フラクタル






 a.t.b.二〇〇九 12th January
 カストラリア リダニウム アロンズ・ジュエリー・ミュージアム


 ――宝石の博物館を視察したいわ――
 滅多に連絡を寄越さないその人は、こちらの都合などを考えず、約束の日の一週間前に突如として連絡してきた。
 宝石の博物館≠ニはアロンズ・ダイヤモンド社が本社を置くカストラリア内にあるミュージアムで、その名の通り同社が世界各地で宝石となる石を採掘し、卸あるいは加工し流通させる宝石を展示している。
 その世界各国の採掘地に支社があり、ダイヤモンドで名声を得る宝石産業の第一人者であるグレゴリー・アロンズとハロイド・アロンズの兄弟が、莫大な富を還元建設した私設博物館宝石の博物館≠ヘ、観光地の目玉の一つになっている。
 博物館は高価格設定の入場料にもかかわらず、年間の入場者数は七〇〇万人を記録。入場も予約制で抽選が行われるため、どうにかツテを使って予約をとりたい魂胆だろう。
 特に断る理由もなかったシュナイゼルは、母アーデリントの急な無茶振りに応えるべく、さっそくアロンズ・ダイヤモンド社に連絡を入れ希望日の午後一番からの一時間を貸し切ることに成功した。

 博物館に入るなり、その第一声は室温の暖かさへの感謝の言葉だった。
 「あぁ。暖かい。噂には聞いておりましたけど、こんなに寒いのね」
 アーデリントの全身はロングコートに覆われているが、首元や足許が心もとない出で立ちである。初のカストリア訪問。体は慣れておらず、平地では十分とされず防寒を徹底したとて寒いはずだ。
 館内は地熱で温められ十八度程度を維持しているが、屋外との寒暖差ははっきりと彼女の顔色に表れていた。
 空間照明の仄明るい室内で、シュナイゼルは僅かに首を傾けて提言した。
 「もう少し厚着をなさったほうがよろしいでしょう。母上」
 歩き出したアーデリントに合わせ、シュナイゼルは決まり切った所作として腕を差し出し、母親をエスコートした。
 「そうするわ。……てっきり、子供のあの子が軽装でいられる程度の寒さだと……」
 何年前の話か。
 あのテレビ番組の格好を思い出しているのだろう。
 この国は標高が高いため酸素が薄く、呼吸による熱生産が効率的に行えず、同じ気温マイナス十度であっても平地よりも高地の底冷えの程度は異次元である。
 その気候からか、カストラリア人の特徴に、スポーツ大会に有利な肉体を持つ人が多い。心肺機能が厳しい環境での生活で強化されているためである。
 「昔の話ですよ。当時の王宮は今よりも寒かった。彼女は生まれつき慣れていただけです」
 「そうなの……? ドイツよりも寒い。人が逃げ込む僻地なだけあるわ。……あら。失礼。嫌味ではないわ。事実よ」
 アーデリントの白い肌は赤みが透けていた。
 「この国の人々の忍耐強さには、敬意を表していますよ」
 肉体的な意味でも、精神的な意味でも。
 シュナイゼルは、ガラスケースの中――高い透明度とバーコードのような幾重もの成長痕が刻まれた、天空の水晶――ヒマラヤ水晶を眺めながら呟いた。
 ブラフである王女の暗殺未遂発表から半年。一時混乱は発生したものの、セラペント監獄火災を受けて国内にテロの影を感じ取った国民の沈黙の団結力には驚かされた。まさしく、それは信仰≠ナある。
 ヒマラヤの霊性。極寒の僻地。流浪の民の終着点と歴史。人々がカストリア王家に抱く信仰はこじつけの王権神授説≠ネどでは説明のつかない、それ以上の意味を持つ。――今我々の授かる国難は、神に与えられし試練であると呼ぶ者も少なくない。
 「見学を終えられたら、暖かいコートを用意させますよ」
 「お気遣いありがとうございます。……そうだわ、ディナーは空いているのでしたよね」
 「ええ。この後、二件予定がありますが、十九時頃には片付きます。なにか召し上がりたいものがあれば、なんなりとお申し付けください」
 「そう。レストランでも構わないのよね?」
 「どうぞご随意に。母上」
 館内を順路通りに回りながら、シュナイゼルはアーデリントが鶏肉を好むことをぼんやりと思い出していた。はたとそこで彼は、ある共通点に気づいた。不思議なことに、母と彼の婚約者は食の好みが似ている。高地で育ち、頭脳労働や身体的な運動量の多いティラナの場合、常に体内でエネルギーを燃焼させている。生存本能と褐色脂肪細胞の活性化からくる食欲旺盛な性質だと思っていた。また、本来太陽光で分泌するセロトニンを補うため、甘い物を好むのも彼女がカストリア人であるからだろう。
 ――とくに鴨肉が好きだった。
 欧州人をはじめブリタニア人にとって、鴨は高級食材だ。カストラリア人の常食するタンパク質源食材であると知ったら贅沢だと感じるだろうか。
 「鴨料理の美味しいレストランがありますよ。王宮では少し凝ったものを用意出来ますが」
 「鴨? いいわね、ご馳走だわ。……王宮の食事に舌鼓をうつのは明日に期待していいかしら」
 「わかりました。そのように伝えます」
 シュナイゼルは壁際を背に控える従者に目配せし、レストランの手配をさせた。
 スポットライトの光を受けて、ガラスケースの中のダイヤモンドは、顕微鏡の中の雪片の輝きを思い起こさせる。
 無色透明のクリスタルの中で、彼女の影を追いかけ続ける幻を。

