錦山に電話がつながったのは、優子の手術の前日だった。
試みた三回にも及ぶ連絡も、彼は出なかった。四回目にして、ようやく通じたと喜んだのも束の間、まず重たい空気が広がった。
「水琴だな?」
「錦……錦ね? この間は……」
「いやいい。……そんなことより、今から会えないか」
「え?」
柱時計を見れば、夜の帳が下りる頃。
広い玄関一面は灯りをつけているとはいえ、宵闇を家へ招きこんでいる。その日は実家に用があって、一晩泊まる予定だった。北関東の田園の中にぽつりと建つ豪邸と自分で格好をつけるわけではないが、広い邸宅から都心へ出るには気後れするような時間帯だった。
明日は優子の手術だ。
前もって話すことが必要だが、それだけが会う理由ではないだろう。
「……どこで、会うの? 今、実家にいるの。用事自体は終わってるから明日そっちに行く予定だったけど、今から行くわ」
「ああ……ありがとよ。場所は……そうだ、メシは食ったか?」
「まだよ。……わかったわ。また、東京駅で」
電話を切ると、お手伝いさんがそろそろ帰り支度をしている頃だった。
なんとなく耳そばをたてていたのか、にこりと微笑むと「お伝えしておきましょうか?」と申し出たのだった。
「ごめんなさい。……お夕食いっしょにいただけないって、お父様たちにお願いできるかしら」
「わかりました。お車の用意しますね」
「ありがとう」
礼を言って二階の部屋から荷物を引きずって下りてくると、門の前にはタクシーが一台停まっていた。
堂々たる風格を構える駅舎。拓けた広大な広場に規則正しく並んだ街灯。
その一本の灯りの下で、当たり前のように彼はいた。たった数日前の夜。踏んではならないボタンを押した水琴の忸怩たる思いも、呼び覚まされる小さな恐怖も背中に張り付いているが、声をかけるか、かけまいか躊躇いがちに近寄れば先に彼が挨拶をした。
「よう」
思い悩んでいた時間が、まるで雪のように溶けていく。あっという間に姿形を失い、それこそ無為な時間を過ごしたのではないか――小さな後悔すら芽生えた。錦山は吹き抜けるビル風にさらわれて髪を解いた。
「お待たせ。……錦」
「腹減ったろ。なんか食いたいもんあったら言えよ」
「え、ええ。ありがとう……」
錦山の隣を歩くと、彼の質の良いコートの下はお高いスーツに目が向き、革靴はコツコツとよく響いた。はじめはお互い探るように無言を貫いた。優子のことがなければ、しばらく音信不通のまま過ぎただろう。水琴は数日前のおぞましい片鱗を見たことで、すでに由美についての深い詮索は諦めていた。
十五年の時間を甘く見積もり過ぎていたのだ。錦山があの頃の少年のままでない事はわかる。同時に、由美へ寄せていた好意も薄れゆくものだと期待していた。当時、彼が彼女へ捧げるささやかで、愛おしい気持ちを知らないでいたのは朋友、桐生一馬くらいだろう。
十五年の歳月を経ても、錦山の内側で占める水琴の存在も由美ほどではない。それが、はっきりわかった夜だったのだ。
二人分の靴音が奏でる旋律にのせて、錦山が口を切った。
「この間は、悪かった。……逃げるみてえに……いや、逃げたんだ」
「……いいのよ。気にしないで。答えにくいことを、聞いたわ」
「お前は………やさしい奴だよな」
お世辞にしても、遠回しに『甘い奴だ』と言われた気分だった。
その通り、水琴は甘い奴だろう。期待がなければ、たとえ旧知の間柄といえど何度も連絡を交わし、会う約束をとりつけて、ましてや肉親の見舞いも手術の付き添いもしないだろう。錦山は水琴の薄く透明な願望を優れた嗅覚をもって、確証を得ていたのかもしれない。――水琴は急に恥ずかしくなった。
「そうかしら」
「そうだよ。やさしいだろ。……ガキの頃の夏休みの宿題だって、遊びにいっちまえばいいのに早起きしてよ」
「あれは、習慣だったから」
精一杯の言い訳だった。
夏休みの宿題に困るであることはわかりきっていた。彼はいつも賑やかに生きていたし、水琴なりのずる賢い計略の一つだった。夏休みの朝、必然的におしゃべりをする時間を欲しがっただけだ。
「………ねえ、錦」
「なんだよ」
