嶋野の命令A



 ホテルのタワー棟、三十階。
 温かい色に囲われたエレベーターを一歩出ると、履いてきた靴が柔らかく沈んだ。ロビーとはまた違った絨毯の感触に、それだけでここがどれほど高級な世界なのかを再確認したところで、真島はあくまで仕事で訪れたことを頭を振りかぶって思い出した。

 手にした部屋の鍵のキーホルダーの金色のプレートには部屋番号、『3010番』と彫られている。
 明るい廊下の幅はゆったりと広く、大人が三人ほど歩けるほど。白を基調にした左右の壁は、品のいい西欧のどこか、穏やかな海辺の風景画に水彩画の静物画といった、額装された絵画が出迎えてくれる。

 部屋を目指して、並んだ部屋の扉を交互に見比べる真島のほかに、出歩くほかの客の姿はない。
 外界から隔絶されたかのように静かだった。『3010』の部屋の前に到着すると、鍵を穴に挿そうとしてその背後から『あなたが真島様ですね?』という控えめな声がかかった。瞬時に身を振り向けると、真島と同じ程の背丈の男が白いシャツに黒いスラックスという出で立ちでそこにいた。

 顔つきはアジア系でやや肌は浅黒い。黒い髪は短く前髪を整髪料で後ろへ流し、清潔感は十分な若い男であった。その人物が真島に声をかけたということだけで、それが先方側の護衛人だとわかる。「おう」と返事をすれば、若い男は人好きのする笑顔を浮かべた。


 「はじめまして。私、護衛人の恩梓豪(エン・ジーハオ)と申します。このフロアの二階下の部屋に私ともう一名、恩可馨(エン・クゥシン)といって妻とともに滞在しております。嶋野さまからご連絡をいただきましたので、まずはご挨拶をと思いまして」
 「わざわざ、とんでもない。――後任の真島吾朗いいます」


 真島よりもずっと年若いようにみえるが、こう見えて妻帯者で、かつ、その女の方も同じ護衛人だという。中国人の夫婦。それは大阪の蒼天堀の頃に世話になった、別な中国人夫婦を思い出させた。想定外の過去の想起に真島はふっと笑った。エン・ジーハオはもう一度笑い「とはいっても」と言葉を繋げた。


 「――覚えづらい事と思います。困ったら、恩の男の方、女の方とお呼びくださればわかります」
 「なんやすまんのう。世話になるで」


 男は生粋の中国人なのだろうが、疑うほどには訛りのない日本語に感心する。
 真島にとってこの『藍華蓮』――双腕と呼ばれる、今晩からの接待相手両名にはよい思い出がない。一方的に拷問を振るわれ、なんとか平静を装っているつもりだが、傷ともいえる恐怖心は消えることなく残っている。――もし、彼ら以外に、もうひとりいれば。

 暗がりの小さな独房のなか。唯一のやさしさをもたらした、あの少年の微かな存在を思い出して胸が痛んだ。
 『穴倉』を出て、彼を探ることは不可能だった。数名の男たちが拷問に処されかけている折、王汀州によって切りつけられた。あの時の怯えた表情を忘れられない。同胞にすらも容赦のない冷徹さ、その男の残虐さをそのあと身を持って思い知らされたわけだが。

 己の無力さを呪いながら、こうして思い出になった今も、それが蘇るたびに、あの少年に異常な感情を懐いた、自己の暗い歪みをも顔を出すようになった。
 嶋野はいった。接待相手は男二名だと。事実、このフロアで彼らの部屋は二つ。そして真島の部屋を入れて三つ。護衛人の部屋が階下にあるのは、グレード的な問題か、宿泊費の予算圧迫なのか、別の理由が思い当たった。

 嶋野のことだから、真島に精神的な苦痛を与えるために、もともと彼らの近くの部屋にいた護衛人たちに退いてもらって、その部屋が真島の部屋になったのかもしれない。どちらにせよ、あの少年は死んでしまったということを決定づける真実を、こんな夜に知ってしまった。

 それだけでもう十分なほど、苦痛だというのに。
 真島の暗くなる気持ちとは正反対に、エン・ジーハオは明るく真島の泊まる部屋の説明を始めた。


 「真島さまのお部屋は、コネクティングルームとなっておりまして、隣と往来できるお部屋なのですが……」
 「ああ、繋がっとる部屋やろ? あと『様』はよしてくれや。真島でかまわん」
 「ありがとうございます。お隣の部屋へは立ち入らないでいただきたいのです。それにもう一つ。我々護衛は朝十時から夜の二十二時までが基本業務時間です。その時間外のお申し付けは次の業務開始まで承りかねますゆえ…」
 「わかった。ゆっくり休んでや」