 親子での食事など、一体いつぶりだろうか。
 「鴨のロース、絶品ね。肉厚で弾力があって、甘味のある。ソースの味が複雑で……」
 「お気に召したようで幸いです」
 白いクロスの上には赤ワインの反射が滲み、二重窓からは雪化粧した中庭の草木が夜のインクに溶け込んでいる。
 アーデリントは丁寧に品よくナイフとフォークを動かし、小さく分けて少しずつ食べる。幼い頃から同じように躾けられてシュナイゼルも同じ食べ方をする。機械じみた、味の善し悪しよりも品性を優先した食べ方だ。
 「マトンの煮込み料理は少しスパイシーね。食べやすい。油分もすくなくて。ヨーグルトとジャガイモのサラダが気に入ったわ」
 リダニウム市内の高級レストランの個室での食事は、シュナイゼルも初めてだった。食事は王宮か、地方を回る時は最寄りの別荘地などを利用するし、招待がある場合はその相手お抱えのシェフの料理を楽しむ。
 ティラナとは異なり、アーデリントは量より質だ。彼女の審美眼は宝石だけでなく、食事やファッション、あらゆるものに精通する。
 「こちらの宮廷料理はどうなの?」
 「フレンチを基本に――豆料理と羊肉、鶏肉料理が多いかな。肉料理は一通り。海から遠いと海産物はめったにありません。味付けはカストラリアはその気風から多国籍料理ですよ」
 「このあたりでは珍しく、豚と鶏肉も召し上がるのね」
 「低地なら常食ですが、鶏肉は贅沢ですね。豚は保存できるハムやソーセージを。ドイツ系移民も多いですから」
 「思ったよりも、生活は不自由しなさそうだわ」
 シュナイゼルは返事のかわりに微笑むと、皿の上の鴨肉を切り分けた。
 赤ワインのグラスを傾け、一口含み味わったアーデリントは、磨りガラスの向こうの景色に目を遣った。よく磨かれたガラスに反射する息子の横顔を伺い、ずっと尋ねるのを後回しにしていたことを話題にした。
 「贈り物はなさったの」
 彼はナイフとフォークの手を止め、質問の意図を汲んだ。
 「……贈り物というと、ネックレスのことですか?」
 「あら。物わかりのいいこと。……ええ。あの時は……渡せなかったでしょうけれど。昨年まではお元気そうだったし……十一月のバルコニーの、あのパリュールは……あちらの曾祖母様のお下がりでしょう?」
 「ははは。さすが母君だ。宝石のこととなると、目敏い。よい見識をお持ちでいらっしゃる」
 「当然です。あれは、クイーン・マザー・カタジナの祖母であるマルガレーテ妃が、戴冠式の時にお召しになったパリュールで……」
 「存じていますよ。貴女のご不満も」
 「全くです。渡すタイミングなどいくらでもあったでしょうに」
 家宝である宝石を預けているのに、公の場で宝飾を纏うことなく王宮に引っ込んでしまった王女と、ろくにプレゼントも渡せていない息子に呆れ返っているのだろう。
 戴冠式の計画を組み立てる予定でいた昨夏。昨春のマルカの死亡と、ノエルの逃亡。相次ぐ窮地の連続に、全ての予定を白紙にせざるを得なくなったことを、アーデリントは知らない。ルーヴェンフェルス家による協力は惜しみなく、期待も大きかったことから、アーデリントに失望の声が寄せられている事は想像に容易い。
 そして問題は解決するどころか――肝心の花嫁が市井の雑踏にまぎれて暮らしているかもしれない――などと明かせば彼女は卒倒するに違いない。
 今は真相を腹の中に収めておこうと決めたシュナイゼルに、アーデリントは彼女にしてはようやく見つけたタイミングで息子の誕生日を祝った。
 「誕生日おめでとうございます。シュナイゼル」
 「……おや。もうそんな日でしたか」
 「まさか、お忘れになっていたの? ご自分の誕生日を忘れるには、早すぎますわ」
 誰かが祝いのために声をかけてくれていただろうか。今朝はアーデリントの出迎えや午後からの政務、裏で回している捜査などを気にかけているうちに、忘れてしまっていたようだ。
 苦笑するシュナイゼルを横目に、アーデリントはバッグから出した小包をテーブルにのせた。
 「はは。忙しいと気にならなくなるものですよ。――こちらは?」
 「どうぞ。ご覧あそばせ。……今までは寄宿舎にいて、ろくに祝えもしませんでしたから」
 「それは悪いことをしましたね。……懐中時計ですか」
 懐中時計は既に持っているが、これは金色のものだ。蓋には細かい六角形の花文様。中央にはガーネットが嵌め込まれている。機能性よりもデザインを優先して作られたものである。
 「頂戴いたします。母上」
 気をよくしたアーデリントは冷たい色の瞳を細めた。
 「実は気が楽だったのではございませんの? お誕生日会を開きたがる御兄弟が皇宮には大変多いこと多いこと……」
 「カードだけでも十分ですよ。お返しが大変になる」
 「それもそうですわ」
 兄弟姉妹が多いというのも考えものであると、シュナイゼルは思った。

