四月も半ばに入った。
桜の花びらも散っていき、青葉が徐々に色づいてきた今日。外は晴天で空色と新緑がこんなにも清々しい景色を生んでいるというのに、私たちのクラスは数学の小テスト真っ最中だった。
新学期早々にテストしないでほしい。とはいえ、私は専ら理数系の人間だから、現国や歴史よりは計算してる方が好きだ。

今日のテストは一年生の時の復習を少々と、先週習ったばかりの証明問題。A3用紙にびっしりと途中式を書いて、解に下線を引く。公式と代入する数字、途中計算さえ間違えなければ答えは出る。単純明快。スッキリした答えが出るから数学は良い。


(お腹減ったなぁ……)


頭を使うとお腹が減るのが早い気がする。今は四限目。これが終わったらお昼だ。教室内は未だにコツコツとシャーペンで字を書く音が響いている。定められた制限時間はあと十分。とりあえず頭からさらっと見直ししようとしたが、途中で飽きた。残り三分くらいは隅っこに落書きして遊んだ。


* * *


「はい、そこまで!」


先生の声で、クラスメートはみんな詰めていた息を吐き出す。わからなかったと嘆く人もいれば、自信有り気な笑みを浮かべる人と様々だ。


「じゃ、答え配るから。隣同士で交換して採点して」


どうやらこの先生は、小テストの採点はしてくれないらしい。この結果は評価範囲外なのか。

お隣さんはあの背の高いメガネの巨◯兵。
……あ、失礼。確か“七ツ森”という苗字の人。自己紹介の時に珍しい苗字だったから、一応覚えている。下の名前は忘れたけれど。

彼とは最初に会話して以来、まともに話したことは無い。というか、私が勝手に大きい人に苦手意識を持っているだけなのだが。だって見下ろされるのがどうしても怖いんだもの。特に私が座っている時。彼には申し訳ないけれど、私が慣れるまでそのままでいてほしい。

七ツ森くんに限らず、私とクラスメートとの距離は相変わらず。つかず離れず、たまに授業でグループを組む程度の関係だ。

七ツ森くんもまた目立つことを避けているようで、他のクラスメートともあまり盛り上がる様子は無かった。まぁいくら大人しくしていても、彼は髪色と高身長で逆に目立っている気もするが。


「よろしく」

「ん。こっちもよろしくお願いします」


お互いにテストを交換して採点し始める。前の席から回されてきた答えのプリントを受け取り、ペンケースから赤ペンを取り出した。

一問目はマル。二問目もマル。三問目は計算途中で挫折した跡がある。四問目は代入する数字が間違っていてかなり惜しい。上に正しい数字を書いてあげて次の答えを見た。


「にゃんこ好きなの?」

「え……?」


五問目にシャッとマルをしたところで、テノールの声が耳に響いてきた。男子の声で“にゃんこ”って聞こえた。それも衝撃的だけど、右からってことはまさか……。

恐る恐る七ツ森くんを見ると、私のテストの左下、時間をもて余して描いた落書きを指差した。


「ぁ……、うん……」

「そっか」


やっぱり七ツ森くんだった。猫のこと“にゃんこ”って言うんだ。面白い。恐怖心がちょびっと薄れた。

いや、それよりもだ。思うままに描いたぐでっと寝そべる猫。「はらへり」なんて吹き出しまでつけていて、私がお腹空いてるのはバレバレだ。恥ずかしい。
せめて顔に熱が集まるのが見られないようにと、引き続き採点に集中しようとした。


「俺、このにゃんこ、なんか可愛くてスキ」

「……!」


彼の感想に動揺して、ちょうど書いていたマルが歪になった。

ただの落書きなのにそんな感想を貰えて、素直に喜んでいる自分に驚く。
もう一度彼の方を見ると、彼もまた私に顔を向けていて、この時初めて目が合った。翡翠? いや、ペリドットっていうのかな? 少し垂れ目で綺麗な瞳だ。髪も全体がピンクなわけではなく、毛先は黒っぽくてお洒落な感じ。

ドクリと心臓が跳ねる。


「え……と…………」


咄嗟に、再び採点するためを装って目をそらした。
直視してくるこの人が、何を思って感想を言っているのかわからなくて怖い。

今のは本心からの言葉? 
どうしてわざわざ伝えてきたの?
何の目的があるの?
私の反応を見て、あとで男子たちと笑うとか?


