の合図だった。病院の頃かそれより多いときもあるが、真島が午後の前に訪れる。
 わざわざ開けに行くことはしなくていい。この家の鍵を持っているからだ。もし彼でなければ、引き戸の開けられる音はしない。家の周辺には私服警察官によって、警備体制が敷かれている。拉致被害者が社会生活に復帰できる支援の一つらしい。

 「おはよう、涼ちゃん」
 「吾朗さん、おはよう。……どうしたの? そんなにいっぱい荷物抱えて」

 玄関からそのまま居間へ入り、縁側の方へと歩いてくるがその手には持ちきれないほどの百貨店の紙袋やら、ややファンシーな包み紙や、渋く豪快な書体の描かれたパッケージの日本酒やらと様々である。真島はそれらをどっさりと畳のうえへと置いた。

 「んーいや、今日誕生日やからいうて、色々貰ろたんや」

 (た……。誕生日――――!?)

 バリバリと電撃が迸る。
 その衝撃ゆえに、手に持っていたジョウロの中身を落っことしひっくり返すと足に力が抜けて尻もちをついた。

 「せや、おもろいもんある――。……涼! 大丈夫かいな……!?」
 「えっ。ああ、うん……あ、ありがとう」

 すぐ庭に飛び出てきて、涼を引っ張り起こしてくれる相手の誕生日を当日まで知らなかったこと、由々しき事態である。知らないことを訊くタイミングなど、いくらでもあったというのに。これはさすがに不味いが、相談相手になりそうな祖母は今は出払っている。
 尻もちの痛みがじんじん広がるのを堪えて、どうにかしなければと縁側へ戻る。

 畳の上には散らかった教科書類に、真島吾朗の誕生日プレゼントたちで埋め尽くされている。
 高級日本酒、なにか高級そうなものの入った百貨店の袋、英名の高級ブランド、高級ワイン……。などなどと、ざっと数えて数十はある。涼はなんともいえず、額にじんわりと汗が滲む気配を感じていた。

 「どこ行くん?」
 「へ、……あ、ちょっと、トイレ」
 「ふーん?」

 お手洗いまでわずか五メートルの距離だというのに、真島はついてくる。
 それが心配ではなく、誕生日プレゼントを暗に欲しがる行動のようにも見えてくる始末である。

 閉じた便座の上へ腰を下ろすと、「はあ」とため息をつく。
 涼に、あれらのプレゼントを用意することは時間的余裕も、自由も、お金もなにもない。というより、お金はあっても祖母の口座である。戸籍再取得にはいささか事務手続きの時間がかかっている。今月中にはなんとかなるという見通しが立っているが、今日に間に合わない。
 仮に祖母の許可を得た上で、今から銀行にいってお金を下ろすことは可能だが、一人で外出することは許されないだろう。トイレに行くだけでついてくるのだから、外にもついてくるに決まっている。

 ということは、家の中にあるものか、自分自身でできることなど、用意できるものが限られてくるわけである。
 中国の組織にいた頃の話だ。その頭領の生誕祭で、牛か豚を公衆の面前で解体し調理するなどの一種、パフォーマンスを行ったことがある。頭領は大層喜んだし、その他の面々も肉を食べる機会が少ないので喜んだ。
 しかし、ここには牛も豚も鶏もいない。

 庭に罠を仕掛けて、スズメを捕まえて焼き鳥にするのはどうだろうか。
 
 「涼ちゃん、お腹痛いん?」
 「痛くはない、デス」
 「やっぱさっきの……おいど痛いんか?」

 一枚の木の扉越しに真島の心配が続いている。
 さすがに正直に言ってほしいとせがまれたとて、『誕生日を今日知った』などとは口が裂けても言ってはいけないだろう。食べ物ならば辛うじてなんとかなりそうだ。もはや、それくらいしかあり得ない。