 リダニウム市内は全てが凍りついたような静寂に包まれていた。
 今晩遅くに少し積もり出すと予報が出ている。宇宙のように暗い頭上から、ちらちらと雪の華が舞っている。
 店先で身嗜みを整えながらアーデリントは「まだ石はお持ちなのでしょう」と尋ねた。
 「石というと、あれですか」
 会話は続いていた。石とは、女王のために大切にしていたブルーダイヤモンドをはじめとする、宝石たちのことである。
 一息にすべて知りたいことを訊いてしまえばいいものを。母なりの、わかりにくい気遣いだった。
 「他になにがあるというのです。大切に仕舞っているのでしょうね」
 「然るべきところで管理していますよ、母上」
 地上の宝石よりも、この国には優れた輝きが天上にある。
 「この国の夜は格別ですよ」そう言い、シュナイゼルは天を見上げた。
 その時、ヘッドライトが眩く光った。
 レストラン前には、見かけは自動車と変わらない小型の雪上車――極地用高機動車が停まっていた。
 主に、兵士や物資を輸送する時に使用されるものを、王宮用に外・内装を改装してあるもので、快適性はリムジンにやや劣るが十分寛げる。アーデリントは物珍しく、よく眺めては感嘆を漏らした。
 「王宮の車にしてはご立派ね」
 「王宮までの道は起伏が多く凍結もありますから、専門家を呼んでいるんですよ」
 「たしかに。それがいいわ」
 専門家とは陸軍の輸送部隊である。 
 シュナイゼルは、ドアを開けて待機する兵士に呼びかけた。
 「待たせて悪かったね」
 「いいえ。足許お気をつけください。殿下」
 アーデリントはシュナイゼルの手に導かれながら、雪上車に乗り込む。その時、眩しいフラッシュが焚かれ、路上を白く染め上げた。
 「……こんな寒い夜なのに精が出ますこと。どこもジャーナリストは同じ。鬱陶しいでしょう、あなた」
 「慣れましたよ」
 後追いでシュナイゼルが入り、その後をさらに護衛と従者を含めて六人が雪上車に乗り込んだ。
 兵士が助手席に戻り、やがて雪上車のモーター音と駆動音がガタガタと車体を揺らす。窓際の席に座るアーデリントが、人影の少ない夜のリダニウムの景色に「この国は、仰々しくなくて気楽ね」と零した。
 「お気づきになりましたか」
 「ブリタニアは肩肘張っていて、形式に拘っているのが……よその国にいくと痛感するわ」
 ブリタニアの保守的なプロトコルは、伝統の喪失の反動だ。
 シュナイゼルは困ったように笑ってみせた。
 「残念ですが、今宵ご宿泊なさる王宮はその格式寄りですよ」
 「承知しています。宮廷とはそういうところです。……ブリタニアと違って、静かなのでしょう?」
 セントダーウィンとて余りある広大な土地にある痴情の楽園だが、アーデリントにはそうでないらしい。
 「二人≠オかいませんから」
 今は影武者すらもいない。余白の多い箱庭である。
 先々代の頃には王宮を含め、敷地内やリダニウムの外れにある離宮に、従兄弟や甥姪など親族が管理の名目で住んでいた。
 「贅沢ですこと。……ご挨拶だけでもと思ったのですけど、それも難しいの?」
 「私が彼女の心情を代弁するのは烏滸がましいですが、寝衣姿を貴女に晒すのは恥じらわれるでしょう」
 アーデリントは「そう」と納得したようにこくんと頷いて、両腿の上の、コートの滑らかな生地の感触を確かめるように撫でた。それ以降、追求することはなかった。
 雪上車は吹雪く前に、王宮に続く斜面をローラーで這い登っていった。
 
