しがない会社員である。数年前まで派遣社員だったが、客先常駐から正社員登用が決定し、今に至る。
部下が数人いて、新卒の指導にもあたり、合間に自分の仕事をこなさなくてはならない。ごくごく平均的な会社員の忙しい毎日を過ごしている。
「あぁ……うはぁ……づかれだぁ」
三十路の枯れ果てたおじさんのようなため息を零し、公園にあるウッドチェアに座り込んだ。
この前まで、『ぴっちぴちの二十代です!』なんて宣伝文句で合コンに街コンへと繰り出していた。すっかり、おばさんだと自覚せざるを得ない。なんたって、周囲ではぽつぽつと結婚ラッシュが小ブームで到来。派遣時代に同じ年齢の正社員だった男性社員も、入社した時に同期だった一つ下の女性社員も、いつの間にか結婚を決めていたのだ。
『えー? わたしモテないですよー』とか、平気で言っていたのだ。給湯室で咲かす、世間話という名の社内井戸端会議で、誰よりも地味でおとなしい子だったが、明日はどこそこで〇〇社の社員と合コン、と息巻いている女達を尻目にひょいひょいっと自分に見合う男と大人の階段を登っていった。
みんな彼女を前に『おめでとう』と祝福を述べたが、内心では悔しい気持ちでいっぱいだったに違いない。あるいは、邁進していくエネルギーにも繋がっただろう。
私は決して選り好んだり、高望みをしているわけではない。
顔も、年収も。そこそこだ。そこそこの女だろうし、相手もそこそこの妥協点で結婚できたらいいなと思っている、はず……なのだ。
『ねえ、きいた? 高島さん、経理課の佐藤くんとゴール間近なんだってー!』
『え!? うそ? ほんと〜? また先越された〜!』
今日の給湯室のゴシップは、結婚間近の一組の話題で持ち切りだった。
結婚を目標に奮闘する大半は『またか』、そして『次は誰だ?』と窺っていることだ。この多様性を叫ばれる現代。とくに日本首都圏において、やや先時代的な社会形式にこだわることは少ない。……とはいえ、自分はその徒競走においてはビリを走ろうとしている。自由に生きていく、自由に生きたい、そう考えていながら、形式にこだわっている。なんだかんだ、みんなと一緒がいいと思っている。
気分が落ち込みかけたとき、上司が給湯室に顔を覗かせていた。
『虹川さん、ちょっと』
『はい、なんでしょう』
上司は私を呼び出して、企画の発表が数日後だったのが、急遽明日に変更になったことを伝えた。
『確認だけど、出来上がってる?』と尋ねられて、急激に焦り始める。部下の指導も仕事のうち、自分の仕事も仕事のうち。前日までには終わらせられるだろうと見込んでいたのだから、まだ完成していない。
『すみません。未完成でして……今から急ピッチで、はい。完成させますので』
『あぁ、いいよ。急に変更になったのが悪いんだから。……ほんとに悪いけど、間に合わせてね。頑張って、虹川さんならできるから。それじゃ』
『はい。ありがとうございます』
頭の中の半分を占めていた、結婚だとか、なんだとかが一気に立ち消える。
早く完成させてしまおう。意気込んだところで、また『虹川さん』と呼ばれた。担当している新卒の一人だった。
『す、すみません。あの……今、お時間よろしいですか?』
時刻は午後十一時五六分。
深夜にさしかかる、公園のウッドチェアに一人座り、エナジードリンクを流し込む女。
新卒のトラブル。増やされた仕事、変更となった明日へのプレゼン資料の作成。時計の針だけがぐるぐると障りなく回って、残業へ突入。肝心のプレゼン資料は、実はあと少しだけ残っている。最終確認だったが、この疲労感満載の状態でチェックは諦めて、明日に行ったほうがいいだろう。
そういうわけで、終業後、おじさんのような声になっても仕方がないと思う。
「……仕事…、そう、私には仕事があるんだから」
また一人、二人と結婚していって、誰かが産休に入ってその仕事を代わりにこなす日が来るだろう。
なんとなく、いつか。そう望んでいたことが、自分では当たり前にこなせない。小さな絶望感と、割り切りによって独身のまま人生を終えるのかもしれない。
