嶋野の命令@


 巨大なクジラのような大型船。『海宝大運』という船名。本籍地は香港。白地に墨字で彩られた、どこにでもあるような貿易船。
 快晴を映す鮮やかな青の下、夏の気持ちのいい風に吹かれて、護岸に小波を打ち付けて白い泡をたてている。甲板の上を乗組員と護衛を数人引き連れて歩く三名の人影が射し、陽の真下で一人の女が此方を向いている。

 光の反射で揺らめく水影が、顔にゆらゆらと淡く投影され、その表情が微かながら笑んでいるものと知ると、男も静かに微笑みかえした。
 




  ◆ ◆ ◆




 「ええか、髭剃ってちゃんと腕時計もして来いや。スーツはスリーピースや。タイもちゃんと締めてやな――シャツだけはアカンで」
 「わかった、わかったて。注文多いねん」

 音の籠もる電話越しに、嶋野の音割れしそうなほどの轟音にのって指示が飛ぶ。
 さらなる身装への細かな指定を遮ると、受話器の向こうの男は煩わしさに、一度咳払いをした。


 「あとは、着替えや。そんだけあればエエ」
 「親父。行ってもええけど――俺抜けたら組の方の当番どないするんや」
 「――そないなこと、あとから決めたらエエ。早う来い!」

 嶋野はやや怒り気味に、そう言うと乱暴に電話を切った。
 真島は嶋野組にある応接室で長椅子に気怠げに寝転がりながら、もう聞こえない受話器を、肺に溜まった空気を、ふうっと吐きながら置いた。

 「――……めんどくさ」

 その電話は緊急招集である。
 真島の経験上、この類のものは、たいてい嶋野のアクシデントの尻拭い役をさせられる。――ということを、わかっている。
 行った先でさらなる要求が待っているのだと思うと、憂鬱な気分になった。しかし『早く来い』と言われてしまっては、ご用名通り支度へ取り掛からなければならない。物憂いまま長椅子から起き上がって、吸っていた途中の煙草を、灰皿に押し付けて火を消す。両腕を持ち上げて伸ばしながら、大きく欠伸をした。


 嶋野組、組長――嶋野太から呼び立てられてやってきたのは、五つ星ホテルの最上階フロアのスイートルームだった。

 『礼装を忘れるな』という指示のもと、組の義理事などで使うようなものよりも、もう少し仕立てのいいスーツを着用して真島はやってきた。まだ法規制も条例規制も緩い時代。ならず者のヤクザもホテルを利用できた時代の話である。



 1989年 7月 



 東京、霞ヶ関に最も近い歴史ある五つ星ホテル。普段は海外賓客をもてなすほか、国の重要な行事に使用される。名だたる財閥が出資して創設された高級ホテルである。そのような重厚なあらましに装飾された立派なホテルに、全く縁もゆかりも無さそうな人生を送っている男が、どうしてこんな場所になぜ呼び立てられたのかといえば、接待であった。


 遡ること数日前。
 嶋野は意気揚々とそれを『良い金づる』の者たちへの自信を見せていた。嶋野と行ってきた仕事は向こうからの要望が多く、その力関係では嶋野のほうが上手であった。その自信のまま思いついた計画は、何一つ上手く決まらなかったのだろう。


 昨日も、その前の日も。その日が終わる頃には組へ宛てた電話に真島が呼び出され、愚痴を聞かされた。
 やれ「あいつらは女のよさが分かってへんのや」だの、「懐石料理を馬鹿にしてんのや」だのと自分が金をかけ組んだ『おもしろいであろう』とする『おもてなし』が不評だったことを、あちら側の責任にして文句を募らせた。真島は機嫌を損ねないように『次はあれや、これや』と適当なことを言っているうちに、今日はついに呼び出されてしまったわけである。

 嶋野は『せやったら、お前がやってみろや』と代打と言わんばかりに、バッターボックスへと真島を呼んだ。こちらの得点はゼロ、残すところ七回。まだ余裕があると見受けられるも、相手は変化球に死球を繰り出し容易に打ち返せない。
 仕組まれた計略にまた乗せられたと、気がついたときには遅すぎた。

 (はあ、ホンマあの人はいっつもこうや……)