「……やっぱり、私はやさしくなんて、ないわ。だって……」
「……だって、なんだよ。今日の俺は逃げねえよ」
水琴は口に出すか悩んだ。
今さらだった。あんな問いかけをしておきながら、錦山に対する好意を否定しようがない。それはおそらく彼も一緒のはずだと信じた。
打ち明けなければならない。純然たる動機の好意でないことを。――錦山を利用しようとした、浅はかな女であることを侘びなければならない。
「……小さな企てだったの」
「企て……?」
自然と歩みは止まっていた。
「………貴方なら、連れ出してくれる。そう思ったのよ」
「………」
「私達が、再会した日。貴方が気づくよりも先に、気づいていたの。私は」
日本舞踊の発表会。
舞台の袖から会場を見渡した時、あと数分で公演が始まろうとしていた。寸前になって入ってきた数人の男たちの中で彼らは目立った。格好だけで夜の世界の人間だと一目瞭然だった。
「いつからだ?」
「……舞台が始まる前に」
「遅れて来たでしょう」
「ああ」
「一目で、ああ、あれはもしかして、って気づいた」
ほんの直感的な違和感だった。
錦山かもしれない。遠く昔に置いてきた、なぜだかもう縁もゆかりも無い世界に住んでいて、今の自分たちでは混じりあえない境界線を作っていた。
舞台が終わり、予感を確信に変えた時、一つの望みを抱いてしまったのだ。
「でよ、俺には、なにしてほしいんだ?」
「……奪い去ってほしい」
錦山は驚かなかった。
どちらかといえば、疑うような眼差しを差し向けて、水琴のきめ細かい肌の上を這った。
告白はまだ、終わっていなかった。悲観的な将来を唇に灯すと、おのずと震えた。
「……決まった相手がいるの。……許嫁とでもいうのかしら。年齢が二周りも上でね……人柄は落ち着いていて良いと思うのだけど、……結局、私は記号みたいなものでしかないんだって。……周囲を納得させる置き人形であり、埋め合わせの駒。結婚して、戸籍の空欄を埋めて、新しい後継ぎを産んで。……それだけなんだって思ったら窮屈で」
その時、よくある話だと自嘲気味に心の中で毒づいた。
けっきょく―――やっていることは、錦山を取り入って、あわよくば不義理な愛で誤魔化した悪あがきでしかないのだから。
「あの日、遅れてきた貴方をみた時、なんだか輝いていた。……舞台の照明だとか、そんなんじゃない。ほんとうに輝いていたの。それで、……終わったあと、声をかけたわ。私のことなんて、もう、ちっとも覚えていないんじゃないかって、ヒヤヒヤした。……錦は私を覚えてて、あの夏休みのことまで、しっかり。……嬉しかった。あんなに嬉しかったのは、ヒマワリで毎年開かれる誕生日会ぶりだった」
「………水琴」
長い告白を終えると、彼をみた。
同情的で慈愛に満ちた瞳が、そのまま愚かだと言っているようだった。エゴイズムによって、錦山に愛を求めようとした。彼がまだ、別のひとを心に抱いていると知りながら。
水琴はまだ幼い女だった。
けれど、いま新たに、彼の抱えるものの正体を労りたいといった誠実な心が芽生えかけていた。
「とんでもないお願いだと、思ってるわ」
「……なに言ってんだ。……俺は、まだ……十五年前の礼すら、まともに出来ちゃいねえんだ」
意外な言葉だった。
自己開示の報酬としてかすかな期待はあったが、彼にその言葉を口にさせる小さな罪悪感が実現するとは予定になかった。
錦山は地面に映った彼の影を見下ろして、やや吐き捨てるように言った。再び水琴に戻った双眸は凄味が帯びており、乾いた唇から白い煙を踊らせた。
「やるさ。なんだって、してやる。俺は、何をすればいい――」
「…………ありがとう、錦。……なんて言ったらいいか。……嬉しいわ、とっても」
水琴はわかっていた。
次は応酬がくると。世の中は愛だけでは成り立たない。因果応報とは必ず罪状つきで支払い要求する。
だからこそ、言葉の裏に気づかないふりをすることに決めたのだ。
彼が亀の甲羅のように、硬い鎧で自分を守っていることに気づいたのは翌日だった。
昨晩の夕食は慎ましく酒も飲まず、軽い定食だけだった。妹が生きるか死ぬかという時、贅沢をする気分になれないのは当然の情だろう。