「はあ……もういいや、帰ろ」
ウッドチェアから立ち上がり、エナジードリンクを買った自販機に寄った。
併設されたゴミ箱に缶を捨てようとしたとき、違和感を覚えた。
「なぁに、これ………770円……?」
憂鬱な頭を振って、もう一度目を凝らしてみる。どう見ても『770円』の自動販売機なのだ。
見本品のドリンクは、見たこともない黄色の気持ち悪い柄のデザインで、一瞬これは夢なのではないかと考えた。
「たっっっっか。……770円?! たっっっか。高すぎる。いやいや、いくらなんでも高すぎるでしょ! なにこの自販機……さっき、ここで買ったはずなんだけど」
高価格帯の自販機が無いわけではない。
さきほど利用した自販機が、悪趣味な黄色の蛇模様一色に変わっている。気味悪がらないほうが普通じゃないのだ。
「……一回くらい、なら……いっか」
もう自分は疲れているのだ。
ヘンテコな夢を視てしまうくらいには。770円が安いか高いかでいえば、得体の知れないものに770円を費やす好奇心料としては安いのかもしれない。
500円玉と、200円の硬貨を投入口に押し出すと軽快な音が鳴った。
どれも同じ商品なので、適当に真ん中から右寄りのボタンをポチッと指に力を込めた。
するとメロディが鳴り始め、ぴぴぴぴ……と表示されているところに、『565656』と並んでいく。何のメロディかわからないが、一際大きな音量が響き渡った。カチャン、カチャンと、自販機に異変が起こっていることは間違いなく――やがて。
「えっ――――」
白い煙が自販機から噴出し、辺り一面、視界一面が真っ白に包まれていった。
「っしゃあ! 真島吾朗――参上やでぇ〜!!!!」
「……っぎゃあああああーーーーっ」
「なんやねん!!! うお、真っ白やないかぁ!!! なんや、なんやこれ!?」
自販機がピカ―っと光ると、たちまち人影が浮かび上がる。
そして、忍者だか、戦隊ヒーローの登場のような豪快な登場をみせたのは、成人男性だった。おまけに関西弁である。しかもちょっとパニックになっているのが可笑しい。私は冷静な観察眼とは裏腹に、素っ頓狂な声をあげた。
「あ、あ、あなた誰なんですかぁ?!」
「誰て、今言うたやん! 真島吾朗や! ……えっらい煙やのぅ……」
白いスモークのなかで、もぞもぞと人影が動く。
「ぎゃ! どこ触ってんですか!」
「お、おぉ、スマン……姉ちゃん、そこにおるんかいな。ボタン押したっちゅーことは、ワシを引き当てたっちゅうことや」
引き当てた?
訳の分からない事を言っている。
「???? は??? ひ、ひき……? ちょっと意味がわかんないんですけど。一本買ったら、もう一本ついてくるとかですか?」
「マァ、そないなトコかのぅ」
自販機のボタンのことを指しているのだろう。そうに違いない。
まったくもって理解が追いつかないが、私が自販機のボタンを押したことで、男性が登場したカラクリは相違ない。
ふと、手の中にある固い感触にハッとして視線を落とした。
「なんですか、これ?」
「なにて、缶バッジや」
「誰ですか、この男性」
「あぁん!? よう見てみぃ! この男前、ワシに決まっとるやろがい!!」
煙の中からぬっと、身を出して詰め寄ってきたのは、身長がものすごく高いいい感じのオジサンだった。
くわっと目を見開いたかと思うと、じっと怖い目つきで睨みつけ、少しだけ腰が引いた。
「……ん? あ、ホントだ。えぇっと……そっくりですね」
「そっくりちゃうねん。おんなじやねんて! 同一人物じゃ。……姉ちゃん寝ぼけすけさんなんか?」
「正常ではないですね。……ん? えーっと、じゃあ……引いたら、真島さん、でしたっけ」
「おう」
「真島さんが、一緒についてくる? ってことですか? 缶バッジが出てきて」
自販機の商品は、珍妙な模様のラベルが巻かれたドリンクだったはずだ。押して出てくるものは、ドリンクでなければおかしいのだが、缶バッジと成人男性の異色の組み合わせが眼前に揃っている。