 

 a.t.b.二〇〇八 12th January
 帝立コルチェスター学院 


 「あーいたいた」
 彼に呼び止められたのは濁った空。気味の悪い黄土色の迫る十五時すぎだった。
 あれほどノーサンブリエの転寮を拒んだノエルは勝手知ったる庭のように敷地内を歩き回るようになったのは、十二月のマクベス劇の頃からだった。
 三階へ向かう途中。階下からの声にシュナイゼルは翠緑のリボンを揺らし、覗き込むように見下ろした。
 軽い足取りで一気に駆け上がり、抱えていた書類の束を掲げた。
 「……驚いたよ。君か。何の用だい」
 「使いっ走りです。各サークルの運営費予算申請が今日までで、提出してくれって」
 「ご苦労さま。……そうだ、ノエル。例の件は進んでいるかい」
 同フロアに誰もいないことを確認し、シュナイゼルは小さく尋ねた。
 「例の……たくさんありすぎてどれのことだか」
 わかっているくせに勿体つけて、ノエルはくいっと両眉を持ち上げた。
 「製薬会社ですね?」
 「そうだね」
 「問題ありません。上手くやれますよ」
 「期待しているよ」
 代表室に入ると、とっくに消毒作業の終わったはずの室内を警戒し、そわそわと落ち着かない様子で「マイダネットはどこで吐いたんです?」と大層衛生面を気にかけた。
 「心配要らないよ。消毒は終わっている」 
 「……まあ、大丈夫か……」
 ノエルは集めて回った書類の束を執務机に置くと、白く長細いケースを開封するシュナイゼルの手元を窺った。
 「……そちらは?」
 「ん?」
 「プレゼントですか?」
 ケースの中にはチェーンと、幾何学模様の細やかな金細工の中に、赤みの強い宝石がシンボル的に鎮座する。
 「ルビーにしては明るいし、淡い。ピンクトパーズ?」
 「ははは。よくわかったね。……婚約者の方のね」
 夏頃。議会と教会の承認を見越して、正式な婚約発表と会見を行うために、ペンドラゴン銀行の金庫から、金細工のピンクトパーズのネックレスを引き出してきたのだった。その頃には指輪も仕上がっている。――三月の春季休暇で指のサイズを取る予定でいた。
 ノエルは不思議そうな顔をして、首を傾げた。
 「貰ったんじゃなくて?」
 「……ふっ。私が?」
 「だって今日誕生日でしょう。あ、おめでとうございます」
 誰よりもあっさりと彼はシュナイゼルの誕生日を祝った。
 「祝ってくれるのかい? ありがとう」
 ケースに蓋を被せ、プレゼントとなるものは再び持ち主に開けられるその時まで眠りに就く。
 ノエルはうんと唸り「プレゼントに欲しいものって、あります?」と訊いた。
 シュナイゼルは顔を上げ、ゆっくりと眉を下げた。
 率直に困った。
 物に限っていえば、欲がない。
 どんなものも望めば簡単に手に入る。それに、贈り物をこれ以上、寮の部屋に増やすわけにはいかなかった。
 皇宮から兄弟姉妹たちからのメッセージカードとプレゼント。第一にそれらを整理するだけで、仕事の時間を圧迫する。――物を増やすと管理と維持が発生する。そういう時は、ウィルゴ宮の使われていない部屋へ運び込ませる。時期が来れば使用人に下賜するか、付き合いのプレゼントとして手放す。
 長めの間を置いて、シュナイゼルは問い直した。
 「物≠ナ……かい?」
 「大抵は物だと思いますけど。……まあ、今の殿下なら私には捜査結果を求めるでしょうね」
 「……ふふ。そうだね」
 捜査が進めばその先にティラナがいると、思っていた時期だ。
 
