焦げ臭い。何かが燃えている。
火種が燻り爆ぜては次に燃え移っていく。ジリジリと食い破るように高熱が巡り、肉体の縁を焼き焦がしていく。脂汗が皮膚に膜を作るように張り付いている。また炎が弾ける音が耳のすぐ側でした。黒土を這うように伸びる手足に感覚は途絶えあとは死を待つばかりの時間がスペアーの代わりに誰かの不規則な喘鳴が数えている。
泥と血液、髄液を被り体が重く瞼を持ち上げるのでさえ麻痺がかかり、意識的に筋肉を使うとぎゅっと音が頭蓋骨に伝わり見えもしない視界が真紅に染まった。
「あ……い………」
痛い――――。
走馬灯が駆け巡るのはいつだろう。エンドルフィンは私を苦痛から解放してくれないのか。
『わたし』の上に土嚢のようにみっしりと積み重なるものの中で誰かが助けを叫んだ。誰かが死にたくないと泣いている。
―――姫様。姫様……どうか嘘だとおっしゃってください……。
熱気がまた肌を焼く。薄く開いた瞳の真上の美しいはずの早暁は星の瞬きさえも霞めて真紅の火球が地上へと降り注ぐ。
意識の糸がぷつりと切れ漆黒の闇夜に埋もれていった。
◆ ◆ ◆
a.t.b.二〇〇七 April 神聖ブリタニア帝国
帝都ぺドラゴン・帝立コルチェスター学院
首都の郊外にある大敷地のグリーン一帯に聳え立つ白麗の壁面と深緑屋根に覆われる学舎。勢いよく世界地図を塗り替え軍事力を増す強国、神聖ブリタニア帝国の貴族子弟がモラトリアムを喫し将来の国を支える幹部クラスの精鋭たちが日夜勉学に励み帝王学を学ぶ。帝国ペンドラゴン大学機関と唯一提携する高等教育機関。――六年制の中等科から高等科を備えた男子のみ在籍する帝立コルチェスター学院。
講義科目には座学と軍事演習プログラムを基礎とし、さらに各寄宿舎事の特色から組まれたカリキュラム。軍略・軍事シミュレート及びKMFシミュレーション、軍事研究プログラムが必修カリキュラムとして組み込まれている。生徒数は約七百人。総人口のさらに特権階級上位層の出身の男子を鑑みれば少数精鋭の特別な貴族学院である。
早朝につけたばかりの露が輝く、青々とした芝生を一頭の白馬が駆ける。四八〇キロの立派な体躯と頑丈な脚を持つ馬に跨るのは黄昏時に輝く稲穂の髪色を持つ長身の逞しい青年。コルチェスターの権威と風格を示す、紺碧の生地、金箔糸の釦と縁どりが織り成す一式に身を収め風を受け細かくなびく翠緑のリボン。広大な敷地の外れにある湖畔に辿り着くと報せるように白馬が嘶いた。
一面に広がる清冽な湖は薫風を受け緩やかな波紋を広げる。来訪者の生んだ風によってクリーム色の頁が軽やかにパラパラと捲りあげられていく。はっとして顔を気配の方に向けると誰であるかを知り、咄嗟にコミュニズムについて説いた禁書を木陰に押し込めた。
弛みない所作で下馬し、やはり淀みない長身の影は上空の光の位置から短く伸びゆっくりと近寄ってくる。
「殿下。何故ここが」
「……やあ。ノエル・アストリアス君。私はノーサンブリエ寮の監督生だからね。非行態度には規則に則って処罰が必要なんだよ。わかるね? 」
神が丹念に創り上げた最高傑作があるとするなら、それは彼のことだ。優れた容姿。何事においても非の打ち所がない彼は、その素晴らしいブロンドヘアを擽る風とともにノエル・アストリアスの元へやってきた。統治者の子息。神聖ブリタニア帝国第二皇子――シュナイゼル・エル・ブリタニア。
「私はケント寮の生徒です。わざわざご足労いただきましたが――殿下のお手を煩わせるほどではないでしょう」
「君はここに来て、日が浅いようだから知らないのは当然だ。ノーサンブリエは中央寮だ。すべての寄宿舎の権利を一括管理する。私はその管理者でもあるんだよ」