 クッキー、シフォンケーキ、マフィン、ジンジャークッキーなどであれば作れる。あれほど嫌だった日曜日のミサやバザーで培った能力が、ここにきて活かされることになろうとは幼き日の涼は思いもしないだろう。もっともシンプルなクッキーであれば、薄力粉と砂糖とバターに卵があればできる。
 冷蔵庫に牛乳が残っているし、牛乳プリンもできるのではないか。
 デザートはそのへんでも構わないが、メインディッシュが乏しい。数十もののプレゼント、高級ブランド品たちのインパクトを思うと迫力がない。
 やはり、やるべきだ。

 「――涼ちゃん」
 
 長考にはいった涼を真島の心配そうな呼び声が現実に引き戻す。
 
 「スズメ食べませんか」
 「は? え、ちょ、な……なんやて? すずめ?」

 この物言いだけでは、まるで蛮行のようであるが、すずめの丸焼きという名物料理は実在する。
 というのは、昔、京都の方へ仕事へいった祖父が食べたことを話してくれたからである。小さくほとんど肉がないので満腹感は少ない。中国では高級品として、秘密裏に食べたりすることがあった。四害撲滅運動のせいでほとんど見かけなくなり、その結果ごくたまに食べられる豚などよりも稀少価値があった。やはり腹を満たすには牛や豚なので、嗜好品に近い。
 

 「めっちゃ言いにくいんやけど、鳥獣保護法にひっかかるで」
 
 真島の冷静な指摘に涼はうなだれる。
 「こっそりやったらええかもしれへん」と言ったそばから犯罪敢行を呟く真島に「やっぱりいい」と押し止める。
 おそらく彼も一度くらい考えたのであろう。シノギに有用ではないかと。しかしそれを法律まで知っているわけだから、シノギには難しかったのだろう。
 スズメがダメであるなら、さてさて困ったものだ。

 「もしかして、焼き鳥食べたいん?」
 「焼き……鳥?」

 名前から察するに、焼いた鳥なのだろう。
 鶏肉料理はクリスマスの食事にのぼる七面鳥、祖母の家に泊まれば晩ごはんに唐揚げが食べられた。
 母はどちらかといえば菜食主義者なところがあり、メインは野菜で肉の代わりに魚をよく食べた思い出がある。

 「うまいもん食わせたるわ」

 真島はおもしろい事を思いついたようで、「ヒッヒッヒ」と笑った。

 

 



 庭の真ん中に用意されたのは、倉庫の奥に眠っていた七輪だった。
 物置に使っていた二階の部屋から大きな荷物を移すことがあり、そのときに見かけたらしい。

 「炭は湿気っとるから天日干しや。これで多少使えるはずや」
 「これで焼くの?」
 「おう。網敷いてのう。余分な脂が落ちて、美味いんやで。魚も焼けるけど、どないする? お昼まだやろ」
 「う、うん……」

 これではちっとも祝えない、とは言えなかった。
 特別な雰囲気はこれっぽっちもなく、日常の範疇である。冷蔵庫には魚の切り身が三つあった。鶏肉も残っているので真島の言うようなことは殆どできそうだった。
 埃をかぶった七輪の手入れが終わり、台所へ真島が入ってくる。
 台所は男子禁制、というルールはこの家には通用しない。というよりも、高齢の祖母に病み上がりの車椅子生活者がいて、何もしないほうがあり得なかった。祖父はその仕事柄、大部屋俳優の頃のほんの下っ端にいた頃は掃除も洗濯も食事の世話も行っていたというし、祖母の不調の頃には家の一切の家事を仕切っていた覚えがある。父はその反面、世話する人というよりはされる人だった。

 「メシはあるん?」
 「朝炊いたのが残ってるから」
 「この量やと、足りひんのぅ……握り飯にしよか。晩飯に丼にしたらええ」

 涼はそれがなんとなく油っ気の多い食事な気がする。サラダでもこしらえて、デザートはさっぱりしたものはいいだろうかと当初の予定を変えることにした。
 次第に誕生日を祝う趣旨が果たせなくなっている。どこかで巻き返しを図らねばならない。そう考えてはいるものの――手詰まりである。