(……ダメだ、考えるな)


疑り深い自分が嫌になる。せっかく言葉で伝えてくれた彼に失礼じゃないか。嬉しいならお礼くらい言えよ私。

もしも自分が彼の立場だったなら、私みたいな反応の薄い素っ気ない人間なんて、もう相手にしない。最悪、今ので嫌われただろうななんて自己嫌悪に陥った。


「はい、終わったよ」

「あ……、ありがと。ごめん、もうちょっと待って」

「だいじょーぶ。焦んなくて良いよ」


七ツ森くんは不機嫌になるでもなく、さっきと同じく気遣いのある言葉をかけてくれた。ほっと息を吐く。嫌われてはないみたい? 愛想悪くて本当に申し訳ない。


(……! 落書きしてある)


彼からテストを受け取り、なんとなく自分で描いた落書きを見て気づく。猫の横にライオン? みたいな動物が向かい合うように寝そべっていた。吹き出しで「ねみー」って書いてあって、口角がピクッと動いてまた自分に驚く。こんな些細なことで笑うなんて、ここ数年無かったのに。口許を触るが、もう勝手に上がるような感覚は無かった。気のせいかな。


(それにしてもこのライオン……、ライオンだよね?)


たぶん、私の猫を見本に描いたんだろうけど。タテガミを追加しただけだから、耳の大きさも尻尾の形も猫のままだ。この顔、どことなく七ツ森くんに似ている気がする。メガネとったらこんな感じなんだろうか。

採点を終えて、右上に70点と書く。ついでに彼のフルネームも確認した。そうだ、“七ツ森実”くんだ。下の名前を呼ぶことは無いだろうけれど覚えておこう。


(…………お返ししてみよう)


彼にテストを返そうと思って一旦止まり、点数の横にシャーペンで落書きした。他人のテストに落書きするのなんて初めてだけれど、彼もライオンもどき描いてくれたから良いだろう。嫌だったら消してください。

微笑んでいる猫の顔。吹き出しには「ありがとう」。お世辞でも気に入ってくれて嬉しかった。言葉にして直接伝えるのはハードルが高いから、今はこれで許してほしい。

テストを返した時、七ツ森くんは落書きに気づいてふっと微笑んだ。その笑顔が優しくて、知らず知らず強張っていた肩から力が抜けた。



* * *



チャイムが鳴って、やっとお昼の時間になる。教科書とノートを片付けて、テストはクリアファイルに挟んで仕舞った。
あのライオンもどきの顔。ずっと眺めてるとなんかツボったから、今回のテストは記念にとっておこうと決めた。

お弁当の入ったトートバッグを持って立ち上がり、教室を出て外に向かう。暖かい日差しと涼しい風。この時期なら園芸部の畑横の木陰が日向ぼっこにちょうど良い。

眩しすぎず涼しすぎず、暖かい芝生に座ってお弁当箱を開ける。


「……いただきます」


今日は梅のおにぎりに卵焼き、ウインナーとピーマンの炒め物、ほうれん草の和え物にプチトマト。保冷剤で冷やしておいた小さいタッパーには、小さく切ったオレンジとリンゴが入っている。おかずは昨日の夕飯の残り物。おにぎりとデザートは早起きして詰めた。お弁当生活もこの一年で慣れたものだ。


「おっ? 今日はここで昼飯か」


もそもそとおにぎりを咀嚼していると、聞き慣れた声がかかる。園芸部の御影先生だ。一年生の時からたまにここでお昼を食べているから、顔と名前は覚えられてしまった。

御影先生は七ツ森くんより背が高い。初めて会った時は七ツ森くんの時と同じく緊張して、目も合わせられなかったし上手く話せなかった。そんな私を見て、先生は事情があるんだとすぐに察してくれた。近すぎない距離で話しかけてくれるから、今ではなんとか会話っぽい会話ができるようになってきている。