当の真島さん本人ですら、仕組みが理解できていないのならば、追求も無駄だろう。
「ようわからへんけど、そういう事らしいわ」
「はあ。……えっ? じゃあ、もう一回買ったら、もう一人出てくるってことです?」
「そら、わからん。ワシも出てくるんは、初めてやしのぅ」
私は眉根を寄せて訝しんだ。
良識に基づいて、おかしい事が起こっている。自販機から人間が出てくることもおかしい。冷静な思考であるなら、自販機の後ろに隠れていた変質者、と考える方が自然だからだ。
私は、もう一度自販機を確認してみようと首を振った。すると、その方向にあるはずの自販機は忽然と無くなっているではないか。
「……ほんとに、自販機から? え、あれっ、うそ、自販機……!?」
「あ?」
「自販機なくなってますよ!」
「せやなぁ」
真島さんは呑気な声で肯定した。
「せやなぁ、じゃあないですよ! 真島さん戻れなくなっちゃうじゃないですか! いいんですか? お家が消えたんですよ?!」
「ワシん家は自販機ちゃうわ!」
真島さんは心外だと言わんばかりに吠えた。
不審者と考えてもいいが、こんなに意思疎通できる不審者がいるだろうか。自販機が無くなった。ということは、実は、たまたま公園の路上で出会った人を……。なんとか辻褄を合わせたくて、必死に事実を捻じ曲げようとしたが諦めた。
そして、せめてもの確証を得るために、私は自分の頬を引っ叩いた。
「なにしてんねん!」
「いや、あの、夢を見てるのかなって。でも、これ夢じゃ……」
「夢なワケあるかい! 触ってみろや! ばっちしここにおるやろ」
「え、え? えぇぇ……? うわ、眼帯してる」
「ひひ、かっこええやろ?」
実在している。真島さんに触れた時、その生身の肉感にますます頭が混乱していった。
スモークがすっきり晴れて、彼を見上げると隻眼であることに気がついた。左目を黒い眼帯で覆われている。
「中二病……じゃなくて! これからどうするんですか? 真島さん」
「どうするて、姉ちゃんがワシ引いたんやろ? ほな、姉ちゃんと一緒におるんが筋やろ?」
「ちょっとよく理解できない筋ですね。……缶バッジは、たしかに……私の所有物になるかもですが……生身の成人男性を……えぇっと……いただくのは……? え? これって、どういうことになるんですか?」
「どういう事もあらへん。バッジのオマケや」
私はひたすらに混乱が続いていた。
自販機で缶バッジを購入して、そのオマケにくっついてきた成人男性をそのまま私物として引き取っていいものか。
まず、人間を私物などと言っていいものか。奴隷でもあるまいし、この法治国家の六法全書には記されていないアクシデントに対して、どんな態度でいればいいのだろう。
一周回って、最初の疑念に突き当たった私は、恐る恐る真島さんに尋ねてみることにした。
「………あのぅ。ここで話断ち切って言うのもなんですけど、実は自販機の後ろに隠れてた……とか?」
「しっかり姉ちゃん見とったやろが。ワシが出てきたんは間違いなく自販機やったわ」
たしかに、そうでしたね。
自販機が金色に輝いていました。ウソみたいだけれど、本当のことでしたね。
真島さんの存在にこだわるのは一旦ストップだ。
問題は、彼をどうするかだった。
「どうしよう……、待ってください。………お金とか持ってますか?」
レザー手袋に包まれた手が、同じくレザー質のパンツをパンパンと叩き、財布の在り処を確かめた。
「おう。金くらい……お? あらへんな……」
「…………うち、来ます?」
財布がなければ、ホテルにすら泊まれない。つまり、野宿一択だ。
身元も不確かな真島さんをそのまま夜の街に放置していくのは、私が良心の呵責に苛まれる。
見た目も怖そうだから、犯罪者かもしれないといった防衛意識が少し残るが、『家に来るか?』と尋ねた時、『怪しいヤツ家に上げたらアカンで』とさっき『一緒にいるのが筋』といった言葉の矛盾を生んだ。
ドンキの前を通りかかったとき、私は声をあげた。
「あ、そうだ。あの……着替えとか必要ですよね?」