 「下準備任せるで。ネギ切って、鶏肉は酒と塩で揉んどいてや。火ィ起こせるか試してみるわ」
 「うん……!」

 これは、千載一遇のチャンスではないだろうか。
 庭のほうへ消えるのをしっかりと見送って、急いでできることに取り掛かる。
 みかんの缶詰めがある。それにゼラチンを使えば簡易的だがゼリーくらいは作れる。となれば手際よく、真島が戻ってくる前にこなさなくてはならない。こんなに焦ったのは昨年の十一月以来である。 

 ゼリーの仕込みを無事終え冷蔵庫に仕舞う。何事もなかったかのように鶏肉などの下準備作業に移る。涼の心臓はバクバクと早鐘を打っていた。

 「火ィ起こせたで〜」
 「ありがと……う? な、なんで裸なんですか」
 「暑いからのう。おまけにニオイつくし」

 そんな小さな奮闘すらもよそに、真島の陽気な声が響き渡る。
 トレードマークの黄色のヘビ柄ジャケットを脱ぎ、上半身裸の真島が台所の暖簾を潜ってやってくる。
 こうして涼として、間近でその刺青をじっくりと見るのは初めてだった。とくに背中部分は。全体的に、顔である。鬼女と蛇、そして一見色からすれば椿に見えないこともない桜が描かれている。
 刺青及び、タトゥーは日本でこそ忌避されがちだが大陸側や中華圏での規制はゆるく、実際に市井の人々のなかにも刺青を入れている人間はいた。王兄弟も刺青を彫っていて、兄のほうに麒麟、弟のほうに鳳凰がその背中に棲んでいた。
 
 
 「ひひ、……そないじっくり見られると照れるのぅ!」
 「ま、まあ吾朗さんったら」

 おどけた様子で真島が身を捩らせると背中の鬼女の表情が動く。それがほんとうに顔になっているように、怒ったり笑ったりすのだからおもしろい。
 下ごしらえの済んだ、肉とネギの載ったトレーを眺め回して、真島は戸棚のなかから祖母が団子を作るときに使う竹串の残りを手にとった。
 手を洗い、具材と串を左右それぞれに持つと涼に教えるように見せた。

 「あとはこれを、こう。刺して、やな」
 「あっ、これ焼き鳥なんだ」
 「見たことくらいはあるやろ?」
 「うん」

 向こうでは屋台で売っているのを見かけた。これを日本で食べたことはない。『韓来』のまかないでは「美味いものを食え」とまかないの意味とは逆行して牛肉のいい部位なんかを食べさせてもらっていた。

 それにしたって手際が良い。喧嘩姿はみたことがあるけれど、こうした日常で彼のその他の一面が滲み出ていると思う。中国にて、涼の肉体が覚えた経験そのもののように。――主に、後始末や動物の屠殺。日本でこの技術を活かすには畜解体、食肉加工作業あたりだろうか。

 「吾朗さん、屋台でもやったことあるの?」
 「昔、ちぃーっとな。組戻って最初のほんの手伝いみたいなもんや。……ひひ、ほらやってみ」

 串刺し作りを涼に引き継ぐと、真島はタレ作りをはじめた。
 


 炭の中を燻り、赤々と燃える七輪のうえ。
 油で拭った網を敷き、そのうえに串に刺さった肉の塊たちが載せられる。
 肉に火が通ると、タレの入った深皿に漬けもう一度網の上へ転がす。香ばしい匂いが空腹に重ねて食欲を掻き立てる。

 
 「ただいま〜」

 はやく食べたいと待ち構えていると、そこへ帰宅した祖母の伸びやかな声が届く。
 涼は祖母を出迎えるために縁側を離れ、玄関の方へいく。

 「あらあら、いい匂いしてるわねえ。お庭でなにかしてるの?」
 「おかえりなさい。うん、焼き鳥をしようって吾朗さんが……」
 「そうなの。……あ、これこれ。はい、ケーキ! お誕生日ですからね」
 「……」

 お手伝いさんが買い物の袋をせっせと置いてくれている隣で、祖母が差し出したのは白い箱に入ったケーキだった。
 涼は思わず壁に寄りかかる。祖母はきょとんとした顔で「どうしたの? ショートケーキもあるわよ!」と調子がいい。


 (誕生日、知らなかったの私だけーーー!!!?)
 