先生は作業着に着替えていて、手には沢山の苗が入ったプランターを抱えていた。小さいけれどクルクルした蔦が伸びているそれは、たぶん夏野菜。


「……きゅうり?」

「おお!? よくわかったなぁ。そうだ。今植えれば、早くて六月頃には美味いきゅうりが食えるぞ。収穫したら食べに来いよ」

「園芸部で食べるんじゃないんですか?」

「あいつらはあいつらで自分の野菜を育ててる。それに、夏野菜はあっという間に成長して大量に収穫できるからな。食べる人数が増えても問題無し」

「……じゃあ、その時はお邪魔します」

「おう! 何なら入部してくれても良いぞ」

「それは遠慮しておきます。部活動する余裕無いので」

「そっか、そりゃ残念」


あわよくばと思ったのだろうけれど、一人暮らしの身には辛い。実家暮らしだったなら考えても良かったかもしれないが、それも無い物ねだりだと考えるのをやめた。

先生はプランターを足元に置き、育苗ポットから丁寧に取り出した苗をふかふかの土に植えていく。「大きくなれよ〜」なんて言葉をかけているその姿は、まるで子供の成長を見守る父親のようだ。

先生の背中を眺めながらのんびりお弁当を食べ終え、ぽかぽかの木漏れ日を浴びていると眠気が襲ってきた。


* * *


「二年生になってどうだ?」

「え……?」


数分うたた寝していた意識が、先生の声で浮上する。

いつの間にか先生は苗植えを終えたらしい。目の前でしゃがんでいる先生の手には、水筒と湯気の立つ紙コップ。紙コップの方をスッと目の前に差し出された。


「クラス替えしたばかりで、気疲れしてるだろう? このハイビスカスティーは疲れに効くんだ。美肌効果もあるから飲んでいくと良い」

「……ありがとうございます」


両手で受け取り、軽く頭を下げる。

鋭い。そんなに顔に出るほど疲れているだろうか。いや、実際は帰宅して落ち着いた頃に偏頭痛を起こしているのだが、学校ではそんな素振り見せてないのに。

温かいそれを一口飲む。ハイビスカスの花は写真でしか見たことが無いけれど、スッキリとした味わいで美味しかった。他のハーブとブレンドしているのか、飲みづらさは無い。先生も私の横に間隔を開けて座り、水筒の蓋をコップにしてとぷとぷと注いで飲んでいる。


「……美味しいです」

「はは、そりゃ良かった。……あんまり根詰めて抱え込むんじゃないぞ。自分でもわかってんだろうけど、お前が考えてるほど他人の言動を重く受け止める必要は無い」


私を安心させようとしてくれているのか、まるで何もかもを見透かされているような言葉だ。

この学園に入学して、私が他の女の子たちのグループに入ったことは無い。お昼もずっと一人だし、授業でグループ活動する時は声をかけてもらうこともあるけれど、基本的に一人で行動している。いじめられているとかではなく、私自身が単独行動が好きだから。そういうとこから“野良猫ちゃん”なんてアダ名がついたのだ。

私の恐怖症のことも、御影先生は学園から伝えられて知っている筈だ。私がそれを克服したいと思っていることも。わかっているからこうして構ってくれるのだろう。それでも、こんな風に寄り添ってくれる先生は初めてだった。だって、今まで会ってきた先生は……。


(……やめよう)


これも考えても無駄だ。さっきもそうだったけれど、過去を思い出すんじゃない。たった今重く受け止めるなって言われたばかりじゃないか。

先生のご厚意を素直に受け入れようと、残りのハイビスカスティーを一気に飲み干した。


「またここで弁当食べる時は、ハイビスカスティー飲みに来いよ」

「……はい」


先生の優しさは嬉しいのに、私の思考はプラスとマイナス両方を考えてしまう。ハイビスカスティーの後味は、ちょっぴり酸味が強かった。