 一階のホールに下りると、セッティング中の生徒の何人かが驚いた顔をしてシュナイゼルを振り返った。
 広い円形のホールの柱から柱には飾り付けられ、用意されたいくつもの円いテーブルにはクロスがかり、こんもりと花が生けられている。
 にわかに騒々しくなり、誰が「ネタバラシしたんだ」と囁きあっている。
 「……おや。……ノエルを寄越したのは、時間稼ぎのためだったんだね」
 「いや〜。うっかりネタバレしちゃうところでしたよ〜」
 シュナイゼルの後から階段を降りるノエルが頭を掻きながら戯けた。生徒の一人が「アストリアスお前か!」と叫んだ。
 そこへカートに載せられ登場したのは、背の高いケーキの塔だった。ノエルはそれを見上げて感嘆を漏らした。
 「わあ。製菓部の渾身の五段タワーケーキですよ。殿下!」
 ドリンクを運び出すカノンがテーブルにボトルを乗せて「結婚式のウエディングケーキみたいね」と的確な表現を言い当てた。
 起源は、古代ローマ時代にまで遡る。当初は豊穣を祈願する小麦パンを新婦の頭にかける儀式が大本だった。現在のウエディングケーキ文化が定着したのは、ソフィアン王とアレクサンドラ妃との婚姻が発祥である。
 ノエルは立派なケーキの城に鼻を近づけると、甘さを確認するように匂いを嗅いだ。
 「いい匂い〜。これ、食べられる?」
 「そりゃあもちろん。生ケーキだし」 
 製菓部の生徒が言った。
 銀のトレーに並んだカトラリーの中にある、切り分けるための長いナイフをノエルが手に取ると、柄の部分をシュナイゼルに差し向けた。
 「殿下。ケーキ入刀お願いします」
 ケーキを切らせようとするノエルをカノンが止めた。
 「待ちなさい、ノエル。まだ皆が集まってないわ」
 「えー……人が集まったら熱で溶けちゃうよ。……なに? この音」
 ウィーンと、高いモーター音の反響音にホール内の生徒はあちこち視線を巡らせた。
 その音の発生源がケーキの中からすると気付いたノエルは、身を仰け反らせた。
 「ちょ……ケーキがぐるぐる回るんですけど!」
 「あっは〜! 回ったほうが面白いでしょ?」
 その声は! と全員の視線が一極集中する。小型のリモコンを手に白衣姿のロイドがホールに入ってきては、ドリルのように高速回転するケーキを舐めるように見回した。ノエルは慌てて彼の手のリモコンを奪い取ろうと躍起になった。
 「崩れますって! なんでロイド博士を止めなかったんですか! ……旋回させたら、空気に触れて乾燥は進むし溶けちゃいますって!」
 二人のリモコンをかけた終わりの見えない攻防の背後で、シュナイゼルは面白そうに微笑み呟いた。
 「毒見役は彼かな」
 「食べ物に目がありませんからね」
 やれやれとカノンは首を横に振った。
 ノエルはロイドを羽交い締めにし叫んだ。
 「博士、止めてくださいよ!」
 「え〜せっかく面白いのに〜! ……待って。アレ? 止まんないんだけど! あーあーあーッ!」
 リモコンのボタンをポチポチと押して、回転を止めに入ったロイドだったが、そのコントロールは効かない。彼の顔色はクリームの色のように白くなっていった。それどころか回転速度が増していく。最上段がぐらつき――見事倒壊した。
 「ワッ!?」
 「くぅ〜……ッ! あっはっはっは……! イヒーッ……!!」
 受け止めようと下敷きになったノエルは、ぐちゃぐちゃのスポンジ、ドライフルーツ、クリーム塗れだった。
 制服のクリーニング代は高くつくだろう。
 倒れた拍子に口の中へ入ったものの感想がぽろり。
 「美味しい。……じゃなくて! 博士〜!」
 「あひゃ〜!」
 ナイフを振り回しホール中を追いかけっこする二人をよそに、シュナイゼルは今一度ケーキをじっくりと見た。倒壊した部分はともかく、土台と二段目の可食部分は無事だ。
 「味は問題なさそうだね。残っているところを食べようか」
 洋酒入りのクリームは宮廷のパティシエも思わず唸るであろう出来栄えであった。
 