「気ィ遣てもらわんでもエエで」
「いやいやいや。……必要ですよ、やっぱり。ほら、行きましょう!」
雑然と目眩を起こすような陳列のジャングルを抜けて、衛生品コーナーに駆け込んだ。
後ろを犬のようについてくる真島さんに対して、どこからともなく視線を感じる。
「目立つなぁ……」
明るい下に立つ、細身で高身長の男。
色白で漆黒の髪色のコントラストがはっきりとしている。黄色のジャケットも、一般人では絶対身につけない派手さ。異質な存在感が深夜のドンキでも視線を集めてしまうくらいには、印象深い男性だ。
「ひげ剃りと歯ブラシと、下着と、スウェットの上下と……」
「すまんのう」
「謝らないでください。……そうだ、お腹は空いてませんか? もう食べるところは閉まっちゃってますから……カップ麺とか、パンとかになっちゃいますけど」
「贅沢言わへん」
食料品コーナーで真島さんは潔くそう言った。見た目に反して、物言いははっきりと男らしい。
精算を終え帰路についたとき、私は声を潜めてお願いした。
「真島さん、お願いがあるんですけど。……大家さんに見つかると厄介で……あの、一応一人暮らしですし……」
「おう、了解や」
真島さんは「にししし……」と独特な笑い方をした。
お椀みたいな形をした月が頭上に浮かんでいる。しばらくのあいだ沈黙を置いて、真島さんが口を開いた。
「そういや、姉ちゃん名前はなんて言うん」
「名前言ってませんでしたか? 虹川っていいます」
「虹川水琴、水琴ちゃんか。けど、女のコ一人であないまーっくらな公園で一人おって……危ないで?」
「あー……はい。それは危機感なかったと思います。……今日は残業してたんです。明日の準備で……遅くなっちゃって」
今も危なくないとは言えない。
だが、それを考えること自体が野暮な気がした。それ以上、疑うのは真島さんに失礼だと思った。
家に招き入れると、ますます彼は粗野ではなく、どちらかといえば男前な部類の顔をしていることがわかった。
暗がりでよく見えなかったけど、なかなか濃い顔をしている。
濃すぎることはないが、濃い。自分の語彙力の乏しさを呪う。さっぱりしているようで、目元の濃い男らしい顔をしている。
「お風呂入りますか?」
「シャワーでええ。そない迷惑かけられへん」
今日はもう遅い。今日どころか、明日になっている。
私は買ったばかりである、真島さんに必要なものが入った袋を手渡した。真島さんは丁寧にも「おおきに」と感謝を述べた。
ファンキーな見てくれで、意外と常識を持っているおじ……。
「ん?」
「なんや」
私は漠然と、この綺麗なおじさんの年齢が気になった。
「真島さんって、失礼ですけど、おいくつなんですか?」
「ひひひひ……! なんぼやろなぁ。当ててみぃや」
「え、えーと」
年齢の質問とその回答は相手に失礼である。戸惑っていると、真島さんはキョロキョロと部屋を見渡して、カレンダーを発見するなり大きな声を出した。
「おっ!!」
「え?」
「今日は五月十四日か……?」
「は、はい。十二時越えてるので……」
「実はな、ワシの誕生日なんや」
吃驚仰天。
衝撃的な告白だった。
「え!? おめでとうございます!! なんですか、だったらもっと早く言ってくださいよ! 菓子パンじゃなくて、もうちょっと……コンビニでケーキとか買ったのに!」
私は居ても立っても居られず、冷蔵庫のドアを開けた。
プレゼンが成功したらご褒美に飲もうと決めていた、ちょっとお高めのビールを二本。そのうちの一本を真島さんに突きつけた。
「な、なんやなんや?」
「どうぞ! 乾杯です」
「ひひひ! おおきになぁ。初対面の子ォに初っ端で祝われるんは初めてや」
真島さんは、一つしかない目を綺麗に細め、気持ちよく笑った。
缶ビールのまま乾杯して、遅い夕食を二人で食べることにした。
「このカップ麺旨いのぅ」
「激辛でホントによかったんですか?」
「アッツアツでごっつエエ感じやで。……欲しいんか?」
「美味しそうに食べるなって。あ、辛いのは遠慮します……苦手なんで」