 組に戻ってきてからはとにかく人使いが荒く、『もういっぺん、キツい仕置きしたろか』と脅し文句を出すのでどうにもならない。
 キツい仕置きというのは無論、一年もいた『穴倉』のことである。嶋野の甚振りに耐え、なんとか極道の世界へ戻ってきたが今のところそれはまだ続いている。

 到着したホテルを見上げると、宵闇のなかシャンデリアのように煌々と輝いている。その感動よりもやはり、やるせなさのほうが上回った。おまけに、梅雨を引きずり、気温は夏を潜めている。正装は湿っぽく暑苦しく、今すぐにでも脱ぎ去りたくなるほど煩わしい。

 嶋野にも自分自身にも溜息をついて、落ちた肩を正し、姿勢を整えると一歩、ホテルへと踏み出した。


 

 こちら側が、金をかけた接待ではどうも気乗りしない。
 ――その接待相手とは、大陸黒社会の青幇の末裔、『藍華蓮』の双腕だった。
 嶋野が折檻施設として持つ『穴倉』の請負を行っていた中華マフィア組織である。


 今年に入り『藍華蓮』の状況が一変し、組織の日本撤退が決定した。嶋野にとっては逃したくないここ最近の正客で、たとえ撤退しようとも懇意にしたい。そのような考えをするのは嶋野だけではない。他にも虎視眈々と重要なルートとして狙う他の組がいて、押しのけ合いに押しのけ合い。我先にと、なんとかこの七月の数週間を使って、五つ星ホテルに缶詰にし、接待を受けてもらうという暴挙に出たというわけである。

 真島はそんなことよりも、神室町で非日常な楽しみに浸っていたいが、親父がそうしろというなら従うしかないのだ。
 かつて自分を拷問にかけた男たちを楽しませろ、とは仕組んだ張本人も、腹の中では愉快に笑っていることだろう。


 

 ドアマンたちのお辞儀を受け、ホテルへ入るとベルボーイが出迎えた。本館のロビーには整然としたシャンデリアが吊るされ、その左右に立つ磨かれた石の柱は周囲の景色を映し出している。上質な空間への入り口に場違いではないか、と不安が過るもラウンジのある方から一つ手を上げた巨漢が真島を見つけて歩み寄ってくる。

 「真島、来たか。五分前や」
 「親父。お疲れ様です」
 「あぁ、ええ、こないなとこで目立ったかて、しゃあない。部屋はもう取ったる。これが、キーや。失くしたらアカンで」

 ポケットに仕舞われていたルームキーを真島に手渡した嶋野はやや安堵したようで、丸めた頭を一撫ですると息を吐いた。真島は今日の日中も上手く行かなかったことを電話口で聞いている。一人は『滝を見に行きたい』と言い出し、もう一人は『鹿を狩りに行きたい。奈良へ連れて行け』と言ったらしい。滝はともかく、奈良の鹿に至っては神の使いに対する冒涜、動物愛護の観点から様々なところから叱られてしまう。

 「親父は泊まらへんのですか」
 「ワシはエエ。あいつら朝早う起きて、抜け出そうとしよる。池の中に棲んどる鯉を食うてみたい、言うて……」
 「鯉て……、まさか錦鯉――」
 「そのまさか、や。――今日はいっぺん帰って寝る。明日昼から来るさかい、よう見張っとれ。明日の昼、一階のラウンジ。――あいつら、仕事はよう出来るし立派なもんやけど、小学校のガキみたいなもんや。庭の木に登らせへんよう」

 その報告をきいて、嶋野への同情を禁じ得ない。
 やることなす事が例え通り、小学生だった。どうも、真島が任されようとしているのは引率の教師の役目ではないだろうか。なるほど、『女に興味ない』だとか『懐石料理を馬鹿にしている』だとかは、大人向けの接待だったというわけだ。それはそれは嶋野にとって相手が悪いだろう。

 
 「タワーの方の三十階や。部屋ついたら、その隣の部屋ともう一つ隣の突き当りの部屋に缶詰にしてある。挨拶しい。あと、護衛っちゅうんか、そいつらがおる時もあるけど、その二つ下の階に一つ部屋に泊まっとる。なんか面倒なコト起きたらそいつらを呼んで、酒を呑ませたったらおとなしゅうなるさかい」
 「……おおきに」

 真島は偏頭痛の気配がして頭の左側を押さえた。




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