優子の手術は昼前から始まる予定だった。
朝九時過ぎ。都内で借りている部屋の電話のベルを鳴らした。ちょうど家を出る寸前で、手にした受話器からは男のすすり泣きが烈しい吐息と一緒に不明瞭に聴こえた。
「どうしたの、錦。……錦? 大丈夫……」
「……っ、水琴……おれ」
「錦……泣いてるの?」
「水琴、……どうしたらいい?」
「錦、しっかりして。今、どこ、どこにいるの……?」
根気強く尋ねると、彼は「びょういん」と一言発した。
涙声から、ぐちゃぐちゃな顔を想像した。弱りきっていた。昨日までの、見えない殻に覆われた彼では考えられないような、狼狽ぶりだった。電話の向こうにいるのは、庇護を求める幼い少年だった。
「すぐに行くからね」
ずっと待ちぼうけの子供の迎えに行く母親のような心持ちで、水琴は一LDKの部屋を出た。
東都大学医学部付属病院。一階の広いロビーの待合椅子に彼はいた。
「錦……大丈夫? ……大丈夫だよ、ねえ。来たよ。……なんか、喋ってよ」
「………水琴か……?」
世界の終わりのように、泣き腫らした男がおもむろに立ち上がり水琴に縋りついた。
外来診療に訪れた患者たちの視線など目もくれず、男が女を抱きしめて泣いているのはいささか格好がつかないが、そうも言っていられない。
「だめだった」
「え?」
夜の世界のかすかな香りを滲ませて、彼は厳かに語った。
優子の手術にあたって、ドナーが見つからず主治医が独自ルートで入手し三〇〇〇万円が必要だと言い、錦山は信じて金をかき集めた。人の縁を踏みにじる行為もして必死で工面したが、つい先ほど本日予定にあった手術が土壇場で中止となった。
水琴は凍りついた。
つまり主治医の日吉という男は、錦山を騙し件の三〇〇〇万円を持ち逃げしたのである。
錦山の絶望は、正しい反応といえた。そして善良な良識を欠く状態にあるとも思った。先ほどから椅子に腰掛けて、何かをぶつぶつと唱えている。先日のあの危うさ、狂気、否、凶気が伝わってくる。
水琴は、向かってはならない方角へ足をのばしてしまいそうな彼の肩に触れた。
額には脂汗が浮き、目の周りの皮膚は赤く、白目は充血し、呼吸は浅いのに弾んでいる。哀れだった。少女の頃、甘やかな愛と夢想に費やした男は哀れな男に成り果てていた。けれど、放っておくことはできなかった。見捨てておいてしまえるほど、傲慢ではなかった。
「わかった」
「わかったって、何がだよ……」
「なんとか、出来るかもしれないから」
ほとんど、目算だ。
その場しのぎともいえる、思いつきでしかない。水琴は、せめて何か言わなければ、彼が細い針金の上から墜落してしまう気がした。
「紹介状を書いてもらうわ」
「何言って……そんな、出来るわけあるかよ。あいつが、日吉が、主治医だぞ?」
「その人がほしいのはお金よ。だったら……そのまま握らせれば良い」
「お前……俺がどんなに、苦労して……っ」
錦山は顔をくしゃくしゃに変えて俯いた。
「おわりだ……」そう呟く彼の肩をもう一度撫でる。主治医のことは詳しくないが、もはやあてにならないだろう。三〇〇〇万はおろか、ドナーさえも無い。今日できなければ、次はいつ? 優子には時間がない。実は無かったドナーのために時間を無為に費やしたことになる。最初から振り出しの状態で、たどり着くはずのないゴールを夢見ながら、あくせくと奔走していた。
「なあ、水琴。こんな事言っちまってなんだが、……俺はお前を悪人にゃしたくないんだ」
水琴がなんとかする。錦山の想像では、悪い計画が浮かんだのだろう。
じっさいは飾りでしかない。なぜなら、水琴は真っ当に生きてきたつもりだからだ。裏世界のことは殆ど父の役割で、役割といっても芸事の世界のいわば興行に必要な人脈でしかない。親戚に医療関係者がいるが、専門は優子の疾患とは異なる。けれど無い袖は振れないし、頼るにはそれしかなかった。
水琴はもう一度、励ました。
自分を鼓舞するよう、ゆっくりはっきりと確かに口にした。
「錦。……優子ちゃんの命が懸かってるのよ」