 
 祖母にはたくさんの感謝を伝えたいけれど、複雑な胸中である。己がもっとも情けないばかりか、どうしてくれようと頭を抱えたくなる。
 至らなさを噛み締めながらケーキの入った箱を受け取りゆらりと台所へ戻り、冷蔵庫に収める。そのむこうの居間ではたくさんのプレゼントに祖母がはしゃぎだした。

 「あらまあ、こんなにたくさん。これ全部プレゼント? ファンレターみたいねえ!」
 「ひひ、せやろぉ? ……ばあちゃん、肉焼けたで!」
 「あら! おいしそう!」

 お手伝いさんに本日分の謝礼を手渡して帰りを見届ける。
 玄関の上がったところにある土壁に背を預けて、ぼんやりと天井を見上げた。あの明るい場所へ戻るには、すこし居た堪れない。
 こういってはなんだが、相性だけでいうなら祖母とのほうが合っている。良くも悪くも表裏のない性格をしていて、身内ながら時折それが羨ましいと思う。
 
 アンニュイな気分に浸っていると、居間の入り口からひょいと身を乗り出した当該の男が涼を呼んだ。

 「なにしとんの? お尻やっぱ痛いん?」
 「それはもう、大丈夫だから」

 行かなければ、と考えているうちに影が射して目の前に高身長が立ちはだかる。
 なにをするんだろうと見上げると、真島はニッと笑ってあっという間に体を持ち上げた。

 「きゃあ! な、な、なにして……! おちる!」
 「落とさへん、落とさへん」
 「吾朗さん……!」

 まさか抱き上げられるなんて想像もつかないではないか。
 真島はいたってその状況を楽しんでいるようだが、一歩動くたびに伝わる揺れが涼の恐怖心を煽る。その落ち着かなさから首にしがみつけば、そうなる絵図を描いていたのか男の唇が触れる。
 涼は咄嗟の出来事に頭の中がまっしろになる。

 「――っふ」

 すぐそこに、祖母がいるのに。
 視界の端に居間の畳が映る。どうかそこに、来ないでほしいと願って。

 頬に触れれば、剃ったあとの髭の、かすかに生えかかったざらりとした感触。
 肌にしみついた煙たいにおいに、甘辛いソースの芳醇な味が舌越しに生々しく伝わる。

 「……かんにん、魔が差してもうた」

 情を誘う物言いに反して、そのエッジの効いた一つの黒目はまだどこか隙を狙っているようにもみえる。
 三度目の甘やかな接吻をして名残惜しそうに離れると、かすかに微笑んだ。

 「ごちそうさま、や」
 「……ソースの味……した」
 「さっき味見したんや。……ひひ、涼ちゃんも食べ」
 
 単純だと思うほどに、さっきまでの患うような気分は霧散していた。
 両足が床につく。居間へ戻っていこうとする背中を追って、涼の体をずっと支えていた腕をひきとめる。

 「……ん?」

 彼は知っているだろうか。
 呼び止めたとき。関心を惹こうとしているとき。掻き乱すほどの甘さをみせていることに。
 視線も、声音も、筋肉の緩みも、すべてが許されていると思うほどに甘い。
 知らなくていい、悟らなくていい。それを知れば、ほんとうに取りかえしのつかない場所まで、堕ちていってしまう。


 「――お誕生日、おめでとうござい、ます」
 
 弱みは隠さなければ。
 どうか、その姿を今は自分の前だけのものであって欲しいと願いながら。



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