不思議だった。
お気に入りのカップ麺の味が、今日はやけに美味しかった。
「真島さんは、普段なにされているんですか?」
「ワシか? ワシはのぅ」
私の不躾な質問に、真島さんは快く応じて、そのジャケットの内側をぴらっと捲った。
筋肉質な半裸の上に描かれた刺青の模様。ちらっと見えていたそれは、どうやら背中側に続いている。その筋のひとらしい特徴だと思ったが、正真正銘の本物らしい。
「え、まじ? やっぱり……そっち系ですか?」
「ひひひ! そっち系もマジやわ」
カップ麺をゆっくりと噛みながら、気になったことを質問した。
「……指詰めたりとかするって、本当なんですか、ほらケジメで」
「おうおう、あるなぁ。けど最近はせえへんわ。色々ややこしいねん」
「へー。……所属しているトコとかってあるんですか?」
「東城会や」
「トージョーカイ」
全く聞き覚えのない名前だった。
そんな組織があるんだな。……ぼんやりと考え込んでいると、落っことしそうだったカップを手で押さえられる。
「水琴ちゃん、眠そうやで」
「ふぁ……はい。すみません。……明日も仕事なんです」
「せやったら、早う寝なアカンのう。……後始末しとくさかい、歯ァ磨いてシャワー浴びてき」
「いやいや……真島さんにお任せするわけには……」
あーだこーだと負けぬように言い募っていると、真島さんはそっと肩に触れた。
彼の眼差しは真剣だった。太くて濃い眉と、黒い瞳に射抜かれると何も言えなくなった。
「何いうてんねん。健康は資本や。行ってきぃ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
私は承諾した。
真島さん、どう見ても凄みのあるヤーさんだけど、意外と優しい人だ。
人は見かけによらないのかもしれない。
「ハッ……なんじ、………あっ、あああああ……!」
いつの間にか朝になっていた。
覚醒直前の脳裏には残業した頃の記憶が鮮やかに残っていて、今日がプレゼン当日であることを体がはっきりと記憶していた。
携帯に表示された時刻は八時過ぎ。
体が冷たさから一気に沸騰するように、猛烈な熱さによって支配される。
飛び跳ねるように起床し、着替えてから顔も洗わずバタバタと部屋から飛び出た。
遅刻、遅刻ぅ!
憎いことにも、今日はとびっきりの快晴だった。
「プレゼン―ーーー!!!!」
「それじゃ、虹川さん準備はいいですか」
「は、はいっ……い――」
始業時間と朝礼には間に合った。
今日はもう発表さえできれば花丸満点である。会議発表の手前、最終確認の局面になって何かがおかしい事に気づいた。
あれ、あれ?
おかしいぞ。
「えーっと……」
急激に血の気が引いていく。肌が冷やされて鳥肌がポツポツと立ち始めている。
ない。
昨日あんなに頑張って間に合わせたはずの。努力の結晶、プレゼン用のデータ入りUSB。
「少々お待ちください」
落ち着け、落ち着け。
バックアップがPCに残っている。普段よりは丁寧さに欠けるが、もはや時間がない。昨日はアクシデントが多すぎた。
プレゼンはプレゼンターのトーク力で補完が可能。書類任せ、資料任せだけでは成立しない。まだ、終わったわけではない。……そう言い聞かせた。
言い聞かせなければ、冷静ではいられない。
「大丈夫?」
「あ、はい。今、行きます」
迷っている時間はない。ここまで来たのならば、腹をくくる。
いざ。デスクの椅子から立つと、受付担当の社員が顔を出した。
「虹川さんに、至急ですが、……お客様がお見えになっています」
「え? こんな朝早く? アポ入れてないよね?」
「は、はい」
私の頭上には疑問符がいくつも浮かんだ。
会議の件でいっぱいいっぱいになっていたばかりに、もしかしたら忘れていたのか。思わず息を呑んだ。
「あの、どんな方でした?」
「は、はい。男性です。身長が高くて」
「……あ、もしかして、……左目が眼帯でした? 黒の」
「はい! そうです」
受付担当の口にする特徴。それは、もう間違いない。
ま、真島さんだ……!