「……なるほど。それでは、カノン・マルディーニのように鞭打ちに処すので? 先日のように」
カノン・マルディーニは伯爵家の嫡男。純然たる貴族の身分にあり、シュナイゼル・エル・ブリタニアが属するノーサンブリエ寮に彼の籍もある。
シュナイゼル・エル・ブリタニアは含みある微笑みを傾けて「お望みならば」と穏やかな声で言った。
「エンペラー・スカラーとして自覚を持て、と仰りたいのですね」
「コルチェスターにいる限り出自は問わず研鑽に勤しむべし、学院の理念だ。だが、どうだい。今の君は必修カリキュラムを既に三度欠席し課題提出を五つ怠っているね。エンペラー・スカラーは帝国から学資金の援助が行われるが……欠席を四度行えば学資金援助打ち止め、またそれ以上の素行不良があれば退学・除籍処分だ」
彼は監督生として滔々と事実確認を述べた。ノエルはそれまで逸らしがちだった視線を一瞬シュナイゼルに戻した。皇族の特長であるロイヤルパープルの瞳は泰然と不良少年を見据えている。異論など皆無。ノエルはそれまで文武両道・品行方正を貫いてきたがそれを今年から辞めてしまった。理由は様々であるが、その筆頭は衆目を集めるのを嫌ってのことだった。
「要件を満たしていますね。十分に不良生徒として。……殿下にご足労いただいたということは最後通牒ということでしょうか」
「惜しいね。その考えがあるなら改めて欲しいよ。数十年に一人のエンペラー・スカラーだ。自信を持って欲しいね」
「畏れ多いことです。貴方ほどの方に窘められるのは、どうも……」
「ここでは身分は関係ないと言っただろう?」
――とんでもない。人は色眼鏡で見る。シュナイゼルはそうでなくとも、彼の取り巻きや指導教官、多くの生徒が編入生のノエルを最初冷遇していた。血統の王者からは足元の草が見えないのだろう。ノエルは左手を彼の胸の前へと突き出した。
「どうぞ」
「おやおや。私が躾好きの人間だとでも?」
「監督生の役目でしょう」
「ここには私と君しかいないよ。抑止力にさして効果が無いなら無闇矢鱈と振るうものではないとは思わないかい。……だが君は退かないつもりだね」
シュナイゼルは差し出された白魚のような色の手を取り、鈍色の短い金属棒の十手で左掌を叩いた。十度の打擲を受け次第に肌は赤みを帯びていく。ノエル・アストリアスは僅かに眉根を寄せ苦痛をやり過ごした。儀礼的な懲罰を終えてシュナイゼルは何事もなかったかのように十手をサーベルを下げるように腰元の鞘に戻した。湖の縁に寄り、遠くまでずっと続く水面に目を眇めては顔にかかった金色の髪を払った。その後姿を遠慮がちに尾けて頭一つ分背の高い彼の後頭部を見上げた。
「よくここへは来るのかい?」
「寄宿舎では気が散ってしまうんです。……好奇のまなさし。殿下なら慣れっこでしょうか」
「生まれながら自然なことだからね」
シュナイゼルは不審な視線の働きから察したのか、木陰の茂みの中にあるノエルの隠した本をいとも容易く発見しその手に取った。
「フランドロ・ローディック……現代作家だね」
「ご存知でしたか」
「エリア四の名誉ブリタニア人の新進気鋭の作家と聞いているよ。著書の八割を禁書指定を受け一般流通しているのは二流の恋愛戯曲だといわれているね。だが……これは禁書指定の方だ」
フランドロ・ローディックは E.U.から新興国に亡命した肝煎りの共産主義者だったがその新興国が七年前ブリタニア侵攻により敗戦。その後、エリア四となった漂流先の国でその危険思想から投獄され、既出作は発禁。今もなお獄中から執筆している。ローディックは仲間を通じてシュナイゼルの言ったような恋愛をテーマとする戯曲を発表し舞台で上演されている。一定の知名度を誇っていることからシュナイゼル・エル・ブリタニアの耳に入っているのも不思議ではない。
