はばたき学園、二年目の春。
初めてのクラス替えにざわめく教室の片隅で頬杖をつき、窓の外でくるりくるりと舞う桜を眺める。

今学期は運良く窓際の最後尾というポジションだった。半数以上が羨むその席に座っていると、一年時にもクラスメートだった女の子たちから「野良猫ちゃんいいなぁ」「日向ぼっこし放題だね」なんて声をかけられて、思わず分厚いメガネの奥で目元が緩んだ。私に向かってひらひらと振られる手に小さく振り返すとくすくすと微笑まれ、満足したらしい彼女たちは別の話題に切り替えた。

私は一年生の時に“野良猫ちゃん”なんてアダ名で呼ばれるようになった。一人行動が好きなのと、緩く一本に結んだ髪が猫の尻尾みたいに見えるらしい。悪口じゃないなら良いと許したらクラスの男子にまでそう呼ばれるようになって、男女問わずそこそこの距離で話しかけられる。悪絡みするでもなく、本当に気が向いた時にだけ、一言二言話して放っておいてくれる。人見知りが激しく、接触恐怖症と男性恐怖症なんていう難ありな自分の体質的に、当時のクラスメートの対応は正直ものすごく有り難かった。

その距離感が心地いいと感じ始めた矢先に、二年生に進級してクラス替え。一年生の時に同じクラスだった子は、この教室にたった数人しかいない。またあの居心地の良い空間に戻りたいなぁ。


「あ。あんたは……」


新しいクラスメートたちの声をどこか遠くに聞きながら、早く下校時間にならないかと浅くため息を吐いた時。限りなく近い右隣から低い声が聞こえてきて、視線だけをそっちに向ける。下げていた視線の先に捉えたのは二本の長い足。ゆっくり見上げると背の高い男子が壁のように聳え立っていて、ビクッと肩が跳ねた。


(で、でかすぎでしょ!)


咄嗟に視線を別の方へとやった。これはダメだ、直視できない。一瞬見ただけでもわかる、スラッとした足にガタイの良い身体つき。某映画の巨◯兵と重なって見えた私の目は正常だと思う。
そんな私の心境を察したのかどうなのか、彼は続きの言葉を話す前に隣の席に座った。顔が低い位置に来てちょっぴりほっとする。

座っていても少し見上げなければ視線が合わない。とは言え、私も彼も分厚いメガネをかけていて、視線なんて合ってるのかすらもわからないけれど。
彼は何故か私を知っているような様子だが……。はて。


「……えっと。ごめんなさい、どちら様でしたっけ?」


声が震えないように腹筋に力を入れて尋ねる。
生憎と私の記憶に残っている男子名簿の中に、彼はいない……と、思う。薄いピンクの髪。肩幅もそこそこある大きな体格。この座高からして、立ち並べば30cmくらい身長差がありそうだ。


(……うん。こんな大きい巨◯兵の知り合いなんていなかったハズ)


バクバクする心臓を抑えてそう訝しむ。そんな私に苦笑した彼は、ズボンのポケットから取り出したそれを見せてきた。


「あんた、外部生説明会の時にコレ拾ってくれただろ」

「…………ああ、あの時の」


ごめんなさい、一回会ってました。


* * *


はばたき学園は中高一貫校だが、私は公立中学から受験してきた外部生。初めてはばたき学園に通う生徒には、入学前に登校日が設けられる。学園の校風や校則、年間スケジュールなどの説明会に出席しなければならなかった。せっかくの春休みに面倒だったが、こればかりは仕方がない。

案内係の先生に促されるがままに教室に入り、真面目な顔して説明を聞く。そうすれば、いつの間にか終了の時間になり解散となった。話は半分ほどしか頭に入ってない。頂いたプリントに沿って説明していたし、相当な羽目をはずさなければ何とかなるだろう。今まで授業態度を指摘されたことは無いもの。

帰り支度を済ませて出ていく同級生たちに倣い、私も人の流れに乗って教室を出る。一部の生徒は同じ中学から受験したらしく、卒業式ぶりの顔合わせで盛り上がっていた。私と同じ中学の人も何人かいたはずだけれど、運良く出会わずに済んだ。

賑わう彼らを横切り、校舎を出て一息吐く。建物の外に出ただけで解放感があった。こういった集会や人混みはどうしても苦手だ。偏頭痛を起こさなかっただけまだマシだろう。よく頑張った、私。


(早く帰ろう)


一人てくてくと真っ直ぐ校門に向かう。外壁に立ち並ぶ桜はぽつぽつと咲き始めていて、もうそろそろ満開になりそうだ。入学式にはちょうど見頃だろう。桜を背景にこの学校を描いたら綺麗だろうなぁなんて想像してみる。創作意欲が掻き立てられて、今すぐにでも筆を取りたくなった。