 懐かしい夢をみた。
 一瞬で過ぎ去ってしまう、儚くも若い時間。
 白銀の朝の光が厚いカーテンの下から覗いている。どこからか子供のはしゃぎ声が響いている。外からだ。
 広いベッドから起き上がり、そっと窓辺に寄り添うと、雪に埋もれた庭園の方で女の子がチョコレート色のワンピースにコートを羽織っただけの格好で走り回っている。その首元で金と赤が揺れては煌めいた。

 ――『雪の華ね!』

 少女は、黒い傘をさしている少年の足元に蹲り、自作の雪結晶透過光観察台に、採取したばかりの雪片を入れた。
 顕微鏡で、雪の結晶を観察するためである。
 寒さなどお構い無しに、積もった雪の上に両膝をついて、彼女は顕微鏡を覗き込んだ。

 ――『基本的に六角形しかないのよ』
 ――『どうして?』
 ――『水の分子は氷になるとき、六角柱の形でくっつきやすいからよ』

 少女は少年と入れ替わり傘を持った。今度は少年が結晶を観察する番だった。
 青い下地にスライドガラス。その上に六角形の放射状の結晶や、様々な形が混ってはくっついた結晶などがみえる。

 ――『この形はなんていうんだい?』
 ――『くっついているのは、付着・併合結晶群っていって……これは板状結晶の併合。クリスマスツリーの葉っぱみたいなのは樹枝状結晶っていうの』

 真面目に誇らしげに少女は滾々と説明を続けた。

 ――『一つとして同じ形はない……フラクタル。自然の美しさが詰まってる。血管の分岐や肺の構造、人体も同じ。宇宙もそう。この世界――宇宙の根源的な法則のひとつ。万物に共通する』

 そして、贈られたばかりの金のチェーンを指でつまみ、愛おしげに最初の宝石を愛でる。

 ――『このネックレスのデザインだってそう。一箇所のデザインが複製されて一つの体をなしている』

 少年は立ち上がった。最初の贈り物の成果と期待を宿した瞳で、彼女を見上げた。

 ――『気に入ってくれたかい?』
 ――『うふふ。気に入ったかって? ……ありがとう。皇子さま』

 照れくさそうにはにかんで、少女は二歩歩み寄っては、少年の頬にキスを贈る。
 そうして、幻は人肌に触れたばかりの砂糖菓子のように消えていく。
 本当に欲しいものは――。
 


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73
午前四時の異邦人
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