「……ああ。……飲み下せって言ってんのか……俺に。……俺は、そこまでヤワな男なのか。……情けねえ……なあ」
きっと本音だった。
今までになく、柔らかい声をしていたからだ。本当の彼は、鎧の下の彼自身はこんな人なのだ。
水琴は慰められたような気がした。
「何いってんの。貴方が思うほど、綺麗なもんじゃないのよ」
「………」
「お父様を頼るわ。……忘れた? 堂島組と取引があるのようちの家。意外と世の中、綺麗なものばかりじゃない。使えるものは、なんだって使うわ。……命は安くないんだから」
錦山は驚愕の表情を浮かべ、静かに沈み込むように顔を俯かせた。
「……落ち込まないで。まだ早い。……優子ちゃんは助かる。助けるから、諦めないで」
「……あ、ああ。……ああ……わかった、……わかった」
待合室の椅子で項垂れる錦山は、この世の終わりを体現したかのような茫然自失と、いっそ水琴の申し出に乗ったことで得た安堵すらも感じられた。
せっかく用意した三〇〇〇万円を持ち逃げされたとあっては、心理的負荷は充分だ。錦山はもう十全に戦った。一人で窮地に体を張った。それ以上、口にだすことは鞭打つことと同じだ。
水琴は父を使って広く助けを乞うために、公衆電話の前にたった。
実家の電話を鳴らすと、最初に出たのはお手伝いさんだった。
「……もしもし。水琴です。……お父様はいらっしゃる? 今すぐお話できないかしら……急いでいるの」
父にありのままを伝えた。
友人の妹が手術を受けるにあたって、法外な金額でドナーの交換条件を提示されたこと。また、その用意をしたが担当医が姿を眩ませたこと。
「……弁護士を? それは、あとよ。今は……すぐにでも妹さんを助けたいの。今いる病院でなくてもいいわ。……お金はいくらかかっても。何言ってるのよ、そんなの、私が出すに決まってるじゃない」
父は電話越しにそっと息を吐いた。そして、核心に迫る問いをぶつけた。
「――水琴さんは、その友人がとても大切なんだね?」
「………はい。大切です。……彼は、私に……思い出させてくれたんです。向日葵が太陽のほうをを向くことを」
父は追求しなかった。固くなった呼吸を解き、すべてを飲み下して「まず……」と切り出した。
懇意にしている別の病院の医師に掛け合って、その病院で手術が受けられないか。ドナーを広くあたって集めてくれないかと呼びかけてもらう事になった。水琴は、どんなことでもする。たとえ、非合法であろうとも。心積もりでいたが、現実的な解決に際して、父はあくまでその境界線を越えてはならない、と叱った。
「いいかい。悪魔の姿を真似てはいけない。たとえ、目の前の聖人が悪魔に変身したからといって、自分までそうなってはいけないよ」
「………」
「水琴さんが、その御友人を大切になさっていることは、よくよくわかった。……だから私は、そんな貴女のために可能な限り力を尽くす。そうして、すべてやりきって、どうしようも上手く行かなかったら、神様のお望みではないのだよ」
父は水琴を諭した。
まるで教会で説教を聴いているようだった。しかし、心の何処かで感じていたものを言い当てられて、納得さえしていた。さらに、今までこの養父に対して思い違った見方をしていたことを教えられた。―――むしろ、言葉足らずだったのは、水琴のほうなのだ。
「すぐに手配させる。だけれどね、ドナーは公平であるべきなんだ。いいかい、君まで、その橋を渡っちゃいけないよ」
父との通話はそこで終わった。
水琴は魂を抜かれたように、錦山の隣に座った。身じろいだ気配が『どうだった』と尋ねているようだった。
「説得するつもりが、されちゃったな」
「水琴……?」
「……いい? 最大限努力する。だけど、……欲張っちゃいけないことなのかもしれない。優子ちゃんのために探すけど、待っているのは優子ちゃんだけじゃないの。当たり前のこと、わかりきったことよね。……お金のことは考えないで。その用意はあるから」
「今は、二つの未来について考えよう?」
一つは、優子のドナーが現れた未来。
二つは、優子のドナーが見つからなかった未来。
二人は未来を見据えて語り合い、やがて優子の待つ病室へと向かった。