その時、数メートル前を歩く男子から何かが落ちたのが見えた。彼は気付かず校門を出て、右へと曲がって歩いていく。


(……拾った方が良いかな? ゴミならゴミ箱に捨てれば良いし)


駆け寄って拾い上げると、それは赤いパスケースだった。窓の部分から見える学生証に、手触りからしてカードやらその他諸々と、大事なものが挟まっているらしい。ゴミなんかじゃない、絶対落としちゃダメな物だ。ポケットティッシュとかなら捨てようと思ったけれど、これは再び落としておくわけにはいかない。

本来なら左に曲がって帰るところを右へ曲がり、先ほどの男子の後を追う。たった十数秒目を離しただけなのに、もうだいぶ距離が離れていた。こんな時、大声を張り上げられる性格だったならとつくづく思う。が、無いものねだりをしたところで私の性格は変わらない。遠く小さくなった彼の背中を目指して走っていく。距離が縮まらない気がするのは何故だろう?
すると、私の足音に気づいた彼が振り返った。


「はあっ、あ、の……っ」

「え……。俺?」


運動不足が短距離とはいえ走るもんじゃなかった。
ドクドクと煩い心臓と呼吸を整えながら、目の前の彼を見上げて後悔。


(……っ、背、高すぎ……)


別の意味で鼓動が加速した。
180cmはあるだろう身長に、私と同じような分厚いメガネ。どんな目で私を見下ろしているのかはわからない。私が苦手な見た目の男子だ。遠くから見た時は私より少し高いくらいだと思っていたのに、まるでロボット兵のような巨人だった。

つい数週間前まで中学生だったはずだろう。私と同じ外部生なら今十五歳だろう。何を食べたらそんな急成長を遂げるんだ? 立ちはだかる壁ってこういうものなのかな。その長い足、だるま落としして身長低くなってくれませんかね?

色々と失礼なことが頭を駆け巡る。考えてることを悟られないよう、ひとつ大きく深呼吸。目線は彼の顔を直視しないようにしながら、震える手でパスケースを差し出した。


「あの……。これ、さっき落としましたよね」

「え? ……あっ! 俺のパスケース!」


ズボンの後ろポケットに仕舞っていたらしく、そこに収まっていないことをパタパタと叩いて確認すると、私の手からパスケースを受け取る。中身も全部無事なことも確かめて、彼は安堵からため息を吐いた。


「あぶな……、これ無きゃ新生活大惨事だったわ」

「渡せて良かったです。じゃ、私はこれで」

「ん。助かった。わざわざご親切にどうも」


ペコッと頭を下げて足早に来た道を戻る。背中越しに低く落ち着いたテノールの声でお礼を言われたけれど、「どういたしまして」の一言すら返すことはできなかった。


(怖かった……)


背の高い男子は苦手だ。座ってくれるか、自分と同じくらいの高さの男性ならば、まだ堪えられるけれど。身長差がありすぎると身体が硬直してしまう。会話だけだったらギリギリ……。

この世の男性を一纏めに見てしまうのはいけないことだと、頭の中ではわかっている。それでも、過去のトラウマが蘇り、なかなか身体的な拒絶反応は治らない。生きていくのに男性との接触は免れない。高校生活で克服できるだろうか。できなきゃその後の人生に明るい未来は無い気がする。


(どうか巨人並みに大きい人と同じクラスになりませんように……)


克服したい気持ちはあるくせに、心の中では早くも後ろ向きなことを願っていた。


* * *


記憶の奥底に沈んでいた、うっすらと見覚えのある赤。そんなこともあったなぁなんて思い出し、改めて隣のロボット兵改め巨◯兵を横目に見る。やはり座っていても大きい。直視は無理だ。

そんな私の心中など露知らず、彼は真っ直ぐに私を見て口角を上げた。


「あんた、あの日さっさと帰っちゃったからさ。もっかいちゃんとお礼言いたくて。あの時はコレ拾ってくれて命拾いした。ありがとな」

「……どういたしまして」


律儀な人だ。あの日もお礼言ってたのに。怖いなんて思ってごめんなさい。だるま落としとか巨◯兵とか失礼なことめちゃくちゃ考えました。巨◯兵も笑うんだね。あ、失礼。

でも、そうか。今年はこの人と同じクラスでお隣さんなのか。その事実に気づくとちょっぴり緊張した。

こんな大きい人が右隣。教室の扉が彼の肩越しから遠くに見える。これまでの人生で何度も逃避経路を考えてきた頭がフル回転する。窓際の最後尾は良い席だと思っていたが、人という壁はでかい。かくなる上は窓から飛び降りるか。
なんて物騒なことまで思ったところで、イヤイヤと頭を振って否定した。今から逃げ腰になってどうする自分。克服するんだろうが。