『何故これを?』と興味深げに高貴な紫苑の瞳が煌めく。
もし彼の熱烈な信奉者であったらならば即座に口を割っただろう。それだけの開心術の魔力を持つ恐ろしい青年は、本を開き目次を読んで肩を竦めた。「本とは……その人間の思想を反映する」と遠回しな疑いを穏やかな笑みを浮かべたまま口にした。
「除籍処分ですか」
「それも構わないね。………借りてもいいかな」
「……は? この本をですか」
「ああ。いけないかい?」
その本をどうするつもりか、教官宛てへ報告するのかはたまた――。
シュナイゼルは「個人的興味だよ」といって本を閉じ、そのまま懐へ収めた。
「優秀な学徒の愛読書に興味を持つことはいけないことかな」
シュナイゼルは何もかもが優れている青年だった。
九七年に即位した皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの三番目の子で彼の後ろにも大勢の兄妹がいる。その中であっても最優秀といって差し支えない評判を上げている。おまけに人柄も良く、こうして不良学生相手であっても物腰柔らかく接する。そのため学院内に敵は殆どいなかった。
「さあ、戻ろう。今からだと昼下がりの講義には出席できる。私から担当教官に指導済みだと報告しておくから安心なさい」
「……Yes, Your Highness」
渋々と承諾すると、納得したシュナイゼルは白馬を手繰り寄せた。
「徒歩でここまで来たのかい」
「……厨舎の馬を連れて行くと足がつくでしょう」
「それもそうだね。……では、私の馬に乗るといい」
「……恐れ多いことです」
シュナイゼルの提案を拒むと、よく馴染んだアルカイックスマイルを掲げ無言の命令を下した。馬の尻の方へ向かうと「いけないね」と制止を加えた。
「後ろに乗っては落馬するかもしれないよ。構わず前へどうぞ」
いよいよ諦めるしかなくなったノエルは鞍の前に器用に飛び乗った。白馬は元々大人しい性格なのか、調教が行き届いているのか暴れたりはしなかった。遅れてもう一人分の体重が彼の背に乗ってもそれは同じことだった。馬の毛並みは艷やかで、それはこの乗り手専用馬であるからに他ならず、ノーサンブリエの寮紋にある白百合ほど純潔であった。
二人分の体重に慣れさせるために白馬を緩やかに歩かせて、その間他愛のないやり取りをシュナイゼルは望んだ。
「君にも愛馬はいるのかな」
「……ええ。家に……」
「それはいい。私達の最初の友人だ」
――愛馬である彼は、丸焦げになっていた。
ノエルは自分の手に重ねて手綱を握るブルーブラッドの流れる貴公子の大柄な手を見下ろした。
――この手を期待していた。この指があの人を救うのを待っていた。そうなれば我がカストラリア王国はエリア四にならず済んだのに。なぜ、どうして。それともやはり。
疑問を何度も反芻してきた。
奥底に蓋をした憎悪が音もなく溢れようとした。抑え込むようにノエルは拳をきつく握り込んでやり過ごした。シュナイゼルは背後でその機微を悟り、身を屈めそっと肩越しに確かめた。ふと得も言われぬほどの好い香りが鼻腔に侵入する。彼の香水や生来持ち合わせる肌の香、熱、緩やかな髪の新鮮なシャボンの血を寄せ付けぬ清廉潔白さ。
「どうかしたかい?」
「……いいえ」
長い睫毛がゆっくりと瞬く。あの断崖絶壁の岩肌に寄り添うように咲く花色のような双眼が、ノエルを確かめるように見つめている。
けっして目を合わせようとしない態度を貫くのに、彼は微笑を零した。
「お腹が空いているのだね。空腹は不機嫌の初期症状だ」
――姫様。あなたが愛したこの男を葬り去ること。どうかお許しください。