「すみません。知り合いだと思うので……ほんの数分遅れて行きます」
どうして会社の場所がわかったのか。一体何の用なのか。
推測が尽きないなか、急ぎ足で一階受付へ急いだ。
受付に着くと、やはりそこには真島さんがいた。
相変わらずギラギラした印象を与えるジャケットはそのままだが、さすがに憚られたのか、内側にはスウェットを着込んでいる。
「真島さん……!」
「おう、水琴ちゃん。おはようさん。朝飯も食べんとすっ飛んでいってもうて」
「あの、今すごく急いでて……あれ、その鞄……」
「あ、そうや。昨日とちゃう鞄持って出たやろ? ひひひ。持ってきたったわ!」
「………! ま、真島さぁん! ありがとうございます!」
真島さんの英断。ナイスアシストによって、歓喜に打ち震えた。
もしかしたら、という記憶の捜索のなか、持ってきていた鞄が昨日と異なる違和感に符号した。
どうして、たった今まで気がつかなかったんだろう。
鞄の中身を確認すると、たしかにUSBが入っていた。これで、会議に臨める。
真島さんの気転が利いたおかげである。私は思わず涙がこみ上げてくる気配をぐっと飲み込んで、心の底から彼に感謝した。
「会議なんやろ。ここが正念場や! 気張って来いや!」
「はい!」
真島さんの励ましは、私をよく慰め、背中を押した。
そして、急遽予定変更で実施されたプレゼンは、無事に終わった。
完璧とは言い難い内容物だったが、真島さんの激励から自分を奮い立て発表を乗り切った。
「ねねっ、虹川さん、虹川さん。……今朝の来客の人って……もしかして、彼氏?」
昼食時の食堂。
そこで馴染みの女子社員に声を掛けられた。彼女とはよく、合コンと街コンで一緒になることが多かった。
噂好きの性分であり、朝の出来事に関して耳が早い。探りを入れる眼差しが、生姜焼き定食をつつく箸の動きを遅くした。
「え? いえいえ……とんでもない。……彼氏とかじゃ……」
「え〜っ。でもサ、忘れ物を届けに来てくれたんでしょ? いいって〜隠さなくっても! うちらの仲じゃん!」
「あぁ〜……はは。本当に、彼氏じゃないの。これは本当」
苦笑いでその場をやり過ごす側に回る日が来るなんて、昨日までの私ならあり得なかった。
好奇に満ちた視線は居心地が悪い。たとえ、真実であっても。期待通りの答えを言わなくてはならない、目には見えない圧力を感じる。
真島さんは、………なんだろう。
昨日のことは夢とか、私が疲れてみる妄想でもなんでもなかった。なぜなら、会社の人に存在を確かに見られている。
真島さんは、この世界に存在する。だったら、本当に不思議なことだ。
自販機から出てきた男の人。
忘れ物を届けてくれた人。
同僚の望む答えも、納得のいく答えもなく、私はプレゼンが終わった解放感に満足していた。
「水琴ちゃん……!」
帰り際、昨日の公園に立ち寄ってみることにした。
あの自販機があるかもしれない。小さな希望を抱きながら。しかし、そこにいたのは真島さんだった。
「ま、真島さん……!? どうしてここに………あ! 家の鍵大丈夫ですか?」
「おう、大丈夫や。鍵は鞄ン中入っとったさかい。悪いけど拝借してしっかり戸締まりしたったでぇ〜」
「ほっ……そうですか。よかった……、あの今日は……」
「ええ、エエ。気にせんで」
真島さんは掌を前に出して断ったが、私はちゃんとお礼が言いたかった。
「いえ。本当に助かったんです。ありがとうございました」
「そら、良かったわ。ひひ」
柔い笑みを浮かべて真島さんは笑った。
すると、きゅるるるる。と空腹の音色が腹の内側から聴こえた。
「……お腹空いてるんですか? 鞄の中を見たなら、財布にお金あったのに」
「いくらなんでもアカンやろ。水琴ちゃんの財布や。ワシそこまで腐ってへんわ」
真島さんは申し訳無さそうにも、怪訝そうにも見える表情をした。
本当にこの人はその道の人なのだろうか。
「……ふふ。じゃ、わかりました。これから、夕飯いかがですか? 何か食べたいもの言ってください」
「世話になりっぱなしやさかい、そないな事……」
「何言ってるんですか。お礼です。それに、今日は誕生日だって、仰ってたじゃありませんか。……お祝いさせてください。……真島さんが届けてくれなかったら、すっごく焦っただろうし……上手くいかなかったと思うんです」
真島さんは照れくさそうに頭を掻いた。
昨日買った中にワックスはなかった。整髪剤をつけていない彼の前髪は、少し幼さが増して見えた。
「お祝い、二回めやな。……しゃーない。そこまで言うんやったら」
真島さんは頷いた。
何が食べたいですか、と尋ねると「水琴ちゃんとのメシやったら、なんでも美味いやろ」と、歯の浮くような台詞を気後れせずに口にした。
友達でも、彼氏でもない。突如として現れた真島さん。
毎週末。合コンに身を乗り出していた、私の日常を大きく変える出会いだった。
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