「どうかした?」

「いえ、何も」


ぼーっと考え事をするのは日常茶飯事。先程の会話から既に自分の世界に入り込んでいた私だったが、彼の方はまだ続いていたようだ。未だに私の方に身体が向けられている。話しかけてはこないけれど。

話が終わったのなら他のことをしててほしい。他の男子たちとわちゃわちゃやってておくれ。私は今年度の男性恐怖症克服計画でも立てておくから。


「はーい、席に着けー」


ナイスタイミングで今年の担任が入ってきた。そこらで雑談していた生徒たちが席に座り、ざわめいていた空間が一時シンと静まり返る。隣の彼が前方へと身体の向きを直すのが視界の端に見えて、私は小さく息を吐いた。

担任の自己紹介から始まり、クラスメートたちの名前、所属しているクラブ、趣味、何か一言、という在り来たりな自己紹介が続いていく。
この場で全員の名前と顔を一致させられる人なんているんだろうか? 私には無理だ。だってその人が一言言い終わるまでに聞いた名前が抜けていくんだもの。覚えたい気はあるのに情報が右耳から左耳にスルーっと通り抜けていく。せめて苗字だけでも記憶に残さねば、いざお呼びする時に困る。三年生になるまでには頑張って覚えるから勘弁してください。

宜しくと締め括られる度に少しの罪悪感を感じながらも自分の番になり、私も同じように自己紹介する。この中で何人が私の名前を記憶しているんだろう? 自分が覚えてなかったらごめんなさいと、また心の中で謝った。

その後は委員決めや連絡事項でHRを終え、クラブに入っていない者は下校時間となる。半日で終わるのは式典がある日の良いところだと思う。氷室教頭の話が説教臭いのが玉に瑕だけど。

二年生初日の登校日はこうして終了した。



* * *



アパートの二階、階段を登って一番奥の角部屋が、去年から住んでいる私の家。中に入って鍵を閉め、電気をつけてベッドの脇に鞄を置いた。
1Kで小ぢんまりとしたこの空間は、私だけの居場所という感じがしてとても落ち着く。一人暮らしを始めて丸一年。最初こそ不安もあったけれど、今ではなかなか快適に暮らせている。

よく両親が女子高生の一人暮らしを許してくれたなぁと常々思う。


「よいしょ、と」


部屋の隅に積んである段ボール箱を一つ、ローテーブルまで引き寄せる。中身はアクセサリーキット。私のバイト(内職)だ。

他人と関わることに抵抗がある私には、一人暮らしする上で最難関の条件がアルバイトだった。単純な会話だけならまだ何とかなるものの、意見された時の反応や目線を合わせることにもプレッシャーを感じ、酷い時には過呼吸を起こしてしまう。下手すれば面接にすら辿り着けない。自分でも呆れる程に対人関係に弱い人間だ。

そこで目をつけたのが内職で、帰宅後と休日にアクセサリーを作って納品している。公園通りの片隅にある小さなアクセサリーショップのチラシを見つけなければ、今頃引きつった笑みで接客業なんかしていたことだろう。いや、過呼吸起こして早々にクビになっていたかもしれない。
学園にも内職のことは報告しているし、万が一のことも考えて恐怖症についても話してある。なるべく迷惑かけないように大人しく過ごしていれば問題無いとは思うけれど。

ビーズをトレーに出して、一つ一つテグスに通していく。こういう黙々とした作業は余計な考え事をしなくて済む。時間も早く流れていくから好きだ。毎日毎日、同じ物を作っては納品する。休日も他にやりたいことは無いし、この作業に苦痛は感じない。どれくらいが相場なのかはわからないけれど、一日二千円から三千円稼げれば良い方だと思う。好きなことを好きなだけやってお金が貰えるって何か嬉しい。

今までの貯金と収入から、電気・ガス・水道代・その他の生活費は自分で払い、家賃は両親が払ってくれている。両親には私が一人前に稼げるようになってから返そうと決めていた。それまでにはもっと他のこともできるようにならないと。


「……あ、もうこんな時間」


アクセサリーを作っていると、時間があっという間に過ぎていく。そろそろ終わらせて夕御飯にしよう。

食べ終わったらお風呂を済ませて洗濯して、明日の準備をしたら眠る。一年生の頃にできあがった私のルーティンスケジュール。

今年も相変わらずの毎日を過ごすんだろうなと、この時の私は呑気にそう思っていた。