 隣の部屋は男二人どちらかがいる。推察通りエン・ジーハオらは、彼らに近い部屋に宿泊していたようだった。
 護衛といいながら、その仕事の大半は、突拍子もない苦労の連続だろうと想像すると同情の念を抱く。
 左手の腕時計を確認すると二十時を過ぎた頃だった。


 「真島――さん。ああ、夕食はもうお済みでしょうか」
 「いいや」
 「でしたら、我々と一緒にいかがでしょう?」
 

 エン・ジーハオは、にこやかに提案を傾ける。彼に悪気がないことはもちろん、過去の因縁についても何も知らない様子である。再会からまず最初に、晩御飯を共にするというのは、当該人物に催吐させられる拷問を受けた身の上には最上の皮肉だった。「そうだ、お引き止めして申し訳ございません」とエン・ジーハオは謝った。真島はたった今あてがわれた部屋へ入るところだった事を思い出した。


 「お二人に真島さんがいらっしゃったことを、報告しても?」
 「そら、構わへんけど――いや、まず、挨拶するわ」
 「いえいえ。まずお休みいただいてから。時間はたっぷりございます。――どうしても、というのであれば」


 エン・ジーハオは二人がいるであろう部屋の方へ、手を差し出した。
 ひっかかる物言いに、真島は眉を顰めた。厚いドアを数回ノックし「王大哥、王大哥」と呼びかけると、内側からチェーンロックの外れる音がカチャンと鳴った。エン・ジーハオの目配せに従って、真島はそっとドアノブに手をかけ押し開くと、まず最初に独特な香りが鼻をついた。花、あるいはそれが発酵したときのような熟成したなにか。

 薄暗い玄関だった。目につく足元には脱ぎ散らかった紳士靴、衣類。視線を辿らせていくと奥から素早くテニス球がすっ飛んできて、真島が辛うじてそれを避けたことで、後ろに立っていたエン・ジーハオの顔に直撃した。


 「ぶっ!」
 「だ、大丈夫かお前」
 「ふ、ふはははは! あたった! とんだ間抜け野郎ダ――間抜け野郎ダゼ!」


 入り口手前の廊下で膝をつき、顔を擦る青年は「慣れていますから……」といった。
 挨拶に入るのをやんわりと止めたのは、こんな目に遭うだろうと気を遣っていたのだと知る。
 内側でけたけたと笑う男は薄青い中国服を纏い、真島が入ってくるのを待っているみたいだった。エン・ジーハオは立ち上がって部屋へわずかに身を入れると扉のすぐそこにある電源を押して室内を明るくした。


 「泰然様、夕食はいかがしましょう。真島様がいらしたことですし、共にいただこうかと考えたのですが」
 「フーン。別に構わン、なあ兄さん。――メニューは? ああ――でも、めんどうだ、またよくわからない飯を食わされるのは面倒じゃないカ。適当に、そうだな……肉か魚ならどっちがイイ? やっぱり肉カ? なんでもいい? なんでもいい、わかっタ。エン・ジーハオ、ルームサービスとやらだ。レストランの肉をここに持ってこイと言エ」


 真島の立つ入り口からは奥の様子はわからないが、日本語の発話が少々拙い長身痩躯の男は泰然(タイラン)といいその向こうにいる男と相談をして、夕食のメニューを決定した。エン・ジーハオは一礼すると「私は注文をつけて参りますので」と真島に耳打ちした。そうしてその場に一人残されたことで、これから自分一人でこの問題しかなさそうな男たちを、まとめていくのかと思えば胃が痛みだした。

 絨毯の上に転がったテニス球を回収し、部屋に入り直すといつの間にかそこに痩身の男、王泰然がいた。その顔に特定の表情はなく、真島の胸ぐらを掴んだ。咄嗟に振りほどこうとするも、ぐるりと体を引き回し、壁にドンと押し付けると、片方の手に握られていた黒い鉄が額をこつんと音をたてた。

 「ばーん」と口で軽やかな銃声を発し、そうしてまた無邪気な子供のように笑ってみせた。隙を見せれば本当に殺される、その予感に真島の表情は硬いままだった。小学生の児童のような態度は、真島の人生最大の辛酸と、地獄の時をもたらした同じ男だとは、到底理解に追いつかない。
 やがて興味が尽きたように、王泰然は真島を解放し「まあ入レ」と迎え入れた。



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List午